断罪よりもドレスが大事!婚約破棄されましたが、お構いなく!

桃瀬ももな

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「……アン。深呼吸をなさい。私のドレスのヴェールが、あなたの荒い鼻息でわずかに揺れているわ。静止画のような完璧さを保ちなさいと言ったでしょう?」


「お嬢様、無茶を言わないでください! この、世界中の宝石を糸にして織り上げたようなドレスの着付けを任されて、緊張しない人間がどこにいますの! 手が震えて、最後の一本のピンが刺せませんわ!」


ノア公爵邸の聖堂の控室。
そこには、人類の服飾史を数百年分飛び越えたような、神々しい「何か」が鎮座していた。


リアが纏うのは、カシアンが一生分の魔力と技術を注ぎ込んで織り上げた『極光の繭(オーロラ・コクーン)』。
見る角度によって白から銀、銀から淡い虹色へと移ろうその生地は、もはや布という概念を超え、光そのものを身に纏っているかのようだった。


「……よし、完璧ですわ。アン、ピンを貸しなさい。……これで、私の左肩から流れるドレープの角度は、黄金比に基づいた四十二・三度に固定されましたわ」


リアは、鏡の中の自分を見て満足げに頷いた。
そこには、かつて「悪役令嬢」と呼ばれ、婚約破棄に涙……する暇もなく布のシミを気にしていた少女の姿はない。
自らの足で立ち、自らのハサミで運命を切り拓いた、一人の「表現者」の姿があった。


「お嬢様……。本当にお綺麗です。……婚約破棄されたあの夜、私はお嬢様がどうなってしまうのかと心配でしたが……。まさか、お父様を脅して……失礼、交渉して資材を奪い、隣国の公爵様を技術で陥落させ、こんな素敵な場所まで辿り着くなんて」


アンが目元をハンカチで押さえる。


「あら、失礼ねアン。私は最初から最後まで、自分の『ドレス愛』に従っただけですわよ。……さあ、行きましょう。カシアン様……いいえ、私の最高の『素材』が待っているわ」


重厚な聖堂の扉が開かれた。


会場を埋め尽くすのは、隣国の貴族たち、そして下町でリアの腕に惚れ込んだ職人たち。
皆が一斉に立ち上がり、そして、次の瞬間には静まり返った。
あまりの美しさに、誰もが声を出すことさえ忘れてしまったのだ。


バージンロードの先で待つカシアンは、リアの姿を認めた瞬間、わずかに目を見開いた。
彼は、自分が織った布が、リアという命を得てこれほどまでに輝くことを、誰よりも確信していた。


「……遅かったね、リア。あまりに君が来ないから、途中でドレスのデザインを修正したくなって逃げ出したのかと思ったよ」


「ふふ、そんなわけないでしょう? カシアン。……ただ、あなたのタキシードの光沢に負けないよう、最後にダイヤモンド粉末で微調整をしていただけですわ」


二人は祭壇の前で、互いの手を取った。
神父が誓いの言葉を述べる間も、二人の視線は互いの「愛」よりも、互いが纏っている「布地の質感」に注がれていた。


「……健やかなるときも、病めるときも。その糸が解けるまで、互いを敬い、愛することを誓いますか?」


神父の言葉に対し、リアは最高に晴れやかな笑顔で答えた。


「ええ、誓いますわ。……カシアンが私に最高の布を与え続ける限り、私は彼の隣で世界一のドレスを仕立て続けます。……それが、私なりの『愛』の証明ですもの!」


「……僕も誓おう。リアのハサミが僕の心を切り刻んでも、僕は何度でも新しい情熱を織り上げよう。……君のクリエイティビティを支える、世界で唯一の『土台』であり続けることを」


二人の誓いは、やはりどこまでも職人気質だった。
しかし、その言葉の重みは、どんな甘い愛の囁きよりも確かな絆を感じさせた。


「……では、誓いのキスを」


カシアンがゆっくりとリアのヴェールを上げた。
最高級のレースが滑り落ち、二人の顔が近づく。


「……リア。愛しているよ。君のデザインも、君のハサミの使い方も……そして、君自身も」


「……私もですわ、カシアン。……でも、今からするキスで、私のリップがあなたの襟元に付かないよう、角度は精密に計算してくださいね?」


「……了解した。〇・一ミリの狂いも許さないよ」


二人の唇が重なった瞬間、会場は割れんばかりの拍手と、祝福の花吹雪に包まれた。


一方、その頃。
本国の辺境にある、風吹き荒れる羊毛生産地では。


「……っ、チクチクする! この毛玉だらけのセーター、もう我慢ならん! 誰か、誰か私のために、シルクのシャツを持ってきてくれー!」


泥にまみれ、羊に囲まれながら叫ぶウィルフレッド王子の姿があった。
隣では、大量の洗濯物に囲まれたシャーリーが「殿下ぁ! 愚痴を言っていないで、この汚れを落とすのを手伝ってくださいましー!」と喚いている。
彼らにとっての「真実の愛」は、現実という名の、非常に手触りの悪い日常へと姿を変えていた。


さらに、王宮の洗濯場では。
「……あぁ、リア様の言う通り、この汚れはアルカリ性の洗剤でないと落ちないわ……」と、かつての「聖女」が涙を流しながら、一生分のシミ抜きに励んでいた。


数年後。


隣国の公爵邸には、新しいアトリエが増築され、そこから生み出される「ラ・メール・ノア」のドレスは、世界中の女性たちの憧れとなっていた。


「カシアン! 大変ですわ! この新作のベルベット、起毛の方向が不自然ですわ! 今すぐ織り機の設定を見直しなさい!」


「分かっているよ、リア。今、その問題を解決するための新しい銀糸を開発している最中だ。……それより、さっきから僕のシャツのボタン、また一つ増やしただろう? 着心地が変わるじゃないか」


「あら、気づかれました? あなたの姿勢が少し改善されたから、よりタイトなシルエットを楽しんでいただこうと思いまして」


二人の日常は、相変わらず喧嘩のような技術論と、それを上回る深い尊敬と愛情に満ちていた。


リアはアトリエの窓を開け、心地よい風を浴びながら、自分の指先に光る指輪と、手にしたハサミを見つめた。


「……婚約破棄された時は、どうなることかと思ったけれど。……やっぱり、ドレスがあれば、私はどこまでだって幸せになれるわ」


「……ドレスだけかい?」


背後から、カシアンが彼女を優しく抱き締める。


「……ふふ。ドレスと、それを支える『最高に頑固な布オタク』がいれば……ですわね」


リアは、カシアンの胸元に寄りかかり、満足げに目を閉じた。
彼女の人生という名のドレスは、今、最高に美しいドレープを描いて、未来へと続いていく。


一点のシミもなく、一ミリの狂いもなく。
最高の愛と技術で縫い上げられた、彼女だけの物語が。
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