芋虫(完結)

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 水津が海に連れて行ってあげる。と話していたけれど、それが実現したのはしばらく後のことだった。
 というのも、週末に限って雨が降るせいで行く機会を逃し続けていたからだ。
 金曜日、水津の部屋で一夜を過ごして土曜日の朝を迎えると、カーテンの隙間からしとしとと降る雨が見えた。
 私は水津のベッドから出ると窓際に向かい。カーテンを開けて外を見る。
 ガラスに触れるとひんやりとしていて、今にも崩れ落ちそうな薄い膜の氷のようだ。

「今日も雨だね」

 水津はベッドから顔を出すと、残念そうな顔をして笑った。

「そうね」

「雨の中じゃ流石に厳しいね。凛子がいいならいいけど」

 クスリと笑う声。垂れがちの目は細められて睫毛のカーテンで瞳は隠された。
 もしも、私が行きたい。と言ったら彼は連れて行ってくれそうな気がする。

「雨の中は流石に見に行けないわ。夏ならまだしも」

 私が断ると水津は「おいで」と声をかけた。
 私はカーテンを閉めると引き寄せられるように、水津の待つベッドへ向かった。
 水津の真っ白でピンとした筋肉質な腕が私の腰に絡むと、ベッドの海に引き摺り込まれる。
 彼のしなやかな四肢が鞭のように私の体を捕らえる。
 私は捕食される芋虫のような心境で目を閉じる。けれど、いつまで経っても彼は私を抱きしめるだけで何もしてこない。
 彼が私に危害を加えない事はなんとなくわかっている。しかし、なぜ、彼が変わってしまったのかわからずにいた。

「凛子?」

 水津の確認するような声。
 はあ、と湿り気を帯びた息が額にかかる。温かな水津の体はいつのまにか私の体を包む繭にかわり、その心地よさに酔いしれながら、意識は微睡みの海に沈んでいった。

 彼は私に触れるが、それだけだ。何もしてこない。

 ただ、それだけが心地よくて居心地が良かった。この時間がいつまでも続けばいいのに、と思うよう程度には。

 最近では、いつか終わる事は分かっているのに。だからこそ、今はこの時間を楽しもうと思うようになっていた。

 海に行けるようになったのは12月に入ってからだった。

「やっと海に行けるね」

 青く澄んだ空を窓越しに見上げた水津が微笑んだ。

 私もつられるようにふふふと笑い「うん」と返事をした。凄く楽しい。そんな感情を持つなんて久しぶりだ。
 何も持たずに車に乗り込む。なんだか、行き当たりばったりのドライブをしているような気分。

「あ、この曲」

 ふいに、私が中学の時に流行した曲が、ラジオから流れた。

「懐かしいですね。俺が小学生の時に流行りましたよ」
「そう……」

 ジェネレーションギャップを感じて、苦笑いが出てきた。私と彼とはこんなにも違う。でも、だからこそ、今がこんなにも楽しいのかもししれない。

「結構走ったわね」

「そうだね」

 車もずいぶん遠くまで来たような気がする。

「海、見えると思うよ。窓を見て」

 窓を見ると、木に隠れて車窓全面には広がらないけれど、海が見えた。
 海面は太陽の光を反射してクリスタルのように輝いて、水津に買ってもらった花瓶のような色をしていた。

「綺麗……」

 私は窓ガラスに手を当てて、海を食い入るように見ていた。
 透き通った冬の海の色。遠目から見ても海面はそこまで揺らいでいないのであまり波は強くないだろう。


 懐かしい。

 一度も訪れた事のない場所なのに、海をがあるだけでそんな気分になってしまう。
 生物の誕生は海だ。だからかもしれない。

「綺麗だね」

 ふいに、声をかけられて窓を見ると、先程よりも海が近くにあった。

「うん、綺麗。私、海が好きなの」
「そう、良かった。見てよ。波が強い」

 波はこちらに届いていないというのに、その飛沫がフロントガラスにかかり所々水滴ができる。

「そんなに波が強くないはずなのに、こっちまで飛沫がくるな。外に出たらちょっと濡れそう」

 そう言いつつも水津は「少しだけ降りる?」と聞きながら私の方を見た。

「うん、近くで見たいわ」
「駐車場を探すから少しだけ待っていて」

 彼の左手が私の右手を包み込んだ。そこには、嫌悪は含まれていないように思えて、私も逃げずにそれを受け入れた。

「出ようか」
「うん」

 駐車場を見つけて車を停めて外に出ると、波の飛沫が顔に飛んできた。海風は真冬のせいで強く、素肌をナイフで切り裂くように痛い。
 駐車場からでようと、右往左往していると、水津が突然、私の手を繋いできた。

「凛子」
 
 名前を呼ばれて顔を上げると、水津が心配そうにこちらを見ていた。

「あ、あの」
「なんか、転びそうだから」
「え?」
「会社でよく転んでるでしょ?」

 思い当たる事ばかりで、だから、心配で手を掴んでくれているのかと私は納得した。

「あ、ありがと。転ばないように手をつかんでくれているのね」
「そういう意味じゃないんだけどな」

 水津は頬を掻き「こっちだよ」と私を誘導してくれた。

「凄い波!それに、寒いわ。」
「真冬だからね」

 海の方に向かうと思っていた以上に波は高い。顔には海水の粒がかかり、遠目から見ると穏やかな波でも、近くで見ると私達を飲み込んでしまいそうなくらい、激しく海面は揺れていた。

「誰も居ないね」
「風も強いし寒いから仕方ないわ」

 誰もいない浜辺で波音を聞いていると、二人だけの世界にいるような気分だ。

「寒い?」
「うん。とっても」

 水津の問いかけに素直に答えると、彼は突然の着ていたコートを開き、勢いよく私を包み込んだ。

「えっ?わっ」

 驚いて足がもつれて転びそうになると、水津が私を軽々と抱き上げ、コートの隙間から顔を出さしてくれた。

「寒くないでしょ?」
「そうだけど、いきなりだからビックリしたわ」
「あははは」

 水津は声を出して笑うと、その振動がすぐに伝わってくる。

「カンガルーみたい。いい大人がカッコ悪くないかしら?」
「誰も見ていないから別にいいんじゃない?」
「ふふふ。それもそうね」

 誰も見ていないなら、中学生のカップルがしそうな事をしても別にいいか。見ているのは水津だけなら恥ずかしくもない。

「凛子」

 名前を呼ばれて顔を上げると、頬に温かくて湿った空気を感じた。柔らかい水津の唇が私の頬に押し当てられていた。
 口づけはほんの一瞬だけで、離れた瞬間どこか名残惜しく感じた。

「ねえ、行こうか?」
「そうね」

 海風から水津のコートに守られて、私達は車に戻った。

 楽しい時間が過ぎるのはあっという間だ。気がつけば陽は落ちていて、空は濃紫色に染まっていた。

「遠くまで来ましたね。帰りましょうか」

「そうね、空がこんなにも暗くなってるわ」
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