40 / 47
第二章 動きだす歯車
第37話 退いてなお
しおりを挟む
天正10年(1582年)6月4日~5日 近江・長浜 竹若
長浜城から退避することを決めた、昨日の夜。
私と祖父は、悪巧みの相談をしていた。
「お祖父様」
祖父は私の目をじっと見た。
その眼差しには、試すような光と、どこか愉しむ気配が混じっている。
「……なんだ」
「大吉寺へ退くだけなら、それほど兵は要りません」
祖父の眉がわずかに動いた。
「ほう?」
「山中は道幅も狭く、大量の兵は動かせません」
「柵を立てれば、寺へ近づくことも容易ではないでしょう」
私は続ける。
「兵は半数でも足ります」
「残りは……使えます」
「どう使う?」
一呼吸置き、私は言った。
「城に残すのものは、形だけにします」
「武具、兵糧、金銀。持てるだけ持ち出します」
祖父の目が細くなった。
「どこに持ち出すつもりだ?」
「竹生島」
即答した。
「詣でのために用意した船があります。商人の船も使えます」
「湖上ならば目も届きにくい」
「島に分けて置けば、一度に奪われることもありません」
祖父は腕を組み、低く唸った。
「……城を奪われても、腹は痛まぬというわけか」
「はい」
「明智方が長浜を押さえても、得るものがなければ長居はしないでしょう」
「城を取られても、長浜は死にません」
しばし沈黙。
やがて祖父の口元が緩んだ。
「面白い」
そして静かに続けた。
「兵を使って、朝までに積めるだけ積む」
「精鋭を分け、竹生島へ運ぶ」
「夜半に動く」
私は深く頷いた。
「あと、信頼できる者を30ほど、城下に残したいのです」
「商人に紛れさせ、伊勢屋の下で動きを探らせます」
「夜ごと大吉寺へ報せさせます」
「京とのやり取りも絶やしません」
「退くが、負けはせぬか」
「それでこそ、羽柴の子よ」
そう言って祖父は小さく笑った。
それからすぐ、城内の蔵が静かに開かれた。
米、干飯、塩魚、矢束、火縄、丸薬。
箱に詰められた金銀。
灯を極力落とし、足音を殺しながら、船へと積み込まれていく。
湖面は月を映し、音もなく揺れていた。
やがて空が白み始めたころ、船は竹生島へ向けて滑り出した。
長浜城は、何事もなかったかのように佇んでいたが、その中身は、半ば空となっていた。
一方、伊勢屋宗右衛門は使番と対面していた。
「商いはそのまま」
「城下で得られた情報を書き留め、夜ごと山へ」
「京との文も続けること」
宗右衛門は深く頭を下げた。
「心得ております」
そして、長浜の町は朝を迎え、大吉寺へ向かう一行が城を出て行った。
城を退避した翌日(6月5日)
太陽が真上に上がってきた時刻。
本堂の一室に、ねね様と母、女衆が座っていた。
「……城は」
ねね様が小さく問う。
母は首を横に振った。
「まだ、分かりません」
それ以上は言わない。
落ちたかもしれないという言葉は、誰も口にしなかった。
そのとき、山門の外が騒がしくなった。
商人風の男が一人、駆け上がってくる。
「伊勢屋の手代でございます」
「長浜城に……明智方が入りました」
「旗印は阿閉貞征」
磯野が、直ちに近くの兵に命じる。
「山門の下、狭道に柵と逆茂木を立てよ」
「全兵、持ち場につけ」
手代は続けた。
「番頭の宗右衛門より伝言でごいざいます」
「筑前守様、秀長様に、長浜の状況をお知らせになられるべき」
「文は伊勢屋にお任せくださいませ」
その言葉に、私は気づいた。
秀吉と父は、まだ長浜の状況を知らない。
情報収集に気を取られていたが、こちらのことを父に伝えなければ。
私はすぐに小堀を呼んだ。
「文を書きます。父上へ」
「ねね様にも、伯父上に文を書くよう伝えてください」
机に紙を置く。
父が知りたいのは、一つだけだ。
家族が無事であること。
長浜を退き、山寺にいること。
ふと思いつき、最後にある一言を添えた。
父の勇気になればよいと思った。
短く記すと、小堀が裏書きを加えた。
文を手代に渡し、その手を握って思いを伝える。
「播磨、羽柴の陣へ。よろしく頼む」
「命に代えましても」
手代は懐に収め、山を下りていった。
本堂に立つと木々の間から陽の光に輝く水面が見える。
湖の向こうで、天下が動き始めている。
(ブックマーク・感想いただけると励みになります)
長浜城から退避することを決めた、昨日の夜。
私と祖父は、悪巧みの相談をしていた。
「お祖父様」
祖父は私の目をじっと見た。
その眼差しには、試すような光と、どこか愉しむ気配が混じっている。
「……なんだ」
「大吉寺へ退くだけなら、それほど兵は要りません」
祖父の眉がわずかに動いた。
「ほう?」
「山中は道幅も狭く、大量の兵は動かせません」
「柵を立てれば、寺へ近づくことも容易ではないでしょう」
私は続ける。
「兵は半数でも足ります」
「残りは……使えます」
「どう使う?」
一呼吸置き、私は言った。
「城に残すのものは、形だけにします」
「武具、兵糧、金銀。持てるだけ持ち出します」
祖父の目が細くなった。
「どこに持ち出すつもりだ?」
「竹生島」
即答した。
「詣でのために用意した船があります。商人の船も使えます」
「湖上ならば目も届きにくい」
「島に分けて置けば、一度に奪われることもありません」
祖父は腕を組み、低く唸った。
「……城を奪われても、腹は痛まぬというわけか」
「はい」
「明智方が長浜を押さえても、得るものがなければ長居はしないでしょう」
「城を取られても、長浜は死にません」
しばし沈黙。
やがて祖父の口元が緩んだ。
「面白い」
そして静かに続けた。
「兵を使って、朝までに積めるだけ積む」
「精鋭を分け、竹生島へ運ぶ」
「夜半に動く」
私は深く頷いた。
「あと、信頼できる者を30ほど、城下に残したいのです」
「商人に紛れさせ、伊勢屋の下で動きを探らせます」
「夜ごと大吉寺へ報せさせます」
「京とのやり取りも絶やしません」
「退くが、負けはせぬか」
「それでこそ、羽柴の子よ」
そう言って祖父は小さく笑った。
それからすぐ、城内の蔵が静かに開かれた。
米、干飯、塩魚、矢束、火縄、丸薬。
箱に詰められた金銀。
灯を極力落とし、足音を殺しながら、船へと積み込まれていく。
湖面は月を映し、音もなく揺れていた。
やがて空が白み始めたころ、船は竹生島へ向けて滑り出した。
長浜城は、何事もなかったかのように佇んでいたが、その中身は、半ば空となっていた。
一方、伊勢屋宗右衛門は使番と対面していた。
「商いはそのまま」
「城下で得られた情報を書き留め、夜ごと山へ」
「京との文も続けること」
宗右衛門は深く頭を下げた。
「心得ております」
そして、長浜の町は朝を迎え、大吉寺へ向かう一行が城を出て行った。
城を退避した翌日(6月5日)
太陽が真上に上がってきた時刻。
本堂の一室に、ねね様と母、女衆が座っていた。
「……城は」
ねね様が小さく問う。
母は首を横に振った。
「まだ、分かりません」
それ以上は言わない。
落ちたかもしれないという言葉は、誰も口にしなかった。
そのとき、山門の外が騒がしくなった。
商人風の男が一人、駆け上がってくる。
「伊勢屋の手代でございます」
「長浜城に……明智方が入りました」
「旗印は阿閉貞征」
磯野が、直ちに近くの兵に命じる。
「山門の下、狭道に柵と逆茂木を立てよ」
「全兵、持ち場につけ」
手代は続けた。
「番頭の宗右衛門より伝言でごいざいます」
「筑前守様、秀長様に、長浜の状況をお知らせになられるべき」
「文は伊勢屋にお任せくださいませ」
その言葉に、私は気づいた。
秀吉と父は、まだ長浜の状況を知らない。
情報収集に気を取られていたが、こちらのことを父に伝えなければ。
私はすぐに小堀を呼んだ。
「文を書きます。父上へ」
「ねね様にも、伯父上に文を書くよう伝えてください」
机に紙を置く。
父が知りたいのは、一つだけだ。
家族が無事であること。
長浜を退き、山寺にいること。
ふと思いつき、最後にある一言を添えた。
父の勇気になればよいと思った。
短く記すと、小堀が裏書きを加えた。
文を手代に渡し、その手を握って思いを伝える。
「播磨、羽柴の陣へ。よろしく頼む」
「命に代えましても」
手代は懐に収め、山を下りていった。
本堂に立つと木々の間から陽の光に輝く水面が見える。
湖の向こうで、天下が動き始めている。
(ブックマーク・感想いただけると励みになります)
22
あなたにおすすめの小説
イジメられっ子世に憚る。
satomi
ファンタジー
主人公須藤正巳はぼんやりと教室で授業を受けていた。その時、突然教室中に物凄い量の光が…。 正巳が属する2-C全員が異世界転移することとなってしまった。 その世界では今まで正巳が陰キャとして読み漁ったラノベともゲームとも異なり、レベルがカウントダウン制。つまりレベル999よりレベル1の方が強い。という世界だった。 そんな中、クラスのリーダー的陽キャである神谷により全員で教室の外に出ることに。 いきなりドラゴンに出会い、クラスの全員がとった行動が『正巳を囮にして逃げること』だった。 なんとか生き延びた正巳は、まず逃げた連中へ復讐を誓う。
私の名は多米又三郎。三河東部の国境を任されていますが周囲は全て親今川なので安全安心。と思っていたらその今川と揉めた国衆が我が城に……。
俣彦
ファンタジー
超無名でありますが戦国時代に実在した国衆多米又三郎。
三河と遠江の国境地帯に居を構えるも、多米氏を含め周りは全て今川方のため安全安心。
と思っていたら独立心旺盛な牧野氏が今川と喧嘩。ただこれは全盛期の伊勢盛時の力もあり、火の粉が降りかかる事は無かったのでありましたが……。
次に出て来た戸田氏が宣戦布告の地に選んだのが……。
今川より託されている我が居城。船方山城でありました……。
転生大賢者の現代生活
サクラ近衛将監
ファンタジー
ベイリッド帝国の大賢者として173歳で大往生したはずのロイドベル・ダルク・ブラームントは、何の因果か異世界のとある若者に転生を遂げた。
ロイドベルの知識、経験、能力、更にはインベントリとその中身まで引き継いで、佐島幸次郎として生き返ったのである。
これは、21世紀の日本に蘇った大賢者の日常の生活と冒険を綴る物語である。
原則として、毎週土曜日の午後8時に投稿予定です。
感想は受け付けていますけれど、原則として返事は致しませんので悪しからずご了承ください。
ゲームコインをザクザク現金化。還暦オジ、田舎で世界を攻略中
あ、まん。
ファンタジー
仕事一筋40年。
結婚もせずに会社に尽くしてきた二瓶豆丸。
定年を迎え、静かな余生を求めて山奥へ移住する。
だが、突如世界が“数値化”され、現実がゲームのように変貌。
唯一の趣味だった15年続けた積みゲー「モリモリ」が、 なぜか現実世界とリンクし始める。
化け物が徘徊する世界で出会ったひとりの少女、滝川歩茶。
彼女を守るため、豆丸は“積みゲー”スキルを駆使して立ち上がる。
現金化されるコイン、召喚されるゲームキャラたち、 そして迫りくる謎の敵――。
これは、還暦オジが挑む、〝人生最後の積みゲー〟であり〝世界最後の攻略戦〟である。
学校がダンジョンに転移してしまいました
竹桜
ファンタジー
異世界に召喚され、帰還した主人公はまた非日常に巻き込まれたのだ。
通っていた高校がダンジョンの中に転移し、街を作れるなスキルを得た。
そのスキルを使用し、唯一の後輩を守る。
エリクサーは不老不死の薬ではありません。~完成したエリクサーのせいで追放されましたが、隣国で色々助けてたら聖人に……ただの草使いですよ~
シロ鼬
ファンタジー
エリクサー……それは生命あるものすべてを癒し、治す薬――そう、それだけだ。
主人公、リッツはスキル『草』と持ち前の知識でついにエリクサーを完成させるが、なぜか王様に偽物と判断されてしまう。
追放され行く当てもなくなったリッツは、とりあえず大好きな草を集めていると怪我をした神獣の子に出会う。
さらには倒れた少女と出会い、疫病が発生したという隣国へ向かった。
疫病? これ飲めば治りますよ?
これは自前の薬とエリクサーを使い、聖人と呼ばれてしまった男の物語。
【完結】勇者の息子
つくも茄子
ファンタジー
勇者一行によって滅ぼされた魔王。
勇者は王女であり聖女である女性と結婚し、王様になった。
他の勇者パーティーのメンバー達もまた、勇者の治める国で要職につき、世界は平和な時代が訪れたのである。
そんな誰もが知る勇者の物語。
御伽噺にはじかれた一人の女性がいたことを知る者は、ほとんどいない。
月日は流れ、最年少で最高ランク(S級)の冒険者が誕生した。
彼の名前はグレイ。
グレイは幼い頃から実父の話を母親から子守唄代わりに聞かされてきた。
「秘密よ、秘密――――」
母が何度も語る秘密の話。
何故、父の話が秘密なのか。
それは長じるにつれ、グレイは理解していく。
自分の父親が誰なのかを。
秘密にする必要が何なのかを。
グレイは父親に似ていた。
それが全ての答えだった。
魔王は滅びても残党の魔獣達はいる。
主を失ったからか、それとも魔王という楔を失ったからか。
魔獣達は勢力を伸ばし始めた。
繁殖力もあり、倒しても倒しても次々に現れる。
各国は魔獣退治に頭を悩ませた。
魔王ほど強力でなくとも数が多すぎた。そのうえ、魔獣は賢い。群れを形成、奇襲をかけようとするほどになった。
皮肉にも魔王という存在がいたゆえに、魔獣は大人しくしていたともいえた。
世界は再び窮地に立たされていた。
勇者一行は魔王討伐以降、全盛期の力は失われていた。
しかも勇者は数年前から病床に臥している。
今や、魔獣退治の英雄は冒険者だった。
そんな時だ。
勇者の国が極秘でとある人物を探しているという。
噂では「勇者の子供(隠し子)」だという。
勇者の子供の存在は国家機密。だから極秘捜査というのは当然だった。
もともと勇者は平民出身。
魔王を退治する以前に恋人がいても不思議ではない。
何故、今頃になってそんな捜査が行われているのか。
それには理由があった。
魔獣は勇者の国を集中的に襲っているからだ。
勇者の子供に魔獣退治をさせようという魂胆だろう。
極秘捜査も不自然ではなかった。
もっともその極秘捜査はうまくいっていない。
本物が名乗り出ることはない。
転生 上杉謙信の弟 兄に殺されたくないので全力を尽くします!
克全
ファンタジー
上杉謙信の弟に転生したウェブ仮想戦記作家は、四兄の上杉謙信や長兄の長尾晴景に殺されないように動く。特に黒滝城主の黒田秀忠の叛乱によって次兄や三兄と一緒に殺されないように知恵を絞る。一切の自重をせすに前世の知識を使って農業改革に産業改革、軍事改革を行って日本を統一にまい進する。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる