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私の目の前で見せつけるように、仲睦ましげに佇む番の蝶。
水津に何度もかかってきた着信は彼女のものだった。私の妹……、私から婚約者を奪った女。
水津の彼女は彩那だったのだ。まさか、彼らが繋がっていたなんて思いもしなかった。
「アンタのせいで私は不幸になったのよ!消えてよ!」
先程とは打って変わり彩那はヒステリックな叫び声を上げている。
「私から隼人さんまで奪って……、見たのよ!二人で一緒にいたのを」
ああ、そうか、水津は恋人の彩那に言われるまま私に近づいたんだ。そして、ショッピングモールの視線は進藤ではなくて彩那だったのだ。
「ねえ、何、ぼぅとしているのよ!?」
パズルのピースが全て当てはまるのと同時に、私の中の何かが壊れていくのがわかった。
私は最後の最後まで水津に騙されていた。
あの夜、水津は澤田の身内とは認めたけれど、誰に言われてやったかなんてその口から語られなかった。
彩那に私を殺させる為に言わなかったのだ。
二人で私が無様に死にいく姿を嘲笑って見るつもりでいたのだ。
針に刺されて耐えられる痛みでも、それが、ずっと続けば人は狂う。耐えてきた物が全て崩れていく気がした。
今まで何とか立っていられたのに、足元の薄い氷の膜がバラバラと崩れさっていくのを感じた。
私は力尽きるように仰向けに倒れそうになる。
俯せにしなかったのは私を嘲笑う二人へのせめてもの抵抗だ。私が芋虫のように無様で醜くても、跪く姿なんて見せたくはなかった。
それなのに……。
「凛子!」
許容量を越えた脳はとうとう限界を迎えたようで、甘い幻覚を私に魅せ始めた。
目の前で水津は彩那とは抱き締め合い私をせせら笑っているのに。
なぜか私は水津の幻覚に抱き止められていた。
温かい……。
水津の腕の中に私はすっぽりと収まるような気がした。かなりの出血量だったので体温を奪ったのだろう。転がっている固くて冷たい地面すら温かく柔らかく感じた。
そのせいで、水津に抱きしめられているような錯覚をしそうだ。
「救急車をっ、人が刺されて……!」
幻覚の水津は声を震わせてどこかに電話をかけていた。
私は寒くて身体の震えが止まらなかった。
「凛子、すぐに救急車が来るから、動かないで……」
水津が自分のジャケットを脱いで、震えの止まらない私の身体にかけてくれた。
お腹から流れる血液は、別れを告げたあの日から止まることがなかった涙のように溢れ続けている。
「ぁっ」
心臓が動く度に刺された場所が痛むような気がする。
痛みを、苦しみを、忘れる為に分泌される脳内麻薬が魅せてくれた幻はとてもリアルだ。
「隼人さん、この女から離れてよ!」
寄り添い私の事を嘲笑う二人の横には、なぜか彩那が眦を上げ拳を握りしめて立っていた。
幻覚の彼女は今にも泣き出しそうに顔を歪めて、水津の名前を悲痛な声で呼ぶ。
顔を見ない間にまた綺麗になった。と、私は思った。
どんなに顔を歪めても、それすらも彼女は一枚の絵画のように美しかった。
澤田や水津が美しい蝶の彩那に魅了されるのは当然だ。
水津が醜い芋虫の私を選ぶはずなんてないのは分かっている。
それが、私を抱き締める水津を都合のいい幻だと証明していた。
「なぜこんな事をしたんだ」
都合のいい幻の水津は、そんな彩那に見蕩れる事なく前を向いて怒りを露にした。
「この女が隼人さんを誘惑したからでしょう?毒蛾みたいな醜い女。死ねばいいのよ!私の赤ちゃんを夫を奪おうとしたのよ!?」
彩那は何を言っているのだろう?
私は誰も誘惑なんてしていない。なぜ、勝手にそう決め付けるの?
声を出そうと口を開くけれど出てくるものは、意味をなさない喘ぎ声のようなものだけだ。
「毒蛾はお前の方だ」
水津の声は低く怒りを抑えているように見えた。
「この女が悪いのよ!」
「凛子は何一つ悪い事なんかしていない!悪いのは俺たちだ!」
幻の水津はとても優しくて私を庇ってくれた。
彼の大きくて温かな手はジャケットの上から私の傷口を押さえてくれた。
その綺麗な手が血で汚れてしまい私は申し訳なくなった。
「こんな女の味方をするの?私が一度も抱かせなかったから?」
幻覚は私の望みが現実のように、甘い毒を囁きかけた。私はその幻聴に耳を傾け、信じかけそうになる。
嘘だ信じるな。と、私は幻覚の彩那の言葉をなんとか否定する。
彩那と水津の関係がないなんて嘘だ。幻を本物だと思うなんて私は愚かだ。
……いや、違う。水津は彩那の事を愛しているからこそ身代わりに私を抱いたのだ。
惨めな事実でもそれで良かった。
水津のように嘘だとしても、深く繋がろうと優しくしてくれた人なんて居なかったから。
何も知らずに、何も決められない、私に根気強く接してくれたのは彼だけだ。
「違う!」
「ねぇ、隼人さん私の事を愛してるでしょう?この女から離れてちょうだい。いくらでも抱かせてあげるから」
「いい加減にしろ!」
「なぜ?!私は隼人さんの事を愛しているわ」
脳内麻薬はずっと私にとって都合のいい幻を魅せ続けた。
そのせいで私はそれを信じかけてしまいそうになる。
「愛している?……都合よく俺を利用するためにそんな事を言ったんだろう?」
意識が少しずつ霞んでいくのを私は感じ始めていた。二人の声はただ頭のなかで響いて、その意味すら理解できない。
「抱かせてあげなかったのは、私が澤田さんと結婚してるから、何もできないのは仕方ないでしょう?ねぇ、『私達、身体は繋がらなくても心は繋がっている』そうでしょう?」
「……都合のいい言い訳だ。俺も、どこまでも馬鹿だった」
彩那は自分達の愛が気高く美しいのもだと甘く囁くように言うが、水津は冷たく切り捨てた。
「お前は、俺を試すために凛子を傷つけさせたんだな」
「だって、愛には試練が必要でしょう?この女を罰することが確かな愛の証明よ。酷いと思わない?私から夫を奪おうとして、お腹の子供まで殺したのよ、……この女が私から全てを奪ったのよ」
「全部嘘だ。お腹に子供なんていなかった。凛子と別れるための方便だった。と、澤田は話していたよ」
「嘘よ!」
「澤田は、お前への気持ちが完全に冷めていたようだが、別れてから凛子に言い寄られたなんて聞いていない」
水津はまるで全てを調べたように、淡々と彩那の訴えを否定した。
「凛子、ごめん」
なぜかわからないけれど、最期の時まで、私を愛している優しい水津の幻が見れそうな気がした。
「隼人さん!私を見てよ!」
出血のせいかほとんど何も見えない。水津と彩那が愛おしそうに抱き締めあう姿がいつのまにか見えなくなっていた。
「……本当のことが言えなかった。彩那に言われて近付いたなんて、それを知ったら一番傷つくのは凛子だから。ずっと、過去の事に怯え続けているのを見てきたから」
幻の水津は言葉に詰まりながら、私の頬を何度も優しく撫でた。
私の顔に何か生暖かい液体が落ちてきた。
「……」
塩辛い。液体。これはなんだろう……。
「別れ話が拗れた時に彩那の異常さに気が付いていれば、凛子にちゃんと話していれば、こんな事にはならなかった」
……ああそうか、顔にかかる水滴は、きっと、あの時、水津と見た海の飛沫だ。
「本当の気持ちが言えなかった。そんな事を言う資格なんてないから、少しでもいいから側に居たかったんだ。いつか終わるってわかっていても」
幻の水津はずっと私の望んだ嘘の言葉を砂のように吐き出し続けた。
「俺が彩那の嘘に囚われていたから……」
ポツポツと顔にかかる波の飛沫は、止まることはなく私の顔を濡らし続けた。
二人で一緒に行った冬の海の時のように……。
……最期に水津は私が行きたかった海に連れてきてくれたんだ。
この籠ったように響く風の音は海風だったんだ。
波の音は聴こえないし、見えないのが残念だけど。
きっと海面は太陽の光を反射して、クリスタルのように輝いているのだろう。水津と二人で見た物と同じように。
睡眠薬で何度も見る夢ではなくて……。
私はそう結論付けた。真実なんて知ったところで何一つ良いことなんてない。だったら、この狂気の世界にいれば私は死ぬまで幸せでいられる。
「あ、あり……が、とう」
私は笑って水津の幻にお礼を言った。
「また、海っ……連れていって、くれて……」
「え?」
幻は戸惑うような声を上げた。
もう、何も見えないのに波の飛沫で滲む視界に映る水津の顔はやけに鮮明見えた。死に近い私を喜んで見ている。
水津は私の死を望んでいる。
私はここまでしてくれた大切な水津にお礼をしないといけない。
嘘でも傷付けるつもりでも、私に優しくしてくれた事には変わりないのだから。
私が彼に返せるものはたった一つだけだ。
私はお腹に刺さったままのナイフにそっと手をかけた。
「な、何を?」
水津が驚いたようにそう問いかけながらも『早く抜くんだ』と、微笑みうなずいた。
「少し待っててね」
私は身支度をするような気軽さでナイフをゆっくりと引き抜いていく。
お腹の傷から堰き止められていた血が勢いよく溢れ出て、私の身体を温かく濡らしていく。
この血も全て出てしまえばいつか止まるだろう。ずっと、止まらなかった涙と一緒に。
「うっ、う」
痛みに顔を歪めてナイフを全て抜ききると、水津の目の前にそれを見せた。
「り、凛子!」
水津は驚いた声をあげながらも、うっすらと笑って「ありがとう」と言ってくれた気がする。
「これでいい?う……れしい?」
私は水津に微笑むと「ああ」と嬉しそうに頷いた気がした。
「良かっ……た」
私は彼の綺麗な顔に見蕩れる。
ぽっかりと開いた虚空のような瞳に醜い私が映し出されている。
せめて、最期の瞬間くらい幻の優しい水津を見ていたい。もう、死ぬというのに恐怖はなかった。やっと終わらせられる。という安堵の方が強い。
彼への想いを引きずりながら夢に魘されて生きていくのはあまりにもつらくて。
こんなにも苦しめられたのに、私は水津の事が嫌いにはなれなかった。
最期まで私は彼のことを……。
私が死んだら番を望む愚かな芋虫だと嘲笑えばいい。だけど、今はこの優しい夢に包まれたい。
「凛子……!」
水津の叫び声が聞こえた気がした。
次第に靄がかかる意識。私はあの夜のように目の前が暗くなるのを恐れずに受け入れた。
ヒステリックなサイレンの子守唄を聞きながら、私の意識は闇に包まれた。
~~~~~
次で完結です
水津に何度もかかってきた着信は彼女のものだった。私の妹……、私から婚約者を奪った女。
水津の彼女は彩那だったのだ。まさか、彼らが繋がっていたなんて思いもしなかった。
「アンタのせいで私は不幸になったのよ!消えてよ!」
先程とは打って変わり彩那はヒステリックな叫び声を上げている。
「私から隼人さんまで奪って……、見たのよ!二人で一緒にいたのを」
ああ、そうか、水津は恋人の彩那に言われるまま私に近づいたんだ。そして、ショッピングモールの視線は進藤ではなくて彩那だったのだ。
「ねえ、何、ぼぅとしているのよ!?」
パズルのピースが全て当てはまるのと同時に、私の中の何かが壊れていくのがわかった。
私は最後の最後まで水津に騙されていた。
あの夜、水津は澤田の身内とは認めたけれど、誰に言われてやったかなんてその口から語られなかった。
彩那に私を殺させる為に言わなかったのだ。
二人で私が無様に死にいく姿を嘲笑って見るつもりでいたのだ。
針に刺されて耐えられる痛みでも、それが、ずっと続けば人は狂う。耐えてきた物が全て崩れていく気がした。
今まで何とか立っていられたのに、足元の薄い氷の膜がバラバラと崩れさっていくのを感じた。
私は力尽きるように仰向けに倒れそうになる。
俯せにしなかったのは私を嘲笑う二人へのせめてもの抵抗だ。私が芋虫のように無様で醜くても、跪く姿なんて見せたくはなかった。
それなのに……。
「凛子!」
許容量を越えた脳はとうとう限界を迎えたようで、甘い幻覚を私に魅せ始めた。
目の前で水津は彩那とは抱き締め合い私をせせら笑っているのに。
なぜか私は水津の幻覚に抱き止められていた。
温かい……。
水津の腕の中に私はすっぽりと収まるような気がした。かなりの出血量だったので体温を奪ったのだろう。転がっている固くて冷たい地面すら温かく柔らかく感じた。
そのせいで、水津に抱きしめられているような錯覚をしそうだ。
「救急車をっ、人が刺されて……!」
幻覚の水津は声を震わせてどこかに電話をかけていた。
私は寒くて身体の震えが止まらなかった。
「凛子、すぐに救急車が来るから、動かないで……」
水津が自分のジャケットを脱いで、震えの止まらない私の身体にかけてくれた。
お腹から流れる血液は、別れを告げたあの日から止まることがなかった涙のように溢れ続けている。
「ぁっ」
心臓が動く度に刺された場所が痛むような気がする。
痛みを、苦しみを、忘れる為に分泌される脳内麻薬が魅せてくれた幻はとてもリアルだ。
「隼人さん、この女から離れてよ!」
寄り添い私の事を嘲笑う二人の横には、なぜか彩那が眦を上げ拳を握りしめて立っていた。
幻覚の彼女は今にも泣き出しそうに顔を歪めて、水津の名前を悲痛な声で呼ぶ。
顔を見ない間にまた綺麗になった。と、私は思った。
どんなに顔を歪めても、それすらも彼女は一枚の絵画のように美しかった。
澤田や水津が美しい蝶の彩那に魅了されるのは当然だ。
水津が醜い芋虫の私を選ぶはずなんてないのは分かっている。
それが、私を抱き締める水津を都合のいい幻だと証明していた。
「なぜこんな事をしたんだ」
都合のいい幻の水津は、そんな彩那に見蕩れる事なく前を向いて怒りを露にした。
「この女が隼人さんを誘惑したからでしょう?毒蛾みたいな醜い女。死ねばいいのよ!私の赤ちゃんを夫を奪おうとしたのよ!?」
彩那は何を言っているのだろう?
私は誰も誘惑なんてしていない。なぜ、勝手にそう決め付けるの?
声を出そうと口を開くけれど出てくるものは、意味をなさない喘ぎ声のようなものだけだ。
「毒蛾はお前の方だ」
水津の声は低く怒りを抑えているように見えた。
「この女が悪いのよ!」
「凛子は何一つ悪い事なんかしていない!悪いのは俺たちだ!」
幻の水津はとても優しくて私を庇ってくれた。
彼の大きくて温かな手はジャケットの上から私の傷口を押さえてくれた。
その綺麗な手が血で汚れてしまい私は申し訳なくなった。
「こんな女の味方をするの?私が一度も抱かせなかったから?」
幻覚は私の望みが現実のように、甘い毒を囁きかけた。私はその幻聴に耳を傾け、信じかけそうになる。
嘘だ信じるな。と、私は幻覚の彩那の言葉をなんとか否定する。
彩那と水津の関係がないなんて嘘だ。幻を本物だと思うなんて私は愚かだ。
……いや、違う。水津は彩那の事を愛しているからこそ身代わりに私を抱いたのだ。
惨めな事実でもそれで良かった。
水津のように嘘だとしても、深く繋がろうと優しくしてくれた人なんて居なかったから。
何も知らずに、何も決められない、私に根気強く接してくれたのは彼だけだ。
「違う!」
「ねぇ、隼人さん私の事を愛してるでしょう?この女から離れてちょうだい。いくらでも抱かせてあげるから」
「いい加減にしろ!」
「なぜ?!私は隼人さんの事を愛しているわ」
脳内麻薬はずっと私にとって都合のいい幻を魅せ続けた。
そのせいで私はそれを信じかけてしまいそうになる。
「愛している?……都合よく俺を利用するためにそんな事を言ったんだろう?」
意識が少しずつ霞んでいくのを私は感じ始めていた。二人の声はただ頭のなかで響いて、その意味すら理解できない。
「抱かせてあげなかったのは、私が澤田さんと結婚してるから、何もできないのは仕方ないでしょう?ねぇ、『私達、身体は繋がらなくても心は繋がっている』そうでしょう?」
「……都合のいい言い訳だ。俺も、どこまでも馬鹿だった」
彩那は自分達の愛が気高く美しいのもだと甘く囁くように言うが、水津は冷たく切り捨てた。
「お前は、俺を試すために凛子を傷つけさせたんだな」
「だって、愛には試練が必要でしょう?この女を罰することが確かな愛の証明よ。酷いと思わない?私から夫を奪おうとして、お腹の子供まで殺したのよ、……この女が私から全てを奪ったのよ」
「全部嘘だ。お腹に子供なんていなかった。凛子と別れるための方便だった。と、澤田は話していたよ」
「嘘よ!」
「澤田は、お前への気持ちが完全に冷めていたようだが、別れてから凛子に言い寄られたなんて聞いていない」
水津はまるで全てを調べたように、淡々と彩那の訴えを否定した。
「凛子、ごめん」
なぜかわからないけれど、最期の時まで、私を愛している優しい水津の幻が見れそうな気がした。
「隼人さん!私を見てよ!」
出血のせいかほとんど何も見えない。水津と彩那が愛おしそうに抱き締めあう姿がいつのまにか見えなくなっていた。
「……本当のことが言えなかった。彩那に言われて近付いたなんて、それを知ったら一番傷つくのは凛子だから。ずっと、過去の事に怯え続けているのを見てきたから」
幻の水津は言葉に詰まりながら、私の頬を何度も優しく撫でた。
私の顔に何か生暖かい液体が落ちてきた。
「……」
塩辛い。液体。これはなんだろう……。
「別れ話が拗れた時に彩那の異常さに気が付いていれば、凛子にちゃんと話していれば、こんな事にはならなかった」
……ああそうか、顔にかかる水滴は、きっと、あの時、水津と見た海の飛沫だ。
「本当の気持ちが言えなかった。そんな事を言う資格なんてないから、少しでもいいから側に居たかったんだ。いつか終わるってわかっていても」
幻の水津はずっと私の望んだ嘘の言葉を砂のように吐き出し続けた。
「俺が彩那の嘘に囚われていたから……」
ポツポツと顔にかかる波の飛沫は、止まることはなく私の顔を濡らし続けた。
二人で一緒に行った冬の海の時のように……。
……最期に水津は私が行きたかった海に連れてきてくれたんだ。
この籠ったように響く風の音は海風だったんだ。
波の音は聴こえないし、見えないのが残念だけど。
きっと海面は太陽の光を反射して、クリスタルのように輝いているのだろう。水津と二人で見た物と同じように。
睡眠薬で何度も見る夢ではなくて……。
私はそう結論付けた。真実なんて知ったところで何一つ良いことなんてない。だったら、この狂気の世界にいれば私は死ぬまで幸せでいられる。
「あ、あり……が、とう」
私は笑って水津の幻にお礼を言った。
「また、海っ……連れていって、くれて……」
「え?」
幻は戸惑うような声を上げた。
もう、何も見えないのに波の飛沫で滲む視界に映る水津の顔はやけに鮮明見えた。死に近い私を喜んで見ている。
水津は私の死を望んでいる。
私はここまでしてくれた大切な水津にお礼をしないといけない。
嘘でも傷付けるつもりでも、私に優しくしてくれた事には変わりないのだから。
私が彼に返せるものはたった一つだけだ。
私はお腹に刺さったままのナイフにそっと手をかけた。
「な、何を?」
水津が驚いたようにそう問いかけながらも『早く抜くんだ』と、微笑みうなずいた。
「少し待っててね」
私は身支度をするような気軽さでナイフをゆっくりと引き抜いていく。
お腹の傷から堰き止められていた血が勢いよく溢れ出て、私の身体を温かく濡らしていく。
この血も全て出てしまえばいつか止まるだろう。ずっと、止まらなかった涙と一緒に。
「うっ、う」
痛みに顔を歪めてナイフを全て抜ききると、水津の目の前にそれを見せた。
「り、凛子!」
水津は驚いた声をあげながらも、うっすらと笑って「ありがとう」と言ってくれた気がする。
「これでいい?う……れしい?」
私は水津に微笑むと「ああ」と嬉しそうに頷いた気がした。
「良かっ……た」
私は彼の綺麗な顔に見蕩れる。
ぽっかりと開いた虚空のような瞳に醜い私が映し出されている。
せめて、最期の瞬間くらい幻の優しい水津を見ていたい。もう、死ぬというのに恐怖はなかった。やっと終わらせられる。という安堵の方が強い。
彼への想いを引きずりながら夢に魘されて生きていくのはあまりにもつらくて。
こんなにも苦しめられたのに、私は水津の事が嫌いにはなれなかった。
最期まで私は彼のことを……。
私が死んだら番を望む愚かな芋虫だと嘲笑えばいい。だけど、今はこの優しい夢に包まれたい。
「凛子……!」
水津の叫び声が聞こえた気がした。
次第に靄がかかる意識。私はあの夜のように目の前が暗くなるのを恐れずに受け入れた。
ヒステリックなサイレンの子守唄を聞きながら、私の意識は闇に包まれた。
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次で完結です
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