婚約破棄ですか?追放された令嬢は実家に帰ります。

桃瀬ももな

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 ピーチベル領の太陽は、今日も容赦なく照りつけています。
 
 この時期、私たち農家に休んでいる暇はありません。
 
 桃の実が大きくなり始めた今、最も重要な作業の一つ――『袋掛け』の最盛期だからです。
 
「……モモカ。その、紙の袋を被せる作業……私にもやらせろ」
 
 背後からかけられた低く重厚な声に、私は脚立の上でバランスを崩しかけました。
 
 振り返ると、そこには軍服を脱ぎ捨て、なぜか我が家の予備の作業着(特注サイズ)を完璧に着こなしたアルスター公爵が立っていました。
 
「公爵様!? またいらしたのですか。……というか、その格好はなんですの?」
 
「言っただろう。投資の保全だ。このデリケートな時期に、害虫や鳥に我が……いや、貴殿の桃が傷つけられるのは耐えがたい」
 
 アルスター様は、大真面目な顔で手袋を嵌めています。
 
 氷の公爵が、北方の政務を放り出して桃の袋掛け……。
 
 もし王都の新聞がこれを知ったら、一面トップを飾るスキャンダルですわね。
 
「いいですか、アルスター様。袋掛けは見た目以上に繊細な作業ですのよ。実を傷つけず、かつ枝にしっかりと固定しなければなりません。あなたのその、岩をも砕くような豪腕で大丈夫ですの?」
 
「案ずるな。私は精密な魔力操作も得意としている。……見ろ、こうか?」
 
 彼はひょいと手を伸ばすと、高い枝にある桃に、驚くほど滑らかな手つきで袋を被せ、キュッと口を縛りました。
 
 ……完璧ですわ。
 
 悔しいけれど、うちの熟練農夫たちに負けないスピードと正確さです。
 
「……合格ですわ。では、公爵様はあちらの『黄金桃』の区画をお願いします。あの子たちは我が領の最高戦力ですから、一秒たりとも無防備な状態にしておけませんの」
 
「承知した。……全力を尽くそう」
 
 こうして、私たちは無言で袋掛けに没頭しました。
 
 カサ、カサ、と紙の擦れる音だけが響く、静かな午後。
 
 ふと、同じ枝に実っている二つの桃を同時に守ろうとして、私たちの手が重なりました。
 
「あ……」
 
 アルスター様の大きな手が、私の手を包み込むような形になります。
 
 脚立の上という不安定な場所。
 
 見上げると、すぐそこに、吸い込まれるような銀色の瞳がありました。
 
 太陽の光に透ける彼の髪が、私の頬をくすぐります。
 
「……モモカ。こうして二人で、一つの目的に向かって汗を流す……。悪くない時間だ」
 
 公爵様の声が、いつもより低く、甘く響きました。
 
 彼の顔が、ゆっくりと近づいてきます。
 
 これは、いわゆる……恋愛小説なら、ここから運命のキスでも始まるような、そんな雰囲気ですわね?
 
 公爵様が、少しだけ潤んだ瞳で私を見つめ、囁きました。
 
「……これは、愛の共同作業と呼んでも差し支えないのではないだろうか」
 
 私は、彼の目をまっすぐに見つめ返しました。
 
 そして、きっぱりと告げました。
 
「いいえ。防虫対策です」
 
「………………なんだと?」
 
「公爵様、見てください。この桃のヘタの隙間。ここに袋を被せないまま放置したら、シンクイムシの餌食になってしまいますわ。愛で虫は防げません。防げるのは物理的な遮断だけです!」
 
 私は彼の手を振りほどき、流れるような動作で袋を被せました。
 
「一分一秒を争う防除作業の最中に、何を寝ぼけたことをおっしゃっているのですか。愛を語る暇があるなら、あと百個は袋を掛けられますわよ!」
 
 アルスター公爵は、差し出したままの手を見つめ、石像のように固まりました。
 
 ……数秒後。
 
 彼は深く、深ーーーい溜息をつきました。
 
「……貴様という女は。……いや、私の負けだ。合理性で貴様に勝てる日は来ないだろうな」
 
「合理的で結構ですわ! さあ、公爵様! 日が暮れる前に、あの丘の上の木まで終わらせますわよ!」
 
「……ああ。防虫対策……完遂してやろうじゃないか」
 
 公爵様は、自嘲気味な笑みを浮かべながら、再び猛烈な勢いで袋掛けを再開しました。
 
 その背中からは、先ほどまでの甘い空気は微塵も感じられず、代わりに「絶対に完璧な桃を守り抜く」という鋼の意志が漂っています。
 
 その様子を、下から見ていたリリアさんが、呆れたように呟きました。
 
「……ねえ、モモカ。今の、絶対公爵様からのアプローチだったわよね? なんであんたは、桃の害虫の話で返せるのよ……」
 
「あら、リリアさん。シンクイムシの被害は深刻なんですのよ? 愛より先に、殺虫剤と袋が必要なんですわ」
 
「……もういいわ。あんた、一生桃と結婚してなさいよ」
 
 私はリリアさんの言葉を「最高の賛辞」として受け取り、満足げに笑いました。
 
 桃と結婚。悪くない響きです。
 
 でもその前に、この国を「私の桃なしでは生きていけない体」にして差し上げなくてはなりません。
 
 一方その頃。
 
 王宮では、セドリック様が「モモカが公爵と愛を育んでいる」という誤った(?)情報を耳にし、嫉妬と桃不足で、いよいよ発狂寸前まで追い詰められていたのでした。
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