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第二章 動きだす歯車
第34話 竹生島詣
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天正10年(1582年)5月 近江・長浜 竹若
備中高松の名が、城の中でも重く語られるようになったのは、5月に入ってからだった。
使者が来るたび、地図の上の小さな城が指で叩かれ、兵糧の話、水攻めの話、毛利の援軍の話が低い声で交わされる。
男たちは声を抑えているつもりでも、戦の気配は襖の向こうまで滲み出てくる。
奥向きにいる母や女房たちが、それを感じ取らぬはずがなかった。
その日、私と母、ねね様は、奥の間で向かい合っていた。
茶は冷めかけていたが、誰も口をつけていない。
「……長引いているようですね」
ねね様が、ぽつりと言った。
声は静かだったが、指先が湯呑みの縁をなぞる動きだけが落ち着かなかった。
「高松城は、そう簡単には落ちぬ城だと聞きます」
母が応じる。
「毛利の領内ですもの。援軍も、いくらでも出ましょう」
ねね様は小さく息を吐いた。
「殿のお手紙では、順調と書いてありましたが…」
言葉を濁し、視線を伏せる。
順調だと書くのは、戦場にいる者の習いだ。
家にいる者を安心させるための言葉であることは皆わかっている。
母も、それを知っている。
「順調でないからこそ、書くのかもしれませんね」
責める調子ではなかった。
ただ、事実として口にしただけだった。
部屋の空気が、わずかに重くなる。
私は二人の横顔を見ていた。
戦況が不安だからではない。
不安であることを、口に出せない立場にいるからだ。
総大将の妻も、その右腕の妻も、弱音を吐けば城全体に波紋が広がる。
それを知っているからこそ、二人は静かにし、そしてそれが余計に不安そうに見えた。
私は、そこで口を開いた。
「母上」
「ねね様」
二人がこちらを見る。
「竹生島(ちくぶしま)へ詣でては、いかがでしょうか」
「竹生島……?」
ねね様が聞き返す。
「はい」
私は続けた。
「竹生島に戦勝祈願に詣でてはいかがかと」
「備中の戦も佳境と聞きますし」
「戦の趨勢を見守ることしかできない我々にできることは、祈ることくらい」
「家中も、反対しないと思いますが」
「戦勝祈願……」
ねね様の表情が、少しだけ和らいだ。
「竹生島の弁才天様なら、お聞き下さるかもしれません」
母も静かに頷いた。
「確かに、ただ案じているだけでは心が擦り切れます」
「神仏にお祈りすることができれば、少しは気持ちも落ち着きましょう」
ねね様が、私を見て微笑む。
「竹若殿は、よく気がつきますね」
母が続けた。
「では、吉日を選び、出かけることにいたしましょう」
「今からの準備となると、5月の終わりか6月の初旬頃かしら」
「参詣という形なら、騒ぎにもなりません」
ねね様が、少し声を明るくした。
「それなら、女衆も喜びます」
「戦の話ばかりでは、気が滅入りますもの」
私は、小さく頭を下げた。
「よいと思います」
それは嘘ではない。
二人の心が少しでも軽くなるなら、それでよい。
だが同時に、頭の中では別の歯車が、静かに噛み合っている。
城の女衆が総出で動くとなれば、ある程度の物資と警護の兵が必要だ。
(食料、水、薬、荷駄、兵)
口に出せば不粋な計算を、ただ頭の中で転がす。
ねね様が言った。
「護衛も必要ですね」
「このご時世ですもの」
私は少し考えるふりをしてから提案した。
「お祖父様にお願いしてはどうでしょう」
「北近江で一番頼りになる方です」
母がすぐに返事を返した。
「それはいい考えです。私から文を出します」
ねね様が、冗談めかして笑う。
「それでは参詣というより、出陣ですね」
私はその言葉を聞きながら、心の中で頷いた。
(祈りは、名目)
(準備が、本体)
誰も疑わない。
誰も警戒しない。
こうして人を集め、兵を動かし、物を運ぶこと自体が、あることへの準備になる。
ねね様が、私に微笑みかけた。
「竹若殿も、秀長さまの無事を一緒に祈りましょう」
「はい」
私は頭を下げた。
祈ることは決して無駄ではない。
大切な人のことを真剣に思い、手を合わせることは人として自然なことだと思う。
しかし、それだけでは足りないことも知っている。
守るべきものは、祈りだけでは残らない。
備えがなければ、人も、家も、幸せも簡単に崩れる。
母が言った。
「では、手配を始めましょう」
ねね様が頷く。
私は、その様子を見つめながら、胸の内で静かに付け加えた。
(伊勢屋を呼ぼう)
(京と大坂の噂を集めさせる)
(史実で秀吉家族が逃げたという大吉寺への道も、確認が必要だ)
表から見れば、ただの戦勝祈願の話し合いだ。
湖に浮かぶ島へ出ていき、祈って、帰ってくるだけの小さな旅の準備。
だが、それを隠れ蓑に、この後起きる変事への備えを万全にする。
史実では、本能寺の変の後すぐに、北近江での勢力回復を狙った京極や阿閉が長浜城を攻める。
この時、ねね様をはじめとする秀吉の家族は、小谷城のさらに山奥にある大吉寺に逃走して難を逃れる。
しかし、北近江での私という存在が、史実通りに進ませてくれるのか、正直不安だ。
万全を期した方が良い。
戦は、遠い備中で行われている。
だが、戦の余波は、いつも思いもよらぬ形で近づいてくる。
それを知っているのは、この城では、私だけだった。
数日後、伊勢屋宗右衛門を屋敷に呼んだ。
「宗右衛門殿、お久しぶりです」
「木綿の新しい商品づくりはいかがですか」
私は、先般、父から承認をもらった木綿の足袋、鉄砲袋などの生産について尋ねた。
「はい、生産は順調です。針子も徐々に増やしております」
「作っても作っても追いつかない状況です」
宗右衛門はにこやかに答えた。
「それは、商人冥利に尽きますね」
私は、そう言ってクスっと笑った。
「はい。ありがとうございます。竹若様のおかげでございます」
「それは、何よりです。引き続きよろしくお願いします」
そういう言って、手前に置かれていた湯呑みを手に取り、少し間を置く。
「ところで….」
私がそう切り出すと、雰囲気が変わったことを察した宗右衛門が、居住まいを正した。
「備中の戦のことです」
宗右衛門の眉が、わずかに動く。
「……高松城にございますか」
「そうです。ここにいると、戦況を聞くたびに話が食い違う」
「順調とも、長引いているとも」
私は湯呑みを置き、淡々と言った。
「戦場に出ている者の家族も多い」
「噂話ではなく、なるべく確かな話を、早く知りたい」
宗右衛門は一瞬考え、それから静かに頷いた。
「武家の使者も、商人も、寺の者も、皆、口が軽うございます」
「意図せずとも、戦の話は流れて参ります」
私は続けた。
「毛利の動き、援軍の話、兵糧の動き、講和の噂など、どんな小さな話でもいい」
「前にお願いした情報収集ですが、これから5日ごとに知らせてくれませんか」
「そして重要なことがあれば、何よりも早く」
「ずっとではありません。高松攻めが終わるまでで結構です」
「おそらく、1、2ヶ月の間でしょう」
宗右衛門は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
私はわずかに頷いた。
「無理に探る必要はありません」
「耳に入ったものを、必ず送ってほしい」
宗右衛門は少しだけ口元を緩めた。
「若様は、お優しい」
「城に残る皆様の不安を案じておられるのですね」
「……そうです」
私は短く答えた。
宗右衛門は再び深く礼をし、退出していった。
私は、何事もなかったように茶を飲んだ。
備中の戦さを案じる家は、どこにでもある。
その不安に応えるために、商人に頼るのも、珍しい話ではない。
ただ一つ違うのは、私だけが知っている、ある事。
そして、京と大坂の情報こそが、時に数万の兵よりも早く、国の形を変えることを。
だが、それを口にする必要はない。
この城の者たちは、ただ夫や父や子の無事を願っているだけなのだから。
私は湯呑みを置き、窓の外の若葉を見た。
風は穏やかで、湖は今日も静かだ。
しかし、まもなく、ここにも戦の風がやってくる。
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備中高松の名が、城の中でも重く語られるようになったのは、5月に入ってからだった。
使者が来るたび、地図の上の小さな城が指で叩かれ、兵糧の話、水攻めの話、毛利の援軍の話が低い声で交わされる。
男たちは声を抑えているつもりでも、戦の気配は襖の向こうまで滲み出てくる。
奥向きにいる母や女房たちが、それを感じ取らぬはずがなかった。
その日、私と母、ねね様は、奥の間で向かい合っていた。
茶は冷めかけていたが、誰も口をつけていない。
「……長引いているようですね」
ねね様が、ぽつりと言った。
声は静かだったが、指先が湯呑みの縁をなぞる動きだけが落ち着かなかった。
「高松城は、そう簡単には落ちぬ城だと聞きます」
母が応じる。
「毛利の領内ですもの。援軍も、いくらでも出ましょう」
ねね様は小さく息を吐いた。
「殿のお手紙では、順調と書いてありましたが…」
言葉を濁し、視線を伏せる。
順調だと書くのは、戦場にいる者の習いだ。
家にいる者を安心させるための言葉であることは皆わかっている。
母も、それを知っている。
「順調でないからこそ、書くのかもしれませんね」
責める調子ではなかった。
ただ、事実として口にしただけだった。
部屋の空気が、わずかに重くなる。
私は二人の横顔を見ていた。
戦況が不安だからではない。
不安であることを、口に出せない立場にいるからだ。
総大将の妻も、その右腕の妻も、弱音を吐けば城全体に波紋が広がる。
それを知っているからこそ、二人は静かにし、そしてそれが余計に不安そうに見えた。
私は、そこで口を開いた。
「母上」
「ねね様」
二人がこちらを見る。
「竹生島(ちくぶしま)へ詣でては、いかがでしょうか」
「竹生島……?」
ねね様が聞き返す。
「はい」
私は続けた。
「竹生島に戦勝祈願に詣でてはいかがかと」
「備中の戦も佳境と聞きますし」
「戦の趨勢を見守ることしかできない我々にできることは、祈ることくらい」
「家中も、反対しないと思いますが」
「戦勝祈願……」
ねね様の表情が、少しだけ和らいだ。
「竹生島の弁才天様なら、お聞き下さるかもしれません」
母も静かに頷いた。
「確かに、ただ案じているだけでは心が擦り切れます」
「神仏にお祈りすることができれば、少しは気持ちも落ち着きましょう」
ねね様が、私を見て微笑む。
「竹若殿は、よく気がつきますね」
母が続けた。
「では、吉日を選び、出かけることにいたしましょう」
「今からの準備となると、5月の終わりか6月の初旬頃かしら」
「参詣という形なら、騒ぎにもなりません」
ねね様が、少し声を明るくした。
「それなら、女衆も喜びます」
「戦の話ばかりでは、気が滅入りますもの」
私は、小さく頭を下げた。
「よいと思います」
それは嘘ではない。
二人の心が少しでも軽くなるなら、それでよい。
だが同時に、頭の中では別の歯車が、静かに噛み合っている。
城の女衆が総出で動くとなれば、ある程度の物資と警護の兵が必要だ。
(食料、水、薬、荷駄、兵)
口に出せば不粋な計算を、ただ頭の中で転がす。
ねね様が言った。
「護衛も必要ですね」
「このご時世ですもの」
私は少し考えるふりをしてから提案した。
「お祖父様にお願いしてはどうでしょう」
「北近江で一番頼りになる方です」
母がすぐに返事を返した。
「それはいい考えです。私から文を出します」
ねね様が、冗談めかして笑う。
「それでは参詣というより、出陣ですね」
私はその言葉を聞きながら、心の中で頷いた。
(祈りは、名目)
(準備が、本体)
誰も疑わない。
誰も警戒しない。
こうして人を集め、兵を動かし、物を運ぶこと自体が、あることへの準備になる。
ねね様が、私に微笑みかけた。
「竹若殿も、秀長さまの無事を一緒に祈りましょう」
「はい」
私は頭を下げた。
祈ることは決して無駄ではない。
大切な人のことを真剣に思い、手を合わせることは人として自然なことだと思う。
しかし、それだけでは足りないことも知っている。
守るべきものは、祈りだけでは残らない。
備えがなければ、人も、家も、幸せも簡単に崩れる。
母が言った。
「では、手配を始めましょう」
ねね様が頷く。
私は、その様子を見つめながら、胸の内で静かに付け加えた。
(伊勢屋を呼ぼう)
(京と大坂の噂を集めさせる)
(史実で秀吉家族が逃げたという大吉寺への道も、確認が必要だ)
表から見れば、ただの戦勝祈願の話し合いだ。
湖に浮かぶ島へ出ていき、祈って、帰ってくるだけの小さな旅の準備。
だが、それを隠れ蓑に、この後起きる変事への備えを万全にする。
史実では、本能寺の変の後すぐに、北近江での勢力回復を狙った京極や阿閉が長浜城を攻める。
この時、ねね様をはじめとする秀吉の家族は、小谷城のさらに山奥にある大吉寺に逃走して難を逃れる。
しかし、北近江での私という存在が、史実通りに進ませてくれるのか、正直不安だ。
万全を期した方が良い。
戦は、遠い備中で行われている。
だが、戦の余波は、いつも思いもよらぬ形で近づいてくる。
それを知っているのは、この城では、私だけだった。
数日後、伊勢屋宗右衛門を屋敷に呼んだ。
「宗右衛門殿、お久しぶりです」
「木綿の新しい商品づくりはいかがですか」
私は、先般、父から承認をもらった木綿の足袋、鉄砲袋などの生産について尋ねた。
「はい、生産は順調です。針子も徐々に増やしております」
「作っても作っても追いつかない状況です」
宗右衛門はにこやかに答えた。
「それは、商人冥利に尽きますね」
私は、そう言ってクスっと笑った。
「はい。ありがとうございます。竹若様のおかげでございます」
「それは、何よりです。引き続きよろしくお願いします」
そういう言って、手前に置かれていた湯呑みを手に取り、少し間を置く。
「ところで….」
私がそう切り出すと、雰囲気が変わったことを察した宗右衛門が、居住まいを正した。
「備中の戦のことです」
宗右衛門の眉が、わずかに動く。
「……高松城にございますか」
「そうです。ここにいると、戦況を聞くたびに話が食い違う」
「順調とも、長引いているとも」
私は湯呑みを置き、淡々と言った。
「戦場に出ている者の家族も多い」
「噂話ではなく、なるべく確かな話を、早く知りたい」
宗右衛門は一瞬考え、それから静かに頷いた。
「武家の使者も、商人も、寺の者も、皆、口が軽うございます」
「意図せずとも、戦の話は流れて参ります」
私は続けた。
「毛利の動き、援軍の話、兵糧の動き、講和の噂など、どんな小さな話でもいい」
「前にお願いした情報収集ですが、これから5日ごとに知らせてくれませんか」
「そして重要なことがあれば、何よりも早く」
「ずっとではありません。高松攻めが終わるまでで結構です」
「おそらく、1、2ヶ月の間でしょう」
宗右衛門は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
私はわずかに頷いた。
「無理に探る必要はありません」
「耳に入ったものを、必ず送ってほしい」
宗右衛門は少しだけ口元を緩めた。
「若様は、お優しい」
「城に残る皆様の不安を案じておられるのですね」
「……そうです」
私は短く答えた。
宗右衛門は再び深く礼をし、退出していった。
私は、何事もなかったように茶を飲んだ。
備中の戦さを案じる家は、どこにでもある。
その不安に応えるために、商人に頼るのも、珍しい話ではない。
ただ一つ違うのは、私だけが知っている、ある事。
そして、京と大坂の情報こそが、時に数万の兵よりも早く、国の形を変えることを。
だが、それを口にする必要はない。
この城の者たちは、ただ夫や父や子の無事を願っているだけなのだから。
私は湯呑みを置き、窓の外の若葉を見た。
風は穏やかで、湖は今日も静かだ。
しかし、まもなく、ここにも戦の風がやってくる。
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