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重厚な扉が、私の背後で閉まる。
会場の喧騒が遮断され、静寂な廊下が広がった。
「……ふぅ」
私は長く息を吐き出し、強張らせていた肩の力を抜く。
終わった。
本当に終わったのだ。
十年。
長かった。
三日に一度のペースで届くジュリアン殿下の素行不良報告書。
リラ嬢が撒き散らすお花畑のような妄言の尻拭い。
予算委員会での泥沼の折衝。
それら全てが、今の「婚約破棄」という魔法の言葉によって、私の肩から消え失せたのである。
「(……顔が、緩む)」
油断すると、頬がだらしなく上がりそうになる。
いけない。
ここはまだ王城内だ。
どこで誰が見ているかわからない。
最後まで「傷心の元婚約者」を演じきってこそ、円満な(私にとっての)破局が完成するのだ。
私は口元を両手で覆い、必死に真顔を作ろうと努力した。
だが、体は正直だ。
足取りは空気のように軽く、スキップでも踏み出したい衝動に駆られる。
さあ、早く馬車に乗ろう。
そして実家に帰って、最高級のワインを開けるのだ。
そう思って、一歩を踏み出した時だった。
バンッ!!
背後の扉が、乱暴に開け放たれた。
「待て! メリーナ!」
廊下に響き渡る怒声。
振り返ると、そこには顔を真っ赤にしたジュリアン殿下と、オロオロとした表情のリラ嬢、そして興味本位で覗き込む貴族たちの姿があった。
「(……チッ)」
危ない。
あまりの鬱陶しさに、つい心の舌打ちが漏れそうになった。
私は優雅に振り返り、小首を傾げる。
「何か言い忘れでございますか、殿下。私はもう『他人』ですので、早々に立ち去りたいのですが」
「その態度だ! その可愛げのない態度が気に入らんのだ!」
ジュリアン殿下は大股で私に詰め寄ると、指を突きつけた。
「貴様、先ほどから平然としているが、その内面は悔しさで煮えくり返っているのだろう!?」
「は?」
「無理をするな! 次期王妃という座を追われ、愛する私に見捨てられたのだ! 泣き叫んで足にすがりつきたいのが本音のはずだ!」
どうやらこの元婚約者の脳内では、私はまだ彼に未練がある設定らしい。
あまりのポジティブさに、逆に感心するレベルだ。
「ジュリアン様ぁ、きっとメリーナ様はショックすぎて感情が死んでしまっているんですぅ」
リラ嬢が涙目で殿下の腕に絡みつく。
「可哀想なメリーナ様……。でも、これは自業自得なんです。反省してくださいね」
二人の憐れむような視線。
そして、開いた扉の奥から向けられる、貴族たちの好奇の目。
「強がるな、メリーナ! 最後くらい、その鉄仮面を外して素直な感情を見せたらどうだ!」
殿下が高らかに叫ぶ。
「何か言いたいことがあるなら言ってみろ! 私への愛と謝罪、そして後悔の言葉を! 今なら特別に聞いてやる!」
「……本当ですか?」
私は確認した。
「本当に、私の『素直な感情』を言葉にしてよろしいのですか?」
「ああ、構わん! 泣き叫んでもいいぞ! 貴様の惨めな本音を、皆の前で晒すがいい!」
殿下は勝ち誇ったように腕を組む。
周囲の野次馬たちも、私が泣き崩れるシーンを期待して固唾を飲んでいる。
なるほど。
そこまで言うのなら。
私はゆっくりと息を吸い込んだ。
腹の底まで空気を満たし、全身の細胞一つ一つに行き渡らせる。
王妃教育で培った「腹式呼吸」と、演説のための「発声法」。
その全てを、この一瞬に注ぎ込む。
私はカッと目を見開き、両の拳を固く握りしめた。
そして。
右腕を天高く突き上げ、全身全霊の叫びを放った。
「謹んでお受けします!! やったあぁぁぁぁぁーーーーーーッ!!!」
その声は、王城の廊下をビリビリと震わせ、高い天井に反響した。
ジュリアン殿下の表情が凍りつく。
リラ嬢が口を半開きにする。
しかし、私の勢いは止まらない。
私はドレスの裾が乱れるのも構わず、その場で力強くガッツポーズを決めた。
「よっしゃあぁぁ! 自由だ! フリーダム!! さらば王妃教育! さらば徹夜の公務! 明日から目覚まし時計をかけなくていいんだ! 最高だーーッ!!」
「え……あ……?」
殿下が引きつった声を漏らすが、もう私の耳には届かない。
脳内では第九の合唱が鳴り響いている。
私は握りしめた拳を胸元に引き寄せ、感極まった表情で天を仰いだ。
「神よ! 感謝します! まさか二十歳前にこの地獄から解放されるとは! これも全て、殿下の浮気……あ、いえ、『真実の愛』のおかげです!」
私は満面の笑みで、呆然としている二人に向き直った。
そして、親指を立ててサムズアップする。
「ジュリアン殿下! リラ様! 本当に、本っっっ当にありがとうございます! お二人がくっついてくださったおかげで、私は自由の身になれました! この御恩は一生忘れません!」
「は……?」
「慰謝料なんて弾まなくて結構です! いや、やっぱり頂きますけど! とにかく、お二人の幸せを心の底から、全力で、草葉の陰から応援しておりますので! どうぞ末長く、私の代わりに働いてください!」
言い切った。
全てを吐き出した。
これほど心が晴れ渡った瞬間が、かつてあっただろうか。
私は荒くなった息を整え、ビシッと背筋を伸ばした。
周囲を見渡す。
静寂。
完全なる静寂だ。
ジュリアン殿下は石化したように固まり、リラ嬢は目を白黒させている。
廊下に集まっていた貴族たちも、開いた口が塞がらないといった様子だ。
誰一人として言葉を発しない。
ただ、私の「やったー!」の余韻だけが、虚しくも力強く廊下に漂っていた。
「……あ、すっきりした」
私はポツリと呟くと、乱れた前髪を指で直した。
「それでは殿下、ご要望通り『素直な感情』をお伝えしましたので。これにて失礼いたします」
私は完璧なカーテシーを――今までのどの儀式よりも美しく、キレのある動作で披露した。
そして、石像と化した元婚約者たちに背を向け、軽快なステップで歩き出す。
今度こそ、本当に帰るのだ。
足音が廊下に響く。
誰も追いかけてこない。
いや、誰も動けないのだろう。
(ふふん、ざまあみなさい)
私は心の中で鼻歌を歌った。
さあ、家に帰ったら忙しくなるぞ。
引越しの準備に、退職届(王宮宛)の作成。
やることは山積みだが、その全てが自分のための作業だと思えば、苦になどなるはずがない。
私はウキウキとした気分で角を曲がろうとした。
その時だ。
「……ふッ」
人の気配のないはずの柱の陰から、低い笑い声が聞こえた。
ビクリとして足を止める。
誰かいたのか?
この断罪劇の「延長戦」を、誰かに見られていた?
恐る恐る視線を向けると、そこには一人の男が立っていた。
夜会服の上からでも分かる鍛え上げられた体躯。
闇夜のように暗い黒髪に、氷のように冷ややかな青い瞳。
そして、王族特有の圧倒的なオーラ。
「アレクセイ……公爵様?」
私の心臓が、ドクリと跳ねた。
アレクセイ・ヴァン・ルーク。
現国王の甥であり、ジュリアン殿下の従兄にあたる人物。
そして何より、「氷の公爵」として恐れられる、王国の影の支配者とも噂される男だ。
彼は腕を組み、壁に背を預けたまま、私を見下ろしていた。
その整いすぎた顔には、普段の無表情からは想像もできないような、微かな笑みが浮かんでいる。
「……いい声だったな、メリーナ嬢」
低く、甘いバリトンボイスが鼓膜を揺らす。
「迷いのない、実に見事な『やったー』だった」
「……み、見られて、いましたか」
「ああ。一部始終な」
終わった。
よりによって、一番厄介な人間に見られた。
王宮内でも「歩く検閲官」と呼ばれるほど厳格な彼に、あんな痴態を晒してしまったのだ。
不敬罪で捕まるだろうか。
それとも、頭がおかしくなったと思われて病院送りか。
私が冷や汗を流して硬直していると、アレクセイ公爵はゆっくりと身体を起こし、私の方へと歩み寄ってきた。
カツ、カツ、と正確なリズムで近づいてくる。
その圧迫感に、私は思わず後ずさりそうになるのを堪えた。
私の目の前で立ち止まった彼は、長い指で私の顎をくい、と持ち上げる。
至近距離で見つめ合う、氷の瞳。
彼は私の顔をじっくりと観察し、そして面白がるように目を細めた。
「婚約破棄されて、そこまで喜ぶ女は初めて見た」
「……そ、それは……その……」
「だが、悪くない」
「へ?」
「その度胸と、腹の底からの本音。……気に入った」
彼がニヤリと唇の端を吊り上げる。
その瞬間、私は本能的な危機感を覚えた。
獲物を見つけた肉食獣のような目だ。
「メリーナ・アシュフォード。逃がさないぞ」
「は……?」
意味を問う間もなく、彼は私の手を取り、甲に恭しく口づけを落とした。
「後ほど迎えに行く。荷造りは手早く済ませておけ」
「え、あの、ちょっと……?」
「待っていろ」
それだけ言い残すと、彼は黒いマントを翻し、呆然とする私を残して去っていった。
嵐のような遭遇だった。
私は自分の手を呆然と見つめる。
(迎えに行く? 荷造り? どういうこと?)
まさか、不敬罪で牢屋への「お迎え」ではないだろうか。
あるいは、精神病院への強制入院か。
「……いや、考えすぎよね」
私はブンブンと首を振った。
あの仕事人間の公爵様が、私如きに関わっている暇などないはずだ。
きっと、ただの気まぐれだろう。
「そうよ、早く帰らなきゃ!」
私は不吉な予感を振り払うように、再び駆け出した。
だが、この時の私はまだ知らなかった。
あの「氷の公爵」が、一度狙った獲物を決して逃がさない執念深い男であることを。
そして、私の描いていた「悠々自適なスローライフ計画」が、今この瞬間から、彼の描く「超ハードな公爵夫人育成計画」へと書き換えられてしまったことを。
会場の喧騒が遮断され、静寂な廊下が広がった。
「……ふぅ」
私は長く息を吐き出し、強張らせていた肩の力を抜く。
終わった。
本当に終わったのだ。
十年。
長かった。
三日に一度のペースで届くジュリアン殿下の素行不良報告書。
リラ嬢が撒き散らすお花畑のような妄言の尻拭い。
予算委員会での泥沼の折衝。
それら全てが、今の「婚約破棄」という魔法の言葉によって、私の肩から消え失せたのである。
「(……顔が、緩む)」
油断すると、頬がだらしなく上がりそうになる。
いけない。
ここはまだ王城内だ。
どこで誰が見ているかわからない。
最後まで「傷心の元婚約者」を演じきってこそ、円満な(私にとっての)破局が完成するのだ。
私は口元を両手で覆い、必死に真顔を作ろうと努力した。
だが、体は正直だ。
足取りは空気のように軽く、スキップでも踏み出したい衝動に駆られる。
さあ、早く馬車に乗ろう。
そして実家に帰って、最高級のワインを開けるのだ。
そう思って、一歩を踏み出した時だった。
バンッ!!
背後の扉が、乱暴に開け放たれた。
「待て! メリーナ!」
廊下に響き渡る怒声。
振り返ると、そこには顔を真っ赤にしたジュリアン殿下と、オロオロとした表情のリラ嬢、そして興味本位で覗き込む貴族たちの姿があった。
「(……チッ)」
危ない。
あまりの鬱陶しさに、つい心の舌打ちが漏れそうになった。
私は優雅に振り返り、小首を傾げる。
「何か言い忘れでございますか、殿下。私はもう『他人』ですので、早々に立ち去りたいのですが」
「その態度だ! その可愛げのない態度が気に入らんのだ!」
ジュリアン殿下は大股で私に詰め寄ると、指を突きつけた。
「貴様、先ほどから平然としているが、その内面は悔しさで煮えくり返っているのだろう!?」
「は?」
「無理をするな! 次期王妃という座を追われ、愛する私に見捨てられたのだ! 泣き叫んで足にすがりつきたいのが本音のはずだ!」
どうやらこの元婚約者の脳内では、私はまだ彼に未練がある設定らしい。
あまりのポジティブさに、逆に感心するレベルだ。
「ジュリアン様ぁ、きっとメリーナ様はショックすぎて感情が死んでしまっているんですぅ」
リラ嬢が涙目で殿下の腕に絡みつく。
「可哀想なメリーナ様……。でも、これは自業自得なんです。反省してくださいね」
二人の憐れむような視線。
そして、開いた扉の奥から向けられる、貴族たちの好奇の目。
「強がるな、メリーナ! 最後くらい、その鉄仮面を外して素直な感情を見せたらどうだ!」
殿下が高らかに叫ぶ。
「何か言いたいことがあるなら言ってみろ! 私への愛と謝罪、そして後悔の言葉を! 今なら特別に聞いてやる!」
「……本当ですか?」
私は確認した。
「本当に、私の『素直な感情』を言葉にしてよろしいのですか?」
「ああ、構わん! 泣き叫んでもいいぞ! 貴様の惨めな本音を、皆の前で晒すがいい!」
殿下は勝ち誇ったように腕を組む。
周囲の野次馬たちも、私が泣き崩れるシーンを期待して固唾を飲んでいる。
なるほど。
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私はゆっくりと息を吸い込んだ。
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王妃教育で培った「腹式呼吸」と、演説のための「発声法」。
その全てを、この一瞬に注ぎ込む。
私はカッと目を見開き、両の拳を固く握りしめた。
そして。
右腕を天高く突き上げ、全身全霊の叫びを放った。
「謹んでお受けします!! やったあぁぁぁぁぁーーーーーーッ!!!」
その声は、王城の廊下をビリビリと震わせ、高い天井に反響した。
ジュリアン殿下の表情が凍りつく。
リラ嬢が口を半開きにする。
しかし、私の勢いは止まらない。
私はドレスの裾が乱れるのも構わず、その場で力強くガッツポーズを決めた。
「よっしゃあぁぁ! 自由だ! フリーダム!! さらば王妃教育! さらば徹夜の公務! 明日から目覚まし時計をかけなくていいんだ! 最高だーーッ!!」
「え……あ……?」
殿下が引きつった声を漏らすが、もう私の耳には届かない。
脳内では第九の合唱が鳴り響いている。
私は握りしめた拳を胸元に引き寄せ、感極まった表情で天を仰いだ。
「神よ! 感謝します! まさか二十歳前にこの地獄から解放されるとは! これも全て、殿下の浮気……あ、いえ、『真実の愛』のおかげです!」
私は満面の笑みで、呆然としている二人に向き直った。
そして、親指を立ててサムズアップする。
「ジュリアン殿下! リラ様! 本当に、本っっっ当にありがとうございます! お二人がくっついてくださったおかげで、私は自由の身になれました! この御恩は一生忘れません!」
「は……?」
「慰謝料なんて弾まなくて結構です! いや、やっぱり頂きますけど! とにかく、お二人の幸せを心の底から、全力で、草葉の陰から応援しておりますので! どうぞ末長く、私の代わりに働いてください!」
言い切った。
全てを吐き出した。
これほど心が晴れ渡った瞬間が、かつてあっただろうか。
私は荒くなった息を整え、ビシッと背筋を伸ばした。
周囲を見渡す。
静寂。
完全なる静寂だ。
ジュリアン殿下は石化したように固まり、リラ嬢は目を白黒させている。
廊下に集まっていた貴族たちも、開いた口が塞がらないといった様子だ。
誰一人として言葉を発しない。
ただ、私の「やったー!」の余韻だけが、虚しくも力強く廊下に漂っていた。
「……あ、すっきりした」
私はポツリと呟くと、乱れた前髪を指で直した。
「それでは殿下、ご要望通り『素直な感情』をお伝えしましたので。これにて失礼いたします」
私は完璧なカーテシーを――今までのどの儀式よりも美しく、キレのある動作で披露した。
そして、石像と化した元婚約者たちに背を向け、軽快なステップで歩き出す。
今度こそ、本当に帰るのだ。
足音が廊下に響く。
誰も追いかけてこない。
いや、誰も動けないのだろう。
(ふふん、ざまあみなさい)
私は心の中で鼻歌を歌った。
さあ、家に帰ったら忙しくなるぞ。
引越しの準備に、退職届(王宮宛)の作成。
やることは山積みだが、その全てが自分のための作業だと思えば、苦になどなるはずがない。
私はウキウキとした気分で角を曲がろうとした。
その時だ。
「……ふッ」
人の気配のないはずの柱の陰から、低い笑い声が聞こえた。
ビクリとして足を止める。
誰かいたのか?
この断罪劇の「延長戦」を、誰かに見られていた?
恐る恐る視線を向けると、そこには一人の男が立っていた。
夜会服の上からでも分かる鍛え上げられた体躯。
闇夜のように暗い黒髪に、氷のように冷ややかな青い瞳。
そして、王族特有の圧倒的なオーラ。
「アレクセイ……公爵様?」
私の心臓が、ドクリと跳ねた。
アレクセイ・ヴァン・ルーク。
現国王の甥であり、ジュリアン殿下の従兄にあたる人物。
そして何より、「氷の公爵」として恐れられる、王国の影の支配者とも噂される男だ。
彼は腕を組み、壁に背を預けたまま、私を見下ろしていた。
その整いすぎた顔には、普段の無表情からは想像もできないような、微かな笑みが浮かんでいる。
「……いい声だったな、メリーナ嬢」
低く、甘いバリトンボイスが鼓膜を揺らす。
「迷いのない、実に見事な『やったー』だった」
「……み、見られて、いましたか」
「ああ。一部始終な」
終わった。
よりによって、一番厄介な人間に見られた。
王宮内でも「歩く検閲官」と呼ばれるほど厳格な彼に、あんな痴態を晒してしまったのだ。
不敬罪で捕まるだろうか。
それとも、頭がおかしくなったと思われて病院送りか。
私が冷や汗を流して硬直していると、アレクセイ公爵はゆっくりと身体を起こし、私の方へと歩み寄ってきた。
カツ、カツ、と正確なリズムで近づいてくる。
その圧迫感に、私は思わず後ずさりそうになるのを堪えた。
私の目の前で立ち止まった彼は、長い指で私の顎をくい、と持ち上げる。
至近距離で見つめ合う、氷の瞳。
彼は私の顔をじっくりと観察し、そして面白がるように目を細めた。
「婚約破棄されて、そこまで喜ぶ女は初めて見た」
「……そ、それは……その……」
「だが、悪くない」
「へ?」
「その度胸と、腹の底からの本音。……気に入った」
彼がニヤリと唇の端を吊り上げる。
その瞬間、私は本能的な危機感を覚えた。
獲物を見つけた肉食獣のような目だ。
「メリーナ・アシュフォード。逃がさないぞ」
「は……?」
意味を問う間もなく、彼は私の手を取り、甲に恭しく口づけを落とした。
「後ほど迎えに行く。荷造りは手早く済ませておけ」
「え、あの、ちょっと……?」
「待っていろ」
それだけ言い残すと、彼は黒いマントを翻し、呆然とする私を残して去っていった。
嵐のような遭遇だった。
私は自分の手を呆然と見つめる。
(迎えに行く? 荷造り? どういうこと?)
まさか、不敬罪で牢屋への「お迎え」ではないだろうか。
あるいは、精神病院への強制入院か。
「……いや、考えすぎよね」
私はブンブンと首を振った。
あの仕事人間の公爵様が、私如きに関わっている暇などないはずだ。
きっと、ただの気まぐれだろう。
「そうよ、早く帰らなきゃ!」
私は不吉な予感を振り払うように、再び駆け出した。
だが、この時の私はまだ知らなかった。
あの「氷の公爵」が、一度狙った獲物を決して逃がさない執念深い男であることを。
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