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第二章 動きだす歯車
第41話 勝って、帰る
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天正10年(1582年)6月13日 夜
敗走とは、戦に敗れた兵が逃げ走ることをいう。
しかし、それの実態は獣の逃走と変わらない。
明智光秀は、馬を捨て、鎧も捨てていた。
供は、数えるほどしか残っていない。
山崎での敗北が決した瞬間、彼はすでに「将」ではなくなっていた。
ただの、追われる男だった。
桂川に沿って北へ。
道を知る百姓に化けようと、衣を奪い、泥に顔を塗る。
それでも、歩き方が、背の伸びが、目の据わりが違う。
戦場をくぐった者の姿形は、どれほど隠しても消えない。
小栗栖(おぐりす)
京の南、竹藪と田畑が入り混じる寒村。
光秀は、そこで足を止めた。
これ以上、歩む力がない。
腹は減り、喉は乾き、足は鉛のように重い。
「……ここまでか」
小さく呟いた声は、誰にも聞かれなかった。
そのときだった。
鍬を担いだ農民が、道の向こうから歩いてくる。
最初は一人。
次に二人…..三人。
彼らは、武装していない。
だが、目だけが異様に鋭かった。
落ち武者狩り。
戦の後、この国に必ず現れるもう一つの軍勢。
光秀は刀に手をかけた。
しかし、腕は上がらなかった。
農民の一人が叫ぶ。
「武者だ!」
「金持ちの武者だぞ!」
次の瞬間、石が飛んできた。
額を打ち、視界が揺れる。
槍ではない。矢でもない。
ただの石だ。
だが、それで十分だった。
別の農民が、鍬で叩きつけた。
骨を打つ音がした。
そして、誰かが首を落とした。
天下を一瞬でも取った男の最期は、名もなき農民の手によってあまりにも静かに終わった。
首は、京へ運ばれ、逆賊の証として晒された。
そして、天下は、羽柴の名で塗り替えられていく。
天正10年(1582年)6月15日 近江・長浜 竹若
大吉寺に、風が入った。
山の空気は、いつもより軽かった。
だが、人の心は、重いままだ。
誰もが、次の報せを待っていた。
勝ったのか。
負けたのか。
秀吉は生きているのか。
秀長は。
その昼過ぎ、一人の使者が山道を駆け上がってきた。
息が切れ、草鞋(わらじ)は裂け、髪は乱れている。
「勝ちました!」
そう言って、寺の門で崩れ落ちる。
「羽柴様、京・山崎にて明智軍に勝利!」
「日向守殿は逃走したとのこと」
言葉が境内を震わせた。
次の瞬間、女衆の中から小さな悲鳴のような声が上がる。
ねね様が立ち上がる。
「……本当ですか」
「はい。筑前守様は、備前、播磨から電光石火で軍を返し、大殿の弔い合戦に勝利した模様」
「長浜城にもその報せが届いたのでしょう、阿閉軍が一目散に城から走り去っております」
母が、その場に座り込んだ。
膝が抜けたのだ。
私は、声が出なかった。
勝った。
勝つのは分かっていた。
しかし、絶対そうなると確信は持てなかった。
父は生きている。
秀吉も生きている。
身体の底から上がってくる喜びと安堵。
それと同時に襲ってきた疲労感。どっと身体が重くなる。
だが、これは終わりではない。
むしろ、ここからが始まりだ。
歴戦の武将、磯野員政がすぐさま動いた。
周囲の兵に命じる。
「支度をせよ、長浜へ戻る」
「まずは物見をだす。兵をまとめよ」
そして、自然と女衆が動き、荷がまとめられていく。
私は、山寺の本堂を振り返った。
暗い夜、濡れた畳、薄暗い灯
あの不安の時間は、確かに自分を変えた。
逃げる勇気、守るという決断。
それらは、戦場に出ずとも、まさに戦の一部だった。
その日の夕刻、一行は長浜城下に入った。
長浜城はひっそりしていた。
城門の前に立つと、胸の奥が締め付けられる。
つい先日まで、ここが日常だった。
城内には、明智方の兵がいた形跡が残っていた。
急な敗報に、長浜城に詰めていた兵たちは慌てて退散したようで、城はそれほど乱れていなかった。
ねね様は城の土を踏み、深く息を吐いた。
「……帰ってきた」
それだけ言って、涙を流した。
母は、城の柱に手を触れた。
まるで、人の額に触れるように。
私は、何も言わず、ただ天守を見上げた。
天正10年(1582年)6月20日
長浜へ戻ってから5日が過ぎた。
城は日常を取り戻しつつあったが、人の心はまだ戦場に置き去りのままだった。
勝ったという実感よりも、「生き延びた」という感覚のほうが近い。
この間、磯野や本多が、竹生島に退避させていた物資を長浜城に戻し、小堀や羽田が帳簿をつけ直していた。
食事に困らず、必要なものを用意できる資金があることは、今後の見通しが立たない私達にとって、まさに心の支えだった。
北近江で勢力を拡大しようと読みを誤った阿閉貞征は、首を刎ねられた。
京極高次は北陸方面に逃げたようだ。
その日の朝、磯野が城へ入り、ねね様の前で膝をついた。
「奥方様」
「羽柴勢、美濃へ向け進軍中との報せ」
「本日、鳥居本あたりで合流できるかもしれません」
ねね様の動きが止まり、そして目に涙を浮かべ、静かに頷いた。
母は胸の前で両手を合わせ、目をつむって天井を見上げた。
まるで天に祈るような姿だった。
そして、私は、嬉しさで胸が熱くなり、大きく息を吐いた。
ついに、父が帰って来る。
昼過ぎに長浜を発った一行は、琵琶湖の東岸を南へ下り、田畑の続く街道を進んだ。
初夏の近江は緑が濃く、麦刈りを終えた田から土の匂いが立ちのぼっている。
鳥居本は、京から北陸へ向かう北国街道と美濃方面に抜ける中山道の分岐点ある村だ。
古来から交通の要衝で、江戸時代には鳥居本宿として繁栄した。
やがて、遠くに土煙が見えた。
低く、広く、地を這うように伸びる煙。
軍勢のそれだった。
磯野が手を挙げる。
「止まれ」
女衆の輿が止まり、護衛の兵が左右に広がる。
自分は、無意識のうちに前へ出ていた。
止める者はいない。
土煙の中から、旗が現れる。
瓢箪。羽柴の馬印。
次に見えたのは、汚れた鎧、裂けた陣羽織、疲労で背を丸めた兵たちだった。
だが、列は乱れていない。
休みなく行軍を続けてきた兵たちの、異様な静けさがあった。
その先頭近く、一騎の馬が駆け出す。
黒ずんだ鎧。痩せた馬。
ー秀吉だった。
秀吉は馬から飛び降りると、重い足を引きずるように走ってきた。
そして、ねね様の前で止まり、何も言わず、強く抱き寄せた。
ねね様は、声を出さずに泣いた。
秀吉の胸に顔を押しつけたまま、肩を震わせる。
母の前には、秀長が立った。
鎧を外すこともなく、ただ母を抱きしめる。
「勝ちました。帰ってきました」
母は抱き寄せられたまま、答えた。
「はい。お見事でございました」
「よくぞ、生きて帰ってくださいました....」
それ以降は声にならず、ただ、咽び泣く音が響いた。
私は、その少し後ろに立っていた。
最初は、母に遠慮をしていた。
しかし、前に出てはいけないと思っていても、足が止まらない。
半歩ずつ父と母に近づいていく。
秀長は竹若に気づくと、竹若に近づき、膝を折って目線を合わせた。
「……よく守ったな」
声は低く、ゆっくりとした口調だった。
その声を聞き、竹若の胸がはじけた。
目から大粒の涙がこぼれ、言葉は何もでてこない。
ただ、父親と母の前で感情のまま泣く子供になっていた
秀長は、何も言わず、その頭に大きな手を置いた。
しばらくたって、秀吉がこちらを向いた。
目は赤い。しかし、口元は笑っていた
「小僧。長浜をよう守った」
私は首を振った。
「磯野殿と、家臣のおかげです」
秀吉は鼻で笑う。
「それを言えるなら十分だ」
秀吉が歩み寄り、頭を撫でる。
乱暴で、力が強く、少し痛い。
「商人を走らせたことも、避難先のことも聞いた」
「大したものだ」
父・秀長も横から声をかけてきた
「そうだ。誇ってよい」
「お前が寄越した文で、我々は奮起できたのだ」
私はそれを聞いて、胸の奥に、確かな手応えを感じた。
歴史に身を任せていれば、ひょっとして、何もしなくてもこの再会はあったのかもしれない。
しかし、この時代に生きる一人として、悩み、抗い、行動した。
その選択は間違っていなかったと、父の言葉が教えてくれた気がした。
私はようやく、物語の外ではなく、この世界の内側に立ったのだと感じていた。
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敗走とは、戦に敗れた兵が逃げ走ることをいう。
しかし、それの実態は獣の逃走と変わらない。
明智光秀は、馬を捨て、鎧も捨てていた。
供は、数えるほどしか残っていない。
山崎での敗北が決した瞬間、彼はすでに「将」ではなくなっていた。
ただの、追われる男だった。
桂川に沿って北へ。
道を知る百姓に化けようと、衣を奪い、泥に顔を塗る。
それでも、歩き方が、背の伸びが、目の据わりが違う。
戦場をくぐった者の姿形は、どれほど隠しても消えない。
小栗栖(おぐりす)
京の南、竹藪と田畑が入り混じる寒村。
光秀は、そこで足を止めた。
これ以上、歩む力がない。
腹は減り、喉は乾き、足は鉛のように重い。
「……ここまでか」
小さく呟いた声は、誰にも聞かれなかった。
そのときだった。
鍬を担いだ農民が、道の向こうから歩いてくる。
最初は一人。
次に二人…..三人。
彼らは、武装していない。
だが、目だけが異様に鋭かった。
落ち武者狩り。
戦の後、この国に必ず現れるもう一つの軍勢。
光秀は刀に手をかけた。
しかし、腕は上がらなかった。
農民の一人が叫ぶ。
「武者だ!」
「金持ちの武者だぞ!」
次の瞬間、石が飛んできた。
額を打ち、視界が揺れる。
槍ではない。矢でもない。
ただの石だ。
だが、それで十分だった。
別の農民が、鍬で叩きつけた。
骨を打つ音がした。
そして、誰かが首を落とした。
天下を一瞬でも取った男の最期は、名もなき農民の手によってあまりにも静かに終わった。
首は、京へ運ばれ、逆賊の証として晒された。
そして、天下は、羽柴の名で塗り替えられていく。
天正10年(1582年)6月15日 近江・長浜 竹若
大吉寺に、風が入った。
山の空気は、いつもより軽かった。
だが、人の心は、重いままだ。
誰もが、次の報せを待っていた。
勝ったのか。
負けたのか。
秀吉は生きているのか。
秀長は。
その昼過ぎ、一人の使者が山道を駆け上がってきた。
息が切れ、草鞋(わらじ)は裂け、髪は乱れている。
「勝ちました!」
そう言って、寺の門で崩れ落ちる。
「羽柴様、京・山崎にて明智軍に勝利!」
「日向守殿は逃走したとのこと」
言葉が境内を震わせた。
次の瞬間、女衆の中から小さな悲鳴のような声が上がる。
ねね様が立ち上がる。
「……本当ですか」
「はい。筑前守様は、備前、播磨から電光石火で軍を返し、大殿の弔い合戦に勝利した模様」
「長浜城にもその報せが届いたのでしょう、阿閉軍が一目散に城から走り去っております」
母が、その場に座り込んだ。
膝が抜けたのだ。
私は、声が出なかった。
勝った。
勝つのは分かっていた。
しかし、絶対そうなると確信は持てなかった。
父は生きている。
秀吉も生きている。
身体の底から上がってくる喜びと安堵。
それと同時に襲ってきた疲労感。どっと身体が重くなる。
だが、これは終わりではない。
むしろ、ここからが始まりだ。
歴戦の武将、磯野員政がすぐさま動いた。
周囲の兵に命じる。
「支度をせよ、長浜へ戻る」
「まずは物見をだす。兵をまとめよ」
そして、自然と女衆が動き、荷がまとめられていく。
私は、山寺の本堂を振り返った。
暗い夜、濡れた畳、薄暗い灯
あの不安の時間は、確かに自分を変えた。
逃げる勇気、守るという決断。
それらは、戦場に出ずとも、まさに戦の一部だった。
その日の夕刻、一行は長浜城下に入った。
長浜城はひっそりしていた。
城門の前に立つと、胸の奥が締め付けられる。
つい先日まで、ここが日常だった。
城内には、明智方の兵がいた形跡が残っていた。
急な敗報に、長浜城に詰めていた兵たちは慌てて退散したようで、城はそれほど乱れていなかった。
ねね様は城の土を踏み、深く息を吐いた。
「……帰ってきた」
それだけ言って、涙を流した。
母は、城の柱に手を触れた。
まるで、人の額に触れるように。
私は、何も言わず、ただ天守を見上げた。
天正10年(1582年)6月20日
長浜へ戻ってから5日が過ぎた。
城は日常を取り戻しつつあったが、人の心はまだ戦場に置き去りのままだった。
勝ったという実感よりも、「生き延びた」という感覚のほうが近い。
この間、磯野や本多が、竹生島に退避させていた物資を長浜城に戻し、小堀や羽田が帳簿をつけ直していた。
食事に困らず、必要なものを用意できる資金があることは、今後の見通しが立たない私達にとって、まさに心の支えだった。
北近江で勢力を拡大しようと読みを誤った阿閉貞征は、首を刎ねられた。
京極高次は北陸方面に逃げたようだ。
その日の朝、磯野が城へ入り、ねね様の前で膝をついた。
「奥方様」
「羽柴勢、美濃へ向け進軍中との報せ」
「本日、鳥居本あたりで合流できるかもしれません」
ねね様の動きが止まり、そして目に涙を浮かべ、静かに頷いた。
母は胸の前で両手を合わせ、目をつむって天井を見上げた。
まるで天に祈るような姿だった。
そして、私は、嬉しさで胸が熱くなり、大きく息を吐いた。
ついに、父が帰って来る。
昼過ぎに長浜を発った一行は、琵琶湖の東岸を南へ下り、田畑の続く街道を進んだ。
初夏の近江は緑が濃く、麦刈りを終えた田から土の匂いが立ちのぼっている。
鳥居本は、京から北陸へ向かう北国街道と美濃方面に抜ける中山道の分岐点ある村だ。
古来から交通の要衝で、江戸時代には鳥居本宿として繁栄した。
やがて、遠くに土煙が見えた。
低く、広く、地を這うように伸びる煙。
軍勢のそれだった。
磯野が手を挙げる。
「止まれ」
女衆の輿が止まり、護衛の兵が左右に広がる。
自分は、無意識のうちに前へ出ていた。
止める者はいない。
土煙の中から、旗が現れる。
瓢箪。羽柴の馬印。
次に見えたのは、汚れた鎧、裂けた陣羽織、疲労で背を丸めた兵たちだった。
だが、列は乱れていない。
休みなく行軍を続けてきた兵たちの、異様な静けさがあった。
その先頭近く、一騎の馬が駆け出す。
黒ずんだ鎧。痩せた馬。
ー秀吉だった。
秀吉は馬から飛び降りると、重い足を引きずるように走ってきた。
そして、ねね様の前で止まり、何も言わず、強く抱き寄せた。
ねね様は、声を出さずに泣いた。
秀吉の胸に顔を押しつけたまま、肩を震わせる。
母の前には、秀長が立った。
鎧を外すこともなく、ただ母を抱きしめる。
「勝ちました。帰ってきました」
母は抱き寄せられたまま、答えた。
「はい。お見事でございました」
「よくぞ、生きて帰ってくださいました....」
それ以降は声にならず、ただ、咽び泣く音が響いた。
私は、その少し後ろに立っていた。
最初は、母に遠慮をしていた。
しかし、前に出てはいけないと思っていても、足が止まらない。
半歩ずつ父と母に近づいていく。
秀長は竹若に気づくと、竹若に近づき、膝を折って目線を合わせた。
「……よく守ったな」
声は低く、ゆっくりとした口調だった。
その声を聞き、竹若の胸がはじけた。
目から大粒の涙がこぼれ、言葉は何もでてこない。
ただ、父親と母の前で感情のまま泣く子供になっていた
秀長は、何も言わず、その頭に大きな手を置いた。
しばらくたって、秀吉がこちらを向いた。
目は赤い。しかし、口元は笑っていた
「小僧。長浜をよう守った」
私は首を振った。
「磯野殿と、家臣のおかげです」
秀吉は鼻で笑う。
「それを言えるなら十分だ」
秀吉が歩み寄り、頭を撫でる。
乱暴で、力が強く、少し痛い。
「商人を走らせたことも、避難先のことも聞いた」
「大したものだ」
父・秀長も横から声をかけてきた
「そうだ。誇ってよい」
「お前が寄越した文で、我々は奮起できたのだ」
私はそれを聞いて、胸の奥に、確かな手応えを感じた。
歴史に身を任せていれば、ひょっとして、何もしなくてもこの再会はあったのかもしれない。
しかし、この時代に生きる一人として、悩み、抗い、行動した。
その選択は間違っていなかったと、父の言葉が教えてくれた気がした。
私はようやく、物語の外ではなく、この世界の内側に立ったのだと感じていた。
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