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王都の市場やサロンは、今や「桃」という単語抜きでは会話が成立しないほどの熱狂に包まれていました。
かつては「悪役令嬢」と蔑まれていた私の名は、今や「救世の果実をもたらす女神」へと、都合よく書き換えられています。
そんな中、ピーチベル領の私の執務室へ、執事のセバスが信じられない報告を持ってきました。
「お嬢様、王都で妙な……いえ、極めて熱狂的な運動が巻き起こっております」
「運動? 新作の桃の予約行列が暴動にでも発展したのかしら。それなら、アルスター公爵家の騎士団を派遣して、整理させなくてはなりませんわね」
私は、糖度計を片手に窓の外を眺めながら答えました。
しかし、セバスが差し出したのは、分厚い羊皮紙の束でした。
「いいえ。これをご覧ください。……『モモカ・フォン・ピーチベル様を正当な王妃に据えるための嘆願書』でございます。すでに王都の成人市民の過半数の署名が集まっているとか」
「……は? 王妃に?」
私は思わず、手に持っていた桃(試食用)を落としそうになりました。
婚約破棄されて追放された女を呼び戻して、王妃にしろですって?
「理由は何ですの。私がこれ以上なく王妃教育を嫌がっていたのは、王都中の貴族が知っているはずですわよ」
「はい。嘆願書に記された主な理由は三点です。『彼女が王妃になれば、桃の安定供給が法的に保証される』『王宮の庭園をすべて桃畑に作り替え、国民に安価で分配してほしい』『あの芳醇な香りのしない王都に未来はない』……だそうです」
……国民の皆様、食欲に忠実すぎやしませんか。
政治的な信条もクソもありませんわね。要は「桃をよこせ」という要求を、これ以上なく仰々しくパッケージ化しただけではありませんか。
「それにしても、これほど短期間にこれだけの署名を集めるには、相当な資金力と組織力を持つ『黒幕』がいるはずですわ。一体どこの物好きな大富豪かしら」
「……呼びましたか、モモカ」
音もなく扉が開きました。
そこに立っていたのは、いつになく誇らしげな表情を浮かべたアルスター公爵でした。
「アルスター様。……まさか、とは思いますが、この署名運動の裏にあなたが?」
「……合理的な判断だ。セドリックのような愚鈍な男にこの国を任せておけば、いずれ農業は衰退し、私の……いや、我が公爵領が求める桃の品質も低下する恐れがある」
公爵様は、私の机の前に堂々と腰を下ろし、銀髪をかき上げました。
「ならば、貴様を王妃……いや、いっそ女帝の座に据え、この国を『桃色帝国』へと造り変える方が、長期的には国家の安定に寄与すると結論づけた」
「国家の安定! それを言うために、王都の広場に桃の無料配布所を設置して、署名と引き換えに桃を配らせたのですか!?」
「ふっ……。餌があれば食いつく。それが民衆だ。それに、貴様が王妃になれば……私の『独占契約』も、より強固なものになるだろう?」
公爵様の瞳には、ビジネスを超えた何か不穏な、それでいて熱い光が宿っていました。
この人、合理的と言いながら、やってることは完全な「推し活」のそれですわ。
そこへ、農作業から戻ったばかりのリリアさんが、泥だらけの顔で乱入してきました。
「ちょっと! 私も署名してきたわよ! 『モモカが王妃になるなら、私はその侍女兼・桃試食長として終身雇用される権利を有する』って追記しておいたから!」
「リリアさん、あなたまで……。自分の元婚約者が廃嫡されるかもしれない運動に、喜んで参加しないでくださいませ」
「いいじゃない! セドリック様と一緒にいても、お腹が膨れるのはストレスだけだわ。でも、あなたの国なら、朝から晩まで桃のデザートが食べられるんでしょう? そんなの、実質的な桃源郷じゃない!」
……だめだわ。私の周りには、食欲に魂を売った人々しか残っていないようです。
私は、山のような署名簿を見つめ、深いため息をつきました。
「アルスター様。……もし私が本当に王妃になったら、王宮の予算の八割を桃の品種改良に回しますが、よろしいんですの?」
「構わん。足りない分は、公爵家が全額融資しよう。その代わり……王妃の隣の席は、常に最も優れた桃の供給者が座る権利を持つ、という条項を憲法に加えさせてもらうがな」
「それ、実質的にあなたが夫になるという宣言ではありませんか!」
私が叫ぶと、公爵様はふいっと窓の外に視線を逸らしました。
耳の先が、これまでにないほど真っ赤に熟した「完熟ピーチ」のような色になっています。
王都で巻き起こる、空前絶後の「桃色革命」。
かつて私を追い出したセドリック様は今、刻一刻と迫る「モモカ・コール」に怯えながら、王宮の奥でガタガタと震えていることでしょう。
桃一玉で国が動く。
そんな馬鹿げた伝説が、今まさに現実になろうとしていたのでした。
かつては「悪役令嬢」と蔑まれていた私の名は、今や「救世の果実をもたらす女神」へと、都合よく書き換えられています。
そんな中、ピーチベル領の私の執務室へ、執事のセバスが信じられない報告を持ってきました。
「お嬢様、王都で妙な……いえ、極めて熱狂的な運動が巻き起こっております」
「運動? 新作の桃の予約行列が暴動にでも発展したのかしら。それなら、アルスター公爵家の騎士団を派遣して、整理させなくてはなりませんわね」
私は、糖度計を片手に窓の外を眺めながら答えました。
しかし、セバスが差し出したのは、分厚い羊皮紙の束でした。
「いいえ。これをご覧ください。……『モモカ・フォン・ピーチベル様を正当な王妃に据えるための嘆願書』でございます。すでに王都の成人市民の過半数の署名が集まっているとか」
「……は? 王妃に?」
私は思わず、手に持っていた桃(試食用)を落としそうになりました。
婚約破棄されて追放された女を呼び戻して、王妃にしろですって?
「理由は何ですの。私がこれ以上なく王妃教育を嫌がっていたのは、王都中の貴族が知っているはずですわよ」
「はい。嘆願書に記された主な理由は三点です。『彼女が王妃になれば、桃の安定供給が法的に保証される』『王宮の庭園をすべて桃畑に作り替え、国民に安価で分配してほしい』『あの芳醇な香りのしない王都に未来はない』……だそうです」
……国民の皆様、食欲に忠実すぎやしませんか。
政治的な信条もクソもありませんわね。要は「桃をよこせ」という要求を、これ以上なく仰々しくパッケージ化しただけではありませんか。
「それにしても、これほど短期間にこれだけの署名を集めるには、相当な資金力と組織力を持つ『黒幕』がいるはずですわ。一体どこの物好きな大富豪かしら」
「……呼びましたか、モモカ」
音もなく扉が開きました。
そこに立っていたのは、いつになく誇らしげな表情を浮かべたアルスター公爵でした。
「アルスター様。……まさか、とは思いますが、この署名運動の裏にあなたが?」
「……合理的な判断だ。セドリックのような愚鈍な男にこの国を任せておけば、いずれ農業は衰退し、私の……いや、我が公爵領が求める桃の品質も低下する恐れがある」
公爵様は、私の机の前に堂々と腰を下ろし、銀髪をかき上げました。
「ならば、貴様を王妃……いや、いっそ女帝の座に据え、この国を『桃色帝国』へと造り変える方が、長期的には国家の安定に寄与すると結論づけた」
「国家の安定! それを言うために、王都の広場に桃の無料配布所を設置して、署名と引き換えに桃を配らせたのですか!?」
「ふっ……。餌があれば食いつく。それが民衆だ。それに、貴様が王妃になれば……私の『独占契約』も、より強固なものになるだろう?」
公爵様の瞳には、ビジネスを超えた何か不穏な、それでいて熱い光が宿っていました。
この人、合理的と言いながら、やってることは完全な「推し活」のそれですわ。
そこへ、農作業から戻ったばかりのリリアさんが、泥だらけの顔で乱入してきました。
「ちょっと! 私も署名してきたわよ! 『モモカが王妃になるなら、私はその侍女兼・桃試食長として終身雇用される権利を有する』って追記しておいたから!」
「リリアさん、あなたまで……。自分の元婚約者が廃嫡されるかもしれない運動に、喜んで参加しないでくださいませ」
「いいじゃない! セドリック様と一緒にいても、お腹が膨れるのはストレスだけだわ。でも、あなたの国なら、朝から晩まで桃のデザートが食べられるんでしょう? そんなの、実質的な桃源郷じゃない!」
……だめだわ。私の周りには、食欲に魂を売った人々しか残っていないようです。
私は、山のような署名簿を見つめ、深いため息をつきました。
「アルスター様。……もし私が本当に王妃になったら、王宮の予算の八割を桃の品種改良に回しますが、よろしいんですの?」
「構わん。足りない分は、公爵家が全額融資しよう。その代わり……王妃の隣の席は、常に最も優れた桃の供給者が座る権利を持つ、という条項を憲法に加えさせてもらうがな」
「それ、実質的にあなたが夫になるという宣言ではありませんか!」
私が叫ぶと、公爵様はふいっと窓の外に視線を逸らしました。
耳の先が、これまでにないほど真っ赤に熟した「完熟ピーチ」のような色になっています。
王都で巻き起こる、空前絶後の「桃色革命」。
かつて私を追い出したセドリック様は今、刻一刻と迫る「モモカ・コール」に怯えながら、王宮の奥でガタガタと震えていることでしょう。
桃一玉で国が動く。
そんな馬鹿げた伝説が、今まさに現実になろうとしていたのでした。
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