今更復縁とか言われても邪魔なんですけど?

桃瀬ももな

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「ええい、なんだこれは! なぜ書類が減らないんだッ!!」

王宮の執務室。

セドリック王子の悲鳴が、虚しく響き渡った。

彼の机の上には、もはや山というより「塔」と化した書類の束がそびえ立っている。

「おい、この『隣国との貿易協定の見直し案』はどうなっている!? 先週までに提出だったはずだぞ!」

王子が怒鳴り散らすと、控えていた文官が青ざめた顔で答えた。

「は、はい……。その件につきましては、以前はウィルヘルミナ様が下読みをし、要点をまとめて、さらに草案まで作成してくださっておりましたので……」

「またウィルヘルミナか!」

王子は羽ペンをへし折った。

「どいつもこいつも、『ウィルヘルミナ様が』『ウィルヘルミナ様が』と! あんな女がいなくなったくらいで、なぜ国政が停滞する!」

「い、いえ、停滞といいますか……あの方が優秀すぎたといいますか……」

「黙れ! これはきっと呪いだ!」

王子は血走った目で叫んだ。

「あいつが去り際に、私の仕事がうまくいかないよう、書類に呪いをかけたに違いない! インクが滲むのも、紙で指を切るのも、すべてあいつの黒魔術のせいだ!」

「はぁ……(それは殿下の不注意では……)」

文官は呆れて遠い目をした。

実際のところ、ミーナは呪いなどかけていない。

ただ、彼女が「未来の王妃として完璧にこなしていた業務」が、彼女の不在によってすべて王子の肩にのしかかってきただけである。

要約された資料はなくなり、難解な原文を読まねばならない。

スケジュール管理をする人間もおらず、会議の時間はダブルブッキングだらけ。

「くそっ……くそっ……!」

王子はギリギリと歯ぎしりをした。

認めない。

認めるものか。

自分が無能なのではない。あいつが悪いのだ。

「……そうだ。あいつの店だ」

王子の思考は、現実逃避の果てに、再び憎き元婚約者へと向かった。

「あいつがのうのうとカフェ経営などして遊んでいるから、私がこんな目に遭っているのだ。……潰してやる。今度こそ、完膚なきまでに!」

王子は引き出しから、怪しげな小瓶を取り出した。

中には、黒い虫のようなものが蠢(うごめ)いている。

「ふふふ……これを使えば、どんな人気店も一発で営業停止だ」

王子はニヤリと笑い、影の者を呼んだ。

「おい、衛生管理局の『掃除屋』ボグロを呼べ。……特別任務だ」

          ◇

一方、その頃。

『カフェ・マッスル・パラダイス』は、開店前の清掃タイムを迎えていた。

「ワン、ツー! ワン、ツー!」

私の掛け声に合わせて、タンクトップ姿のマッチョたちが一列に並び、床を雑巾がけしている。

そのスピードたるや、残像が見えるほどだ。

「いいわよ! 広背筋を意識して! 腕だけで拭くんじゃない、背中で引くのよ!」

「イエッサー!!」

キュッキュッキュッ!

床が磨き上げられ、鏡のように輝いていく。

「窓拭き班、報告!」

「異常なし! ガラスが存在しないかのように透明に仕上げました!」

「厨房班、報告!」

「ダクトの油汚れ、完全除去! 舐めても大丈夫なレベルです!」

「素晴らしい!」

私は拍手をした。

当店のモットーは『筋肉は一日にしてならず、衛生もまた然り』。

彼らにとって、掃除はただの雑用ではない。

インナーマッスルを鍛えるための、重要なトレーニングなのだ。

「ふぅ……いい汗かいたぜ」

ガロンさんが立ち上がり、額の汗を拭う。

その上腕三頭筋のパンプアップ具合に、私はサムズアップを送った。

「完璧です、ガロンさん。その二の腕なら、どんな頑固な汚れもひれ伏すでしょう」

「へへっ、よせよ姐さん」

和やかな空気が流れる店内。

そこへ、招かれざる客がやってきた。

カランカラン……。

「いらっしゃいませー……って、まだ準備中ですよ?」

ガロンさんが声をかける。

入ってきたのは、薄汚れた灰色の服を着た、ネズミのような男だった。

背中には「衛生管理局」と書かれた腕章。

目はギョロギョロと動き、いかにも性格が悪そうだ。

「ヒッヒッヒ……。準備中? 関係ないねぇ」

男は嫌な笑い声を上げた。

「ワシは衛生管理局のボグロだ。この店に『重大な衛生違反』のタレコミがあったんでねぇ。抜き打ち検査に来たんだよ」

「衛生違反?」

私は眉をひそめて厨房から出てきた。

「当店は王都のどの店よりも清潔を保っておりますが」

「口では何とでも言えるさぁ。……調理場を見せてもらおうか」

ボグロと名乗る男は、靴のままズカズカと店内に入り込もうとした。

「おっと、土足厳禁です」

岩鉄さんが立ちはだかる。

「あぁ? 公務だぞ、公務!」

「床が傷つきます。それに、貴方の靴底についた泥が、せっかく磨いた床を汚します」

岩鉄さんは無表情で、巨大なモップを構えた。

その圧力に、ボグロは「チッ」と舌打ちし、靴カバーをつけた。

「……まぁいい。どうせすぐ閉鎖になる店だ」

ボグロは厨房に入ると、粗探しを始めた。

棚の裏、冷蔵庫の下、換気扇の中。

白い手袋をした指で、あちこちを撫で回す。

「ホコリの一つでもあれば、即刻営業停止だ……ヒッヒ……」

しかし。

「……な、なんだこれは?」

ボグロの顔が引きつった。

指を見ても、真っ白なままだ。

「ホコリが……ない? 油汚れも、カビも……?」

「当然です」

私は腕組みをして背後に立った。

「毎日、彼らが『僧帽筋トレーニング(高いところの拭き掃除)』と『大胸筋プッシュアップ(床磨き)』を行っていますから。細菌が繁殖する隙など、筋肉が埋め尽くしています」

「ば、馬鹿な……! こんな厨房、見たことがない!」

ボグロは焦り始めた。

王子の命令は絶対だ。

何としても違反を見つけなければ、自分の立場が危うい。

「くそっ……ならば、これだ!」

ボグロは私の死角に入ると、ポケットから小瓶を取り出した。

中には、王子から預かった「王都のドブで捕まえたゴキブリ(通称:G)」が入っている。

「ほらよッ!」

ボグロは小瓶の蓋を開け、Gを厨房の床に放り投げた。

黒い影がカサカサと走り出す――はずだった。

ヒュンッ!!!

風を切る音がした。

「……む?」

すぐそばにいたガロンさんが、何かを空中で掴んでいた。

手には、菜箸(さいばし)。

その先端に、何かが挟まれている。

「……なんだこれ? 虫か?」

ガロンさんは、空中でGをピンポイントでキャッチしていたのだ。

「な、な、なぁッ!?」

ボグロが目を剥いた。

「床に落ちる前に……箸で……!?」

「ああ、すまねぇ」

ガロンさんは照れくさそうに笑った。

「最近、姐さんに『動体視力の強化』を言われててな。飛んでくるハエを箸で掴む訓練をしてたんだが……まさかこんなデカいのが降ってくるとは」

「ご、ゴキブリぃぃぃッ!?」

私が悲鳴を上げた(虫は苦手だ)。

「捨てて! ガロンさん、今すぐその邪悪な生命体を焼却炉へ!」

「おう、任せな。……それにしても、こいつ、どっから湧いたんだ?」

ガロンさんは不審そうに天井を見上げた。

「天井に穴はねぇし……」

そして、視線をゆっくりと下ろし、目の前で固まっているボグロを見た。

「……おい、アンタ」

ガロンさんの声が低くなる。

「まさかとは思うが、今、ポケットから投げたんじゃねぇだろうな?」

「ひッ!?」

ボグロが後ずさる。

その時、他のスタッフたちも集まってきた。

「なんだなんだ?」

「厨房に虫を持ち込んだのか?」

「俺たちの聖域(キッチン)を汚そうとしたのか?」

マッチョたちが、ボグロを取り囲む。

全員、掃除直後でパンプアップした状態だ。

血管が浮き出ている。

汗が光っている。

そして、目が笑っていない。

「ひ、ヒィィッ……! ち、違う! ワシは……!」

「『掃除』が必要だな」

私は冷ややかに宣告した。

「ガロンさん、岩鉄さん。この『不潔なゴミ』を、店の外まで搬出してください。分別は……『燃えないゴミ』かしら?」

「了解!」

「や、やめろぉぉぉ! ワシは衛生管理局の……あだっ!?」

岩鉄さんがボグロの首根っこを掴み、軽々と持ち上げた。

「軽すぎるな。ちゃんと飯食ってるか?」

「離せぇぇぇ!」

そのままボグロは、裏口から放り出された。

ドサッ!

ゴミ捨て場の前に着地する。

「二度と来るな。次はプロテインの粉末にしてやるぞ」

ガロンさんが凄むと、ボグロは「ひぃぃぃ! 覚えてろよぉぉ!」と叫びながら逃走した。

本日二度目の、小物の逃走劇である。

「やれやれ……」

私はため息をつき、ガロンさんに駆け寄った。

「ナイスキャッチでした、ガロンさん! 素晴らしい上腕二頭筋の反応速度でしたわ!」

「へへっ、役に立ってよかったぜ」

これで王子の妨害工作も失敗に終わった。

しかし、私の心は晴れなかった。

(あの王子……ここまでやるなんて)

虫を持ち込むなど、飲食店の風上にも置けない。

もはや個人的な嫌がらせの域を超えている。

「……そろそろ、決着をつける時かもしれませんね」

私は呟いた。

レオナルド様が王城で陛下に話をつけてくれると言っていたが、私もただ守られているだけでは気が済まない。

「姐さん?」

「ガロンさん、今日はスペシャルメニューを用意します」

「へ?」

「明日、私が王城へ差し入れに行きます。……セドリック殿下に、『特製・目覚ましプロテイン』を飲ませて差し上げるために」

私は黒い笑顔を浮かべた。

逃げてばかりのヒロインは卒業だ。

悪役令嬢らしく、堂々と正面から「お礼参り」に行こうではないか。
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