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「……隣国の、ゼノス公爵?」
私は計算機を握りしめたまま、目の前の男を凝視した。
アステリア公爵家といえば、隣国の経済を牛耳る「鉄の金庫」と謳われる名門だ。
その当主がなぜ、他国の卒業パーティーの裏側で、令嬢の馬車に不法侵入しているのか。
「いかにも。もっとも、君にしてみれば不審者の闖入(ちんにゅう)による精神的苦痛の損害賠償、といったところだろうか。……とりあえず、これを」
ゼノスと名乗った男は、金の装飾が施された懐中時計を確認すると、革張りのアタッシュケースから一束の紙を取り出した。
「何かしら、これ。……融資の申込書?」
「いいや。私と一緒に仕事をすることのメリットを数値化した、事業計画の叩き台だ。君の先ほどの立ち振る舞いを見て確信した。君は、王子の婚約者なんていうボランティア活動で腐らせていい人材ではない」
私は差し出された書類をひったくり、高速でページをめくった。
利益率、市場独占率、減価償却の推移……。
「…………悪くないわね。でも、フォントが小さすぎて可読性が低いですわ。あと、この人件費の計算が甘いわ。福利厚生をケチると離職率が上がって、結果的に採用コストが増大しますのよ?」
「ふ、ふふ……。初対面の私の書類に、速攻で赤字を入れるとは」
ゼノス公爵は、口元を歪めて笑った。
その目は、美しい女性を見るというよりは、非常に珍しい高価な宝石を見つけたコレクターのような、狂気的な輝きを帯びている。
「いいだろう。そこも含めて修正案を出してくれ。ただし、条件がある。今すぐその馬車を止めろ」
「嫌ですわ。私はこれから王宮へ向かい、国王陛下に直接、あの愚か者の債務を請求しに行くのですから」
「それなら好都合だ。私も国王に用がある。ついでに君の『債権回収』、特等席で見学させてもらおう」
図々しい男である。
だが、隣国の有力公爵が証人として同席するなら、王家も安易に私を黙らせることはできないはずだ。
私は計算機で弾いた損益分岐点を確認し、御者に「王宮の執務室へ」と命じた。
深夜の王宮。
突然の令嬢の訪問に衛兵たちはうろたえたが、横にゼノス公爵が控えているのを見るや否や、道を開けた。
第一王子の父、この国の王であるヘンリー三世は、寝巻きの上にローブを羽織った姿で私たちを迎えた。
「……アマ嬢、こんな夜更けに何事だ? リュカがパーティーで何か不手際でもしたのか?」
「『不手際』なんていう可愛い言葉で片付けられる規模ではありませんわ、陛下」
私は、先ほどリュカに突きつけたものより三倍は分厚い「最終報告書」を机に叩きつけた。
「息子さんの婚約破棄を承認いたしました。つきましては、ゴールドマン侯爵家がこれまで王家に提供してきたすべての経済的支援の即時返還、および慰謝料の請求に参りました」
王は、眼鏡をかけ直して書類を手に取った。
数秒後、彼の顔から血の気が引いていくのがわかった。
「な……。なんだ、この額は! 国家予算の三割に相当するではないか!」
「妥当な数字ですわ。陛下、思い出してください。昨年、王宮の屋根を修繕した資金はどこから出ました? 南の街道を整備するための資材は? それらすべて、我が家が無利子・無担保で貸し付けたものです。婚約関係という信頼があったからこその特例措置でした」
私は、計算機の液晶を王に見せつけた。
「ですが、関係が解消された以上、これらはすべて『短期借入金』へと振り替わります。明日中に全額一括返済していただかない限り、私は我が家が保有する国債をすべて市場に放出し、この国の通貨価値を暴落させますわ」
「ま、待て! そんなことをすれば、この国は破産する!」
「あら、お困りですか? それでは、解決策を提示しましょう。……ゼノス公爵?」
話を振ると、後ろで優雅に脚を組んでいたゼノスが立ち上がった。
「ヘンリー陛下、ご無沙汰しております。我が国は、この国が保有する北部の炭鉱権を、アマ嬢の提示した負債額と同等額で買い取る用意があります」
「な……。アステリア公爵、貴殿まで何を……!」
王は絶望に顔を歪めた。
炭鉱権を売れば、国の将来の収入源を失う。
だが、今ここで支払いができなければ、明日にも国が滅ぶのだ。
「陛下、お選びなさい。息子さんの不始末を炭鉱で購(あがな)うか。それとも、親子揃って路頭に迷うか。……あぁ、もし炭鉱を売却されるなら、その仲介手数料として、私に売却額の五パーセントを支払っていただきますわよ?」
「お前……! 自分の国を売る仲介をして、さらに手数料を取るつもりか!」
「当然です。私の時間は、陛下が思っているよりずっと高いんですの」
私は微笑んだ。
王宮の冷たい空気の中、計算機を叩く音だけが規則正しく響く。
「さあ、契約書はここにございます。……あ、お急ぎになった方がよろしいですよ? 一分遅れるごとに、遅延損害金として金貨百枚を上乗せしますから」
「……くっ、分かった! 署名する、署名すればいいのだろう!」
震える手でペンを走らせる王。
私はその様子を、一切の情を排した投資家の目で見つめていた。
「取引成立ですわ。まいどあり」
王宮を出た時、東の空が白み始めていた。
私の手には、炭鉱権の譲渡に伴う莫大な仲介料の小切手が握られている。
「……驚いたな。王を相手に一歩も引かず、最後には手数料まで毟(むし)り取るとは」
ゼノスが隣で、心底感心したように呟いた。
「毟り取るだなんて人聞きが悪いですわ。私は正当な労働に対する対価を頂いたまで。……さて、これで私も自由の身。明日からは新しい帳簿を用意しなくては」
「それなら、私の隣でつけるがいい。君のその計算機が、私の資産をどれだけ増やしてくれるか、興味がある」
「あら、公爵様。私のコンサル料は、王家よりも高いですわよ?」
「構わん。私の全財産を担保にしてもいい。……ただし、私という人間に『投資』する価値があるかどうか、君自身の目で確かめてくれ」
ゼノスはそう言うと、私の手を取って、指先に軽く唇を寄せた。
「…………」
私は無言で、もう片方の手で計算機を取り出した。
「何をしている?」
「いえ。……公爵様の『資産価値』と、今の『求愛行動』による将来的なリターンを予測していますの。……ふむ、悪くない数字ですわね」
私は初めて、打算抜きの(あるいは、打算に満ちた)本気の笑みを彼に向けた。
悪役令嬢アマの、愛と金勘定が交差する第二の人生が、今、猛烈な勢いで動き出した。
私は計算機を握りしめたまま、目の前の男を凝視した。
アステリア公爵家といえば、隣国の経済を牛耳る「鉄の金庫」と謳われる名門だ。
その当主がなぜ、他国の卒業パーティーの裏側で、令嬢の馬車に不法侵入しているのか。
「いかにも。もっとも、君にしてみれば不審者の闖入(ちんにゅう)による精神的苦痛の損害賠償、といったところだろうか。……とりあえず、これを」
ゼノスと名乗った男は、金の装飾が施された懐中時計を確認すると、革張りのアタッシュケースから一束の紙を取り出した。
「何かしら、これ。……融資の申込書?」
「いいや。私と一緒に仕事をすることのメリットを数値化した、事業計画の叩き台だ。君の先ほどの立ち振る舞いを見て確信した。君は、王子の婚約者なんていうボランティア活動で腐らせていい人材ではない」
私は差し出された書類をひったくり、高速でページをめくった。
利益率、市場独占率、減価償却の推移……。
「…………悪くないわね。でも、フォントが小さすぎて可読性が低いですわ。あと、この人件費の計算が甘いわ。福利厚生をケチると離職率が上がって、結果的に採用コストが増大しますのよ?」
「ふ、ふふ……。初対面の私の書類に、速攻で赤字を入れるとは」
ゼノス公爵は、口元を歪めて笑った。
その目は、美しい女性を見るというよりは、非常に珍しい高価な宝石を見つけたコレクターのような、狂気的な輝きを帯びている。
「いいだろう。そこも含めて修正案を出してくれ。ただし、条件がある。今すぐその馬車を止めろ」
「嫌ですわ。私はこれから王宮へ向かい、国王陛下に直接、あの愚か者の債務を請求しに行くのですから」
「それなら好都合だ。私も国王に用がある。ついでに君の『債権回収』、特等席で見学させてもらおう」
図々しい男である。
だが、隣国の有力公爵が証人として同席するなら、王家も安易に私を黙らせることはできないはずだ。
私は計算機で弾いた損益分岐点を確認し、御者に「王宮の執務室へ」と命じた。
深夜の王宮。
突然の令嬢の訪問に衛兵たちはうろたえたが、横にゼノス公爵が控えているのを見るや否や、道を開けた。
第一王子の父、この国の王であるヘンリー三世は、寝巻きの上にローブを羽織った姿で私たちを迎えた。
「……アマ嬢、こんな夜更けに何事だ? リュカがパーティーで何か不手際でもしたのか?」
「『不手際』なんていう可愛い言葉で片付けられる規模ではありませんわ、陛下」
私は、先ほどリュカに突きつけたものより三倍は分厚い「最終報告書」を机に叩きつけた。
「息子さんの婚約破棄を承認いたしました。つきましては、ゴールドマン侯爵家がこれまで王家に提供してきたすべての経済的支援の即時返還、および慰謝料の請求に参りました」
王は、眼鏡をかけ直して書類を手に取った。
数秒後、彼の顔から血の気が引いていくのがわかった。
「な……。なんだ、この額は! 国家予算の三割に相当するではないか!」
「妥当な数字ですわ。陛下、思い出してください。昨年、王宮の屋根を修繕した資金はどこから出ました? 南の街道を整備するための資材は? それらすべて、我が家が無利子・無担保で貸し付けたものです。婚約関係という信頼があったからこその特例措置でした」
私は、計算機の液晶を王に見せつけた。
「ですが、関係が解消された以上、これらはすべて『短期借入金』へと振り替わります。明日中に全額一括返済していただかない限り、私は我が家が保有する国債をすべて市場に放出し、この国の通貨価値を暴落させますわ」
「ま、待て! そんなことをすれば、この国は破産する!」
「あら、お困りですか? それでは、解決策を提示しましょう。……ゼノス公爵?」
話を振ると、後ろで優雅に脚を組んでいたゼノスが立ち上がった。
「ヘンリー陛下、ご無沙汰しております。我が国は、この国が保有する北部の炭鉱権を、アマ嬢の提示した負債額と同等額で買い取る用意があります」
「な……。アステリア公爵、貴殿まで何を……!」
王は絶望に顔を歪めた。
炭鉱権を売れば、国の将来の収入源を失う。
だが、今ここで支払いができなければ、明日にも国が滅ぶのだ。
「陛下、お選びなさい。息子さんの不始末を炭鉱で購(あがな)うか。それとも、親子揃って路頭に迷うか。……あぁ、もし炭鉱を売却されるなら、その仲介手数料として、私に売却額の五パーセントを支払っていただきますわよ?」
「お前……! 自分の国を売る仲介をして、さらに手数料を取るつもりか!」
「当然です。私の時間は、陛下が思っているよりずっと高いんですの」
私は微笑んだ。
王宮の冷たい空気の中、計算機を叩く音だけが規則正しく響く。
「さあ、契約書はここにございます。……あ、お急ぎになった方がよろしいですよ? 一分遅れるごとに、遅延損害金として金貨百枚を上乗せしますから」
「……くっ、分かった! 署名する、署名すればいいのだろう!」
震える手でペンを走らせる王。
私はその様子を、一切の情を排した投資家の目で見つめていた。
「取引成立ですわ。まいどあり」
王宮を出た時、東の空が白み始めていた。
私の手には、炭鉱権の譲渡に伴う莫大な仲介料の小切手が握られている。
「……驚いたな。王を相手に一歩も引かず、最後には手数料まで毟(むし)り取るとは」
ゼノスが隣で、心底感心したように呟いた。
「毟り取るだなんて人聞きが悪いですわ。私は正当な労働に対する対価を頂いたまで。……さて、これで私も自由の身。明日からは新しい帳簿を用意しなくては」
「それなら、私の隣でつけるがいい。君のその計算機が、私の資産をどれだけ増やしてくれるか、興味がある」
「あら、公爵様。私のコンサル料は、王家よりも高いですわよ?」
「構わん。私の全財産を担保にしてもいい。……ただし、私という人間に『投資』する価値があるかどうか、君自身の目で確かめてくれ」
ゼノスはそう言うと、私の手を取って、指先に軽く唇を寄せた。
「…………」
私は無言で、もう片方の手で計算機を取り出した。
「何をしている?」
「いえ。……公爵様の『資産価値』と、今の『求愛行動』による将来的なリターンを予測していますの。……ふむ、悪くない数字ですわね」
私は初めて、打算抜きの(あるいは、打算に満ちた)本気の笑みを彼に向けた。
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