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前編

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 第一王子、エバンズ・トレル・ファーナバルは、嵌められた。

 それはもう、しっかりと嵌められた。学園で出会った男爵令嬢の言葉に胸を痛めた彼は、よりにもよって王位継承の控えた舞台でーーそれも参列者達の目の前でーー元来の婚約者にむけて声高に婚約破棄を告げたのだ。余すことなく嵌められた彼は、それが正しい行いなのだと信じて疑わなかった。彼がそんな心持ちでいられたのは、元がついた婚約者の公爵令嬢に了承の意を返されたところまでであった。

 王をはじめとした高位貴族たちの目の前で彼は、廃嫡され王族としての身分も剥奪された。王族や高位貴族が罪を犯した時などに幽閉される北の塔にも放り込まれた。

 ついでとばかりに身体に封印魔法を施され、子が出来ぬようにされた。この魔法ができる前の処置は文字通りアソコをちょん切られたと聞くから、まだこんな自分にもなけなし程度のツキは残っているようだとエバンズは胸を撫で下ろした。

 ちょん切られる辛さなど、想像もしたくない。
 ……だが、痛みは残るのかな?幻肢痛はあるのだろうか?


 先程まで歴史に残るやらかした先輩たちにひどく同情していたエバンズは今、魔法学の進歩に心から感謝していた。据え置かれた粗末な木椅子に柔らかく腰掛けながら、天に向かって両手を合わせて感謝を告げているところであった。

 ちなみに無宗教である。……つまり、適当に祈っているだけである。

 そう、この元王子。
 エバンズ・トレル・ファーナバルは、近代史に名を残すのではないかと思われるほどのすっとぼけ王子なのである。


 顔は悪くない。そして、作業効率も良い。言われた仕事はなんでもそつなくこなす。しかし、それは反対に言われた通りのことしかこなさないということでもある。物事の上辺のみさらーっと見て、しっかり奥底まで考えるということをしないのだ。適当なことを言われても、じゃあそうなんだろうなと、思ってしまうのだ。

 婚約者のリーリラレス・アンガー公爵令嬢も、そんなエバンズに愛想を尽かしたのだろう。彼女の思惑により、エバンズの好みの指示のお上手な男爵令嬢が送り込まれ、そして、そんな調子の彼はいとも簡単に嵌められた。

 彼を嵌めたのは男爵令嬢だと思ったが、その正体は平民だという。とにかく彼女の領地で飢饉が起こると言われ、それを真に受けたエバンズは、自分になにができるか尋ねたところ、婚約して欲しいと言われたのだ。

 じゃあ現在結んでいる婚約を解消しようという話になったところ、公爵令嬢相手の婚約の解消は全て破棄扱いになるといわれた。じゃあ破棄する前に、王である父に話してみようと言うと、どうせならみんなが集まる夜会でみんなに発表したら関係各所にいちいち連絡する手間が省けるのではと言われた。

 なるほど、ということで、エバンズはそれらを漏れなく実践した。そしてこうなった。夜会では引っ立てられるわ、謹慎を言い渡されるわ、気がつくと件の男爵令嬢は消え去っており、明らかに騙された哀れな男だけが残された。

 ここでも彼はまだ気が付いていなかった。
 ぽやーんとした頭で、そうかー、いないのかー、と思っただけだ。既に飢饉が起こりくる『らしい』領地のことも頭から消えていたし、御令嬢が身を売る覚悟を決めたとかいう馬鹿げた話も消え去っていた。

 とどのつまり、彼は極端に他人への興味が薄かった。それは人だけでなく、領地や国、概念すらにも及んだ。

「エバンズ、君は王に向いていない。完全に騙されたんだ」

 どこか冷たく突き放したような物言い。その実、世話焼きな一面を持つ叔父は苦虫を噛み潰したような顔でそう呟いた。

 そういえば謹慎中に自室に来て顔を合わせてくれたのはこの伯父だけだなあ、とエバンズはぽ・んやり考える。
 こうして北の塔に放り込まれた後も、なんだかんだ足を運んでくれる叔父には、エバンズもほかほかとした気持ちになるのだ。

 にっこり笑った彼は、「では僕は叔父上の役に立ちましたか?」と尋ねる。

 薄い口元にうっすらとした笑みをたたえたエバンズは、まるで宗教画のように神々しく、そして神秘的であった。それは、何考えているの分からないように見える一方で、向き合う者の内心を掻き乱すようなものでもあった。

「ああ。朗報だ」
悠然とした物腰で目の前に座った男が頷く。

「アンガー公爵もろとも潰した」

 建国当初から王家を支えてきた公爵家が、現在は他国に情報を流す叛逆行為をしていたなどと、誰が予想するだろうか。

 巧妙に隠されてきた国家を揺るがしかねないその行為だけでは飽き足らず、公爵はさらに欲をかいた。王家に自らの血を混ぜようと画策したのだ。多くの賄賂や恐喝を経てなんとかエバンズの婚約者の座に自身の娘を据えた。
 誠に愚かしいことに、叔父以外それに気がついた者は誰もいない。国長である父も母も公爵の表の顔に見事に騙されていたということだ。

 王家乗っ取りを危惧した叔父が、秘密裏にエバンズの元を訪れたのは、一年ほど前のことだ。その時には既に綿密な計画が立てられていた。


 これから何か人生に少しだけ変化が訪れることが予期される。その変化は君の中で大きくなっていくだろう。

そんな前置きの後、エバンズが言われたのはただ一つだった。

しかし君は自分が思った通りに行動するだけでいい。
そうすれば全てうまくいく。

 長ったらしい台本も、綿密な打ち合わせも何も必要のない叔父からの言いつけは、エバンズにとって大層気楽なものであった。自分が良いと思ったことだけ行動すればいいだけである。簡単だ。


 そして、エバンズはその都度の行動をした。

 学園にいる男爵令嬢を哀れに思って話を親身に聞いたし、公爵令嬢と婚約破棄もした。夜会で、思う通りのことを告げた。

 こうして向かい合っている叔父が冷たい表情の中に何処か満ちた色をたたえているのも、もしかしたら自分の起こした行動のせいかもしれない。

 エバンズは目を細めた。そんな彼を見て叔父は柳眉を顰める。

「お前はいつもそうだね。何も欲しがることをしない」

 おや、とエバンズは内心首を傾げる。いつもより叔父の口数が多いような気がしたからである。わずかではあるが明らかに周りと差を持って叔父との距離を縮めているエバンズがやっと気がつく違和感ではあった。

 どうも話の流れが変な方向に向かっていきそうな予感がする。

「叔父上も僕が面倒を嫌うことはご存じでしょう」

 厄介事の匂いがしたため、エバンズはあえてあけすけな物言いをした。

 実際責任を負うことは面倒だ。出世欲も、物欲も、そもそも食欲だってあまり持たない。生きろと言われているから口に運んでいるだけだ。人との関わりだってそれに尽きる。婚約者をすげ替えることを公言しはしたが、別に新しい相手と婚姻したとて心の距離を詰めようとは一切考えていなかった。消え去った男爵令嬢も、先の公爵令嬢にも、それは変わらない。
 一方、痛かったり、苦しかったりするのは大嫌いなので、ちょん切られなかったことに安心した。が、子のできない身体に改造されたことに対しての不満など一切ないのだ。負うべき責任がまた一つ減ったことに小躍りしたくらいだ。

 この考えはきっと誰にも理解されないだろう。ふむ、とエバンズは思考を切った。大いに結構である。自分だって別に他人の考えを理解する気は毛頭ない。

 それにしても、とエバンズは関心を他にずらした。

 そう。それにしても、である。
 この叔父、少々滞在し過ぎである。

 無礼であるのは重々承知した上で、エバンズは立ち上がった。

 北の塔の設備はやや古臭くていけない。キィ、と粗末な木椅子が軋んだ音を立てた。その後、まあ座れるたらなんでもいいか、と思い直し、朗らかにエバンズは告げた。

「叔父上もお忙しいでしょう。本日はお会いできてとても良かった。素敵なご報告が聞けて嬉しかったですよ」

 口早にならぬよう、ゆったりと言葉を重ねる。たまに誰かと話すことができる感覚はありがたかったが、それもごくたまに、それも少ない時間で構わないのだ。

「それでは御息災で。叔父上の治世に平穏のあらんことをお祈り申し上げます」

 静かに一礼する。以前の身分を考えると、信じられないほど礼の尽くされた気品漂う美麗なものだった。




 目の前の甥の礼がどんなに厳しいマナー講師を唸らせるものだとしても叔父であるゼルーヴァには頂けないものだった。王族としての尊厳は守られた。しかし、それは第一王子であったエバンズの犠牲ありきのものだ。

 自らが立てた計画に関して、決して後悔などしていない。あの方法が最善であったと今でも思っている。しかし、如何に彼が少々風変わりだとは言え、こんなふうに終わらせられて良い人間ではない。どんな形だとて、彼がいなければこの計画は成功しなかったのだ。

 ゼルーヴァはあからさまな退室要請を綺麗さっぱり無視し、粗末な木椅子に座り続けたまま考え込んだ。

 こうして希望を聞く機会を作ったが、やはり彼には響かない。それどころか、むしろ一線を引かれてしまったようだった。そんなところも彼らしいというべきか。

 どうやら譲る気はないらしい。神秘的と謳われた微笑みを作った甥は、再度一礼して見せる。そんな男を見て、ゼルーヴァはやっと立ち上がった。彼もついに心を決めたのだった。

 甥にいざなわれて部屋を出る直前に、ゼルーヴァは振り返った。不意に男が身じろぎしたが、ゼルーヴァが口を開くのが先だった。

「近いうちに、君には死んでもらう」

 くす、と今まで見たことのない穏やかな微笑みを見せた叔父にそう告げられ、流石のエバンズも目を見開いた。固まった甥を残し、先程まで留まっていたのが嘘のようにゼルーヴァは颯爽と部屋を出て行ったのだった。

 そして、それから数日後、建国以来国を支えてきたはずの公爵家が一つ潰えた。国家反逆罪で処刑された公爵当主と併せて、公爵の傀儡となり国を混乱させたこの国の第一王子にも重い罪が降ることになった。これを受けて事態を重く観た国王が妃と共に責任をとって王位を退くという触れが出された。空いた玉座には、王弟のゼルーヴァが座ると言う。

 突然のニュースに国内外が混乱の渦に叩き落とされる。混乱の最中、第一王子への刑も執行された。それらの全てはひっそりと取り仕切られ、エバンズ・トレル・ファーナバルはこの世から永遠に消え去ったのだった。


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