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第二章 動きだす歯車
第28話 兄弟で語られる名
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天正9年(1581年)7月 因幡・鳥取城下(秀吉本陣) 羽柴秀長
因幡の山は、夏でも湿り気を帯びていた。
谷あいには霧が溜まり、夜明けには白い靄(もや)が陣を包む。
昼になれば湿気を含んだ風が肌にまとわりつき、鎧の下はすぐに汗で濡れた。
1581年7月 因幡・鳥取城攻略戦
羽柴秀吉は織田信長の命を受け、中国方面から毛利氏の勢力圏へ圧力を強め、その要衝である因幡・鳥取城の攻略に着手。
鳥取城は山陰と播磨を結ぶ交通の要地であり、ここを失えば毛利氏は山陰道の主導権を失う。
毛利方の武将・吉川経家が守将を務めている。
この攻勢の実務を担っているのが、秀吉の弟・羽柴秀長であった。
秀長は播磨・但馬の諸将をまとめ、因幡周辺の国衆への調略、街道と補給路の遮断、砦や陣城の築造を統括し、正面攻撃に先立って鳥取城を外界から孤立させる戦を進めていた。
現在、秀吉は主力を率いて前線に姿を見せているが、包囲網の維持と兵站管理、諸将への細かな指示は主に秀長が担っている。
毛利方の援軍は未だ現れず、城内では兵糧不足への不安が広がり始めている。
この一城をめぐる戦いは、すでに剣や槍だけでなく、補給と調略を軸とした消耗戦の様相を帯びつつあった。
尾根に砦。
谷に柵。
道には見張り。
兵は動かず、城だけを孤立させる。
静かな戦だった。
だが、その静けさこそが、兵の足と体を削る。
見回り
陣の警護
補給路の警戒
何も起きぬ日が、延々と続く
秀長の陣所では、与力や組頭たちが帳面を前に集まっていた。
「鉄砲組の報告です」
「足を痛めた者はいますが、歩けぬ者は少ないとのこと」
「火薬の不良も減っています」
「湿りが出ません」
秀長は無言で頷いた。
陣の外を見る。
白い木綿の足袋を履いた兵が、ぬかるんだ地面を踏みしめて歩いている。
足取りは重いが、崩れてはいない。
誰も座り込まない。
誰も担がれていない。
「……違うな」
秀長は低く呟いた。
確かに違っていた。
疲労はある。
だが、兵の士気はすり減ってはいない。
夕刻、秀長は馬に乗り、秀吉の陣所へ向かった。
簡素な幕舎。
中では秀吉が地図を広げ、側近たちと補給路の確認をしている。
「おお!秀長か」
秀吉は顔を上げた。
「様子はどうだ」
「静かです。動きはありません」
「で、どうした?」
秀長は事務的な口調で報告する
「今回の長戦に合わせて試したものがあります」
「兵の足が疲れません」
秀吉が眉を上げる。
「ほう?」
秀長は懐から包みを取り出し、足袋を差し出した。
「これです」
秀吉は受け取り、表裏を返し、縫い目を覗いた。
「布か?」
「木綿です」
「鉄砲袋もあります」
秀長は、油の匂いをほのかに残した布袋を差し出す。
「軽く、雨でも火薬が使えます」
秀吉は袋を手に持ち、まじまじと見つめて言った
「新しく作らせたんか。これらが戦に使えると?」
「使えます。兵の疲れを抑えられます」
秀長は即答した。
秀吉は黙った。
地図に視線を落とし、鳥取城の位置を指でなぞる。
やがて、顔を上げる。
「で、誰の知恵だ?小一郎、お主か?」
「竹若です」
秀長は答えた。
「長浜で、商人に作らせたようです」
秀吉は目を細めた。
「あやつか、なるほどな」
「……これのことを言っとたんか」
秀吉が、机上に散らばる書類の中から一通の手紙を探り出した。
「ねねからの手紙じゃ」
秀吉は、その手紙を手に、緩んだ表情で続けた。
「ねねがな」
と言って、秀長を見る。
「竹若のことを書いておる」
『長浜では、家臣と毎日のように評定の真似事をし、図を描き、帳面を広げ、足袋や袋の形まで決めております』
『父と伯父のお役に立ちたいと、寝る間も惜しんでおります』
『あの小さな背中で家のことを背負おうとしている姿が、なんとも愛らしく思います』
「まるで、嫁にやる前の娘を褒める文のようだわ」
そう言って、大声で笑った。
秀長も、口元を緩め、
「あの子は、戦に出たこともないのに、妙に戦さを知っています」
「書物を読み漁ると、頭に思い描けるものなのでしょう。竹中殿もそのような御仁でした」
秀吉は足袋をもう一度見た。
白い布。地味だが、兵の足を守る布。
「愉快な小僧だ」
秀吉は言った。
秀吉は、足袋を指でつまみ、しばらく眺めてから言った。
「武将でもない」
「奉行でもない」
「だが――」
そこで一度、言葉を切った。
「わしらの戦を、裏から支えておる」
「……不思議な子よ」
「わしらは百姓の倅として、槍と才覚だけでここまで来た」
「血も家も、後ろ盾もなかった」
足袋を握りしめる。
「だからこそ思う。家というものは、ありがたいもんだ」
秀長を見た。
「羽柴は、若い家だ」
「武だけでは、いつか折れる」
「知だけでも、いつか腐る」
秀吉は足袋を机に置いた。
「だが、竹若は違う。わしが欲しかったものを生まれながら持っておる」
「そして、わしが持てなかったものを作ろうとしておる」
口元が、わずかに緩む。
低く、笑った。
「可愛いではないか」
「羽柴の力を、刀でも城でもなく、足袋で支えようとするとは」
秀吉は続ける。
「それに、お主の身体を気遣い、滋養の丸薬を作って、送ってきたそうではないか?」
「家族思いよのう」
秀長は静かに頷いた。
「私には過ぎた息子です……」
そう言ってから、少し間を置いて続けた。
「この戦が終われば、足袋と袋を我が軍でさらに広めましょう」
秀吉は大きく頷いた。
「竹若には好きにやらせろ」
「いや、好きにやらせ“ねばならぬ”」
声が、わずかに低くなる。
「あれは、羽柴の血だ。ただの子ではない」
秀長をまっすぐ見た。
「兵を守れる者は、国も守れる」
「人を使い捨てにせぬ者は」
「家も使い捨てにせぬ」
「大きく育とうとする芽を」
「踏み潰すほど、わしは愚かではない」
秀吉は、もう一度足袋を手に取った。
陣の外では、夏の蝉が鳴いている。
鳥取城は、まだ沈黙している。
その沈黙の周囲を、白い足袋を履いた兵たちが、今日も黙々と歩いている。
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因幡の山は、夏でも湿り気を帯びていた。
谷あいには霧が溜まり、夜明けには白い靄(もや)が陣を包む。
昼になれば湿気を含んだ風が肌にまとわりつき、鎧の下はすぐに汗で濡れた。
1581年7月 因幡・鳥取城攻略戦
羽柴秀吉は織田信長の命を受け、中国方面から毛利氏の勢力圏へ圧力を強め、その要衝である因幡・鳥取城の攻略に着手。
鳥取城は山陰と播磨を結ぶ交通の要地であり、ここを失えば毛利氏は山陰道の主導権を失う。
毛利方の武将・吉川経家が守将を務めている。
この攻勢の実務を担っているのが、秀吉の弟・羽柴秀長であった。
秀長は播磨・但馬の諸将をまとめ、因幡周辺の国衆への調略、街道と補給路の遮断、砦や陣城の築造を統括し、正面攻撃に先立って鳥取城を外界から孤立させる戦を進めていた。
現在、秀吉は主力を率いて前線に姿を見せているが、包囲網の維持と兵站管理、諸将への細かな指示は主に秀長が担っている。
毛利方の援軍は未だ現れず、城内では兵糧不足への不安が広がり始めている。
この一城をめぐる戦いは、すでに剣や槍だけでなく、補給と調略を軸とした消耗戦の様相を帯びつつあった。
尾根に砦。
谷に柵。
道には見張り。
兵は動かず、城だけを孤立させる。
静かな戦だった。
だが、その静けさこそが、兵の足と体を削る。
見回り
陣の警護
補給路の警戒
何も起きぬ日が、延々と続く
秀長の陣所では、与力や組頭たちが帳面を前に集まっていた。
「鉄砲組の報告です」
「足を痛めた者はいますが、歩けぬ者は少ないとのこと」
「火薬の不良も減っています」
「湿りが出ません」
秀長は無言で頷いた。
陣の外を見る。
白い木綿の足袋を履いた兵が、ぬかるんだ地面を踏みしめて歩いている。
足取りは重いが、崩れてはいない。
誰も座り込まない。
誰も担がれていない。
「……違うな」
秀長は低く呟いた。
確かに違っていた。
疲労はある。
だが、兵の士気はすり減ってはいない。
夕刻、秀長は馬に乗り、秀吉の陣所へ向かった。
簡素な幕舎。
中では秀吉が地図を広げ、側近たちと補給路の確認をしている。
「おお!秀長か」
秀吉は顔を上げた。
「様子はどうだ」
「静かです。動きはありません」
「で、どうした?」
秀長は事務的な口調で報告する
「今回の長戦に合わせて試したものがあります」
「兵の足が疲れません」
秀吉が眉を上げる。
「ほう?」
秀長は懐から包みを取り出し、足袋を差し出した。
「これです」
秀吉は受け取り、表裏を返し、縫い目を覗いた。
「布か?」
「木綿です」
「鉄砲袋もあります」
秀長は、油の匂いをほのかに残した布袋を差し出す。
「軽く、雨でも火薬が使えます」
秀吉は袋を手に持ち、まじまじと見つめて言った
「新しく作らせたんか。これらが戦に使えると?」
「使えます。兵の疲れを抑えられます」
秀長は即答した。
秀吉は黙った。
地図に視線を落とし、鳥取城の位置を指でなぞる。
やがて、顔を上げる。
「で、誰の知恵だ?小一郎、お主か?」
「竹若です」
秀長は答えた。
「長浜で、商人に作らせたようです」
秀吉は目を細めた。
「あやつか、なるほどな」
「……これのことを言っとたんか」
秀吉が、机上に散らばる書類の中から一通の手紙を探り出した。
「ねねからの手紙じゃ」
秀吉は、その手紙を手に、緩んだ表情で続けた。
「ねねがな」
と言って、秀長を見る。
「竹若のことを書いておる」
『長浜では、家臣と毎日のように評定の真似事をし、図を描き、帳面を広げ、足袋や袋の形まで決めております』
『父と伯父のお役に立ちたいと、寝る間も惜しんでおります』
『あの小さな背中で家のことを背負おうとしている姿が、なんとも愛らしく思います』
「まるで、嫁にやる前の娘を褒める文のようだわ」
そう言って、大声で笑った。
秀長も、口元を緩め、
「あの子は、戦に出たこともないのに、妙に戦さを知っています」
「書物を読み漁ると、頭に思い描けるものなのでしょう。竹中殿もそのような御仁でした」
秀吉は足袋をもう一度見た。
白い布。地味だが、兵の足を守る布。
「愉快な小僧だ」
秀吉は言った。
秀吉は、足袋を指でつまみ、しばらく眺めてから言った。
「武将でもない」
「奉行でもない」
「だが――」
そこで一度、言葉を切った。
「わしらの戦を、裏から支えておる」
「……不思議な子よ」
「わしらは百姓の倅として、槍と才覚だけでここまで来た」
「血も家も、後ろ盾もなかった」
足袋を握りしめる。
「だからこそ思う。家というものは、ありがたいもんだ」
秀長を見た。
「羽柴は、若い家だ」
「武だけでは、いつか折れる」
「知だけでも、いつか腐る」
秀吉は足袋を机に置いた。
「だが、竹若は違う。わしが欲しかったものを生まれながら持っておる」
「そして、わしが持てなかったものを作ろうとしておる」
口元が、わずかに緩む。
低く、笑った。
「可愛いではないか」
「羽柴の力を、刀でも城でもなく、足袋で支えようとするとは」
秀吉は続ける。
「それに、お主の身体を気遣い、滋養の丸薬を作って、送ってきたそうではないか?」
「家族思いよのう」
秀長は静かに頷いた。
「私には過ぎた息子です……」
そう言ってから、少し間を置いて続けた。
「この戦が終われば、足袋と袋を我が軍でさらに広めましょう」
秀吉は大きく頷いた。
「竹若には好きにやらせろ」
「いや、好きにやらせ“ねばならぬ”」
声が、わずかに低くなる。
「あれは、羽柴の血だ。ただの子ではない」
秀長をまっすぐ見た。
「兵を守れる者は、国も守れる」
「人を使い捨てにせぬ者は」
「家も使い捨てにせぬ」
「大きく育とうとする芽を」
「踏み潰すほど、わしは愚かではない」
秀吉は、もう一度足袋を手に取った。
陣の外では、夏の蝉が鳴いている。
鳥取城は、まだ沈黙している。
その沈黙の周囲を、白い足袋を履いた兵たちが、今日も黙々と歩いている。
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