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第二章 動きだす歯車
第35話 本能寺
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天正10年(1582年)6月 京・本能寺/近江・長浜
天正10年(1582年)6月2日
夜が都の屋根瓦に重くのしかかっている時刻、丹波亀山城を出た軍勢が、西へ向かって動き始めた。
旗指物は伏せられ、兵は声を押し殺している。
ただ鎧の擦れる音と、馬の鼻息だけが、闇の底を静かに踏みしめていく。
総大将は、明智光秀。
行き先は、中国方面――羽柴秀吉の陣へ向かう援軍であると触れ回られていた。
だが、その軍勢は山崎へ向かわず、桂川を越え、闇に紛れて京へと針路を変えた。
目標は、本能寺。
織田信長の宿所だった。
そのとき信長は、武田征伐を終え、畿内を巡察し、中国方面の戦況を掌握するため、最小限の供回りだけを連れて京に入っていた。
京に入ったのは、数日前。
公家や僧侶、商人などを招いて茶会を開くなどして過ごしていた。
天下の大名の宿泊地としては警備も薄く、寺をそのまま屋敷とした本能寺は、もはや日常の延長のような場所だった。
そして、嫡男・信忠もまた、京にいた。
妙覚寺に入り、政務と軍務の準備を進めていた。
武田滅亡によって東国は平定され、次なる大敵は中国と四国。
父子ともに、天下の仕上げを目前にした静かな緊張の中にあった。
まさか、その京の闇の向こうから、刃が伸びてくるとは、誰も考えていなかった。
早朝、虎の刻ごろ(午前4時から5時前後)
本能寺の周囲を、無数の松明が囲んだ。
鬨の声
鉄砲
炎
寺の回廊に火がかけられ、夜気が一瞬で熱に変わる。
信長は僅かな近習とともに応戦したが、多勢に無勢だった。
退路を断たれると、自らの刀を抜き、寺に火を放たせる。
―是非に及ばず。
その言葉だけを残し、信長は炎の中に消えた。
異変はすぐに信忠のもとにも届いた。
信忠は妙覚寺を脱し、二条御所へ移動する。
土塁を固め、兵を集め、徹底抗戦の構えを取った。
だが、明智軍はすでに京を掌握していた。
四方から包囲され、鉄砲の火が城内に降り注ぐ。
夜が明けるころ、二条御所もまた炎に包まれた。
信忠は逃げず、自刃した。
かくして、織田信長と、その嫡男にして織田家当主・信忠は、一夜にして世を去った。
天下を支えていた大黒柱は、音もなく折れた。
だが、その事実が近江長浜に届くには、まだ時間が必要だった。
湖の水面は変わらず静かで、城の櫓は朝霧の中に立ち、何も知らぬ人々がいつもの朝を迎えていた。
京・昼前
京の市中は、混乱の極みにあった。
人が走り、戸が閉まり、僧が逃げ、商人が店を畳み、誰もが誰かの言葉を借りて噂を作る。
「本能寺が焼けた」
「信長公が討たれた」
「いや、生きておられる」
「二条で信忠公が戦っている」
噂は混ざり合い、形を持たぬまま拡散していった。
伊勢屋の京店の番頭は、軒下で空を見上げ、黒煙を睨みながら呟いた。
「……これは大事だ」
備中高松の戦況を探れ、という長浜からの依頼を思い出す。
番頭は、すぐに手代を呼びつけた。
「内容の正確さどうでもいい。異変が起きた、今、我々がわかる範囲でよい」
「一刻も早く長浜へ行って知らせよ」
手代は草鞋を締め直し、街道へ走り出した。
長浜城に第一報が届いたのは、翌日(6月3日)の昼過ぎだった。
城では3日後に予定されている竹生島詣に向けて、準備に追われていた。皆、久しぶりの行楽に浮き足だち、初夏の陽気とあいまって、朗らかで明るい雰囲気が漂っていた。
そのような中、城門の番兵が異様な様子で近づく男を捕まえ、詰問したところ、伊勢屋宗右衛門と名乗った。
若様の屋敷に出入りしている商人だと判明し、屋敷に使いを走らせた。
尋常ではない様子だと聞いた本多俊政が急いで宗右衛門を迎えに行き事情を聞く。
宗右衛門は荒れた息もそのままに、声を絞り出した。
「京の店から至急の頼りがございました」
「洛中で一大事が出来したとのことでございます」
「若様にお取り継ぎをお願いいたします」
奥の間にはすでに秀長家臣と竹若が集まっていた。
宗右衛門は、軽く一礼だけすると、京から駆けつけた手代が話した内容を一気に捲し立てた。
「昨日未明、信長公ご宿所、本能寺が襲撃されました」
「襲撃したのは明智勢との噂」
「数千の軍勢が本能寺を取り囲み、火をかけ、中にいた者を皆殺しにしたと」
「信長公が討たれたという声もこざいます……」
「信忠公がおられた二条城も兵に囲まれているとか。信忠公も討たれたという話も」
小堀正次が呆然とした様子で声を捻り出した
「討たれた……だと?」
「明智日向守殿(あけちひゅうがのかみ)が....まさか....」
「噂にございます。市中では、皆、違うことを」
「手代が京を出発したは昨日昼。真偽定まらぬ話が飛び交っていたとのことでござざいます」
「竹若様から大きな出来事があればすぐに知らせよというご指示でしたので、京の番頭の機転で急ぎ駆けつけた次第でございます」
磯野員昌が低い声で確認する。
「裏は取れていないのだな」
「次の報せも来るようになっているのか?」
「はい。京の店で人々の話を整理し事実を確認したうえで、昨日夕方には再度使いを出す段取りであったと聞いております」
宗右衛門が答える。
「では、慌てずに次の報せを待つ」
「この話はここだけに留めよ。絶対に誰にも漏らしてはならぬ。ねね殿、お初にもだ」
「宗右衛門は店に戻り、店の者にも徹底させよ。そして疲れをとれ」
「次の報せがきたら、何時でもよい、すぐに駆けつけよ」
「門番には話を通しておく」
歴戦の武者・磯野が冷静に対応していく。
宗右衛門が退室した後、しばらく、無言が続いた。
最初に、羽田正親が口を開いた。
「信長公ほどの方が、奇襲で討たれるとは考えにくい」
「しかも、日向守殿がご謀反とは何かの間違いでありましょう」
その場にいた全員がそう思いたい、という言葉であった。
しかし、京で何か一大事が起こったことは間違いがない。
不安だけが募る中で、全員がその場を動けずにいた。
沈黙を破るように、私が声を出す。
「昨日夕方に京を出たならば、ここに着くのは早くても今日の夜になります」
「それまで何もしないのは悪手」
「こちらからも京を探るために人を遣りましょう」
「それと、いざと言うときのために、備えが必要です」
「竹生島詣のための準備を急がせましょう」
本多がこれに反応した。
「急ぎ、使いの者を仕立てます」
と言うや否や、走って部屋を出ていった。
磯野が続けて言う。
「竹若の言うとおりだ。竹生島詣は隠れ蓑になる」
「物資の再確認と補充、移動の演習という名目で城の者を動員する」
「竹若が心配して、早く準備せよと騒ぐということにするが、よいか?」
磯野が意地の悪い笑みを浮かべて私を見る。
私は苦笑いを浮かべて
「それで結構です」
とだけ答えた。
第二報は、深夜に届いた。
宗右衛門が大急ぎで屋敷に駆けつけてきた。
すぐに連れてくるよう伝えられていた門番が、直ちに中へ通し、奥の間まで案内された。
宗右衛門が息を切らせながら言う。
「明智日向守様、ご謀反」
「明智勢により本能寺は全焼、信長公は討たれたとの由」
「御遺骸は見つかっていないとのことでございます」
「信忠公は二条御所にて自刃」
「明智勢は、京を掌握し、禁中にも使いを走らせているとの噂」
懐から書付を差し出した。
小堀が受け取り、灯の下で読む。
京の商人仲間、寺社筋、武家の下人筋――複数の手による書状の写しだった。
そこには共通して、こうあった。
『逆心の首謀、惟任(これとう)日向守光秀』
部屋の空気が凍る。
羽田が吐き捨てるように言った。
「……光秀か」
本多俊政が歯を食いしばる。
「まさか……」
磯野が腕を組んだまま静かに言う。
「これは間違いあるまい」
「わずかな供廻りで守りの薄い仏閣に。しかもご当主まで近くにいるとは」
「光秀め、まさに戦国乱世に生きる男の乾坤一擲の大勝負よ」
私は、武人然とする祖父の言動に苦笑いを浮かべながら、話を進めた。
「確かに大きな隙を見せてしまったのは事実でしょう。喰ってくれと言わんばかりに…」
「我らは、至急、身の振り方を考えねばなりません」
「皆を集めましょう」
(次に続く)
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天正10年(1582年)6月2日
夜が都の屋根瓦に重くのしかかっている時刻、丹波亀山城を出た軍勢が、西へ向かって動き始めた。
旗指物は伏せられ、兵は声を押し殺している。
ただ鎧の擦れる音と、馬の鼻息だけが、闇の底を静かに踏みしめていく。
総大将は、明智光秀。
行き先は、中国方面――羽柴秀吉の陣へ向かう援軍であると触れ回られていた。
だが、その軍勢は山崎へ向かわず、桂川を越え、闇に紛れて京へと針路を変えた。
目標は、本能寺。
織田信長の宿所だった。
そのとき信長は、武田征伐を終え、畿内を巡察し、中国方面の戦況を掌握するため、最小限の供回りだけを連れて京に入っていた。
京に入ったのは、数日前。
公家や僧侶、商人などを招いて茶会を開くなどして過ごしていた。
天下の大名の宿泊地としては警備も薄く、寺をそのまま屋敷とした本能寺は、もはや日常の延長のような場所だった。
そして、嫡男・信忠もまた、京にいた。
妙覚寺に入り、政務と軍務の準備を進めていた。
武田滅亡によって東国は平定され、次なる大敵は中国と四国。
父子ともに、天下の仕上げを目前にした静かな緊張の中にあった。
まさか、その京の闇の向こうから、刃が伸びてくるとは、誰も考えていなかった。
早朝、虎の刻ごろ(午前4時から5時前後)
本能寺の周囲を、無数の松明が囲んだ。
鬨の声
鉄砲
炎
寺の回廊に火がかけられ、夜気が一瞬で熱に変わる。
信長は僅かな近習とともに応戦したが、多勢に無勢だった。
退路を断たれると、自らの刀を抜き、寺に火を放たせる。
―是非に及ばず。
その言葉だけを残し、信長は炎の中に消えた。
異変はすぐに信忠のもとにも届いた。
信忠は妙覚寺を脱し、二条御所へ移動する。
土塁を固め、兵を集め、徹底抗戦の構えを取った。
だが、明智軍はすでに京を掌握していた。
四方から包囲され、鉄砲の火が城内に降り注ぐ。
夜が明けるころ、二条御所もまた炎に包まれた。
信忠は逃げず、自刃した。
かくして、織田信長と、その嫡男にして織田家当主・信忠は、一夜にして世を去った。
天下を支えていた大黒柱は、音もなく折れた。
だが、その事実が近江長浜に届くには、まだ時間が必要だった。
湖の水面は変わらず静かで、城の櫓は朝霧の中に立ち、何も知らぬ人々がいつもの朝を迎えていた。
京・昼前
京の市中は、混乱の極みにあった。
人が走り、戸が閉まり、僧が逃げ、商人が店を畳み、誰もが誰かの言葉を借りて噂を作る。
「本能寺が焼けた」
「信長公が討たれた」
「いや、生きておられる」
「二条で信忠公が戦っている」
噂は混ざり合い、形を持たぬまま拡散していった。
伊勢屋の京店の番頭は、軒下で空を見上げ、黒煙を睨みながら呟いた。
「……これは大事だ」
備中高松の戦況を探れ、という長浜からの依頼を思い出す。
番頭は、すぐに手代を呼びつけた。
「内容の正確さどうでもいい。異変が起きた、今、我々がわかる範囲でよい」
「一刻も早く長浜へ行って知らせよ」
手代は草鞋を締め直し、街道へ走り出した。
長浜城に第一報が届いたのは、翌日(6月3日)の昼過ぎだった。
城では3日後に予定されている竹生島詣に向けて、準備に追われていた。皆、久しぶりの行楽に浮き足だち、初夏の陽気とあいまって、朗らかで明るい雰囲気が漂っていた。
そのような中、城門の番兵が異様な様子で近づく男を捕まえ、詰問したところ、伊勢屋宗右衛門と名乗った。
若様の屋敷に出入りしている商人だと判明し、屋敷に使いを走らせた。
尋常ではない様子だと聞いた本多俊政が急いで宗右衛門を迎えに行き事情を聞く。
宗右衛門は荒れた息もそのままに、声を絞り出した。
「京の店から至急の頼りがございました」
「洛中で一大事が出来したとのことでございます」
「若様にお取り継ぎをお願いいたします」
奥の間にはすでに秀長家臣と竹若が集まっていた。
宗右衛門は、軽く一礼だけすると、京から駆けつけた手代が話した内容を一気に捲し立てた。
「昨日未明、信長公ご宿所、本能寺が襲撃されました」
「襲撃したのは明智勢との噂」
「数千の軍勢が本能寺を取り囲み、火をかけ、中にいた者を皆殺しにしたと」
「信長公が討たれたという声もこざいます……」
「信忠公がおられた二条城も兵に囲まれているとか。信忠公も討たれたという話も」
小堀正次が呆然とした様子で声を捻り出した
「討たれた……だと?」
「明智日向守殿(あけちひゅうがのかみ)が....まさか....」
「噂にございます。市中では、皆、違うことを」
「手代が京を出発したは昨日昼。真偽定まらぬ話が飛び交っていたとのことでござざいます」
「竹若様から大きな出来事があればすぐに知らせよというご指示でしたので、京の番頭の機転で急ぎ駆けつけた次第でございます」
磯野員昌が低い声で確認する。
「裏は取れていないのだな」
「次の報せも来るようになっているのか?」
「はい。京の店で人々の話を整理し事実を確認したうえで、昨日夕方には再度使いを出す段取りであったと聞いております」
宗右衛門が答える。
「では、慌てずに次の報せを待つ」
「この話はここだけに留めよ。絶対に誰にも漏らしてはならぬ。ねね殿、お初にもだ」
「宗右衛門は店に戻り、店の者にも徹底させよ。そして疲れをとれ」
「次の報せがきたら、何時でもよい、すぐに駆けつけよ」
「門番には話を通しておく」
歴戦の武者・磯野が冷静に対応していく。
宗右衛門が退室した後、しばらく、無言が続いた。
最初に、羽田正親が口を開いた。
「信長公ほどの方が、奇襲で討たれるとは考えにくい」
「しかも、日向守殿がご謀反とは何かの間違いでありましょう」
その場にいた全員がそう思いたい、という言葉であった。
しかし、京で何か一大事が起こったことは間違いがない。
不安だけが募る中で、全員がその場を動けずにいた。
沈黙を破るように、私が声を出す。
「昨日夕方に京を出たならば、ここに着くのは早くても今日の夜になります」
「それまで何もしないのは悪手」
「こちらからも京を探るために人を遣りましょう」
「それと、いざと言うときのために、備えが必要です」
「竹生島詣のための準備を急がせましょう」
本多がこれに反応した。
「急ぎ、使いの者を仕立てます」
と言うや否や、走って部屋を出ていった。
磯野が続けて言う。
「竹若の言うとおりだ。竹生島詣は隠れ蓑になる」
「物資の再確認と補充、移動の演習という名目で城の者を動員する」
「竹若が心配して、早く準備せよと騒ぐということにするが、よいか?」
磯野が意地の悪い笑みを浮かべて私を見る。
私は苦笑いを浮かべて
「それで結構です」
とだけ答えた。
第二報は、深夜に届いた。
宗右衛門が大急ぎで屋敷に駆けつけてきた。
すぐに連れてくるよう伝えられていた門番が、直ちに中へ通し、奥の間まで案内された。
宗右衛門が息を切らせながら言う。
「明智日向守様、ご謀反」
「明智勢により本能寺は全焼、信長公は討たれたとの由」
「御遺骸は見つかっていないとのことでございます」
「信忠公は二条御所にて自刃」
「明智勢は、京を掌握し、禁中にも使いを走らせているとの噂」
懐から書付を差し出した。
小堀が受け取り、灯の下で読む。
京の商人仲間、寺社筋、武家の下人筋――複数の手による書状の写しだった。
そこには共通して、こうあった。
『逆心の首謀、惟任(これとう)日向守光秀』
部屋の空気が凍る。
羽田が吐き捨てるように言った。
「……光秀か」
本多俊政が歯を食いしばる。
「まさか……」
磯野が腕を組んだまま静かに言う。
「これは間違いあるまい」
「わずかな供廻りで守りの薄い仏閣に。しかもご当主まで近くにいるとは」
「光秀め、まさに戦国乱世に生きる男の乾坤一擲の大勝負よ」
私は、武人然とする祖父の言動に苦笑いを浮かべながら、話を進めた。
「確かに大きな隙を見せてしまったのは事実でしょう。喰ってくれと言わんばかりに…」
「我らは、至急、身の振り方を考えねばなりません」
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