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反省する魔法士

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 エスターの塔の一室で、少しばかりぼんやりとしたアンリセラはようやっと持ち直した。

 先程までは精神がぐちゃぐちゃで、説明もきっと要領を得ない物だったろう。きっと、エスターを困らせてしまったに違いない、と恥じ入るばかりである。

 彼女は自分の格好にも赤面した。簡単に結い上げた髪も、薄く施した化粧ももはやボロボロであった。ロングスカートのお仕着せは全身埃まみれ。どこでひっかけたのか、ほつれや破れもあり、ひどい有様である。慌てて、カウチソファを汚すわけにはいかない、と立ち上がるが既に後の祭りであった。

 治療費の仕送りを抜いた給料で弁償できるかしら、と泣きそうになりながらどうしようもなく再度腰を下ろす。不意にジクジクと足が痛むことにも気がついた。そう言えば何回か転んだ気がする。恐る恐るスカートを捲ると破れたストッキングが目に入る。視線を下げると膝から血が滲み、長時間歩き通しだったためか靴擦れも出来ていた。あまりのボロボロ加減に、アンリセラは情けなさ過ぎて思わず頭を抱えた。

 時間が経過すればするほど、アンリセラを落ち着かない気持ちにさせた。

 どうしよう、……どうしよう。

 どうすべきかはもう解っている。エスターはここで待つようにと言ってくれた。今頃はセテンス様に適切な処置をしてくれているに違いない。

 しかし、アンリセラがどうしたいか、は異なっていた。体調の悪そうなセテンスの姿が頭から離れないのだ。朝方、受け止め損なった身体は、肋骨が浮き、生きているのが不思議なくらい痩せ細っていた。そして、アンリセラと共に倒れ込んだ彼が呟きかけたあの言葉は。

『すまな……、怪我は、な、…か』

 あんな状態で彼はアンリセラを気遣っていたのだ!

 唇を噛み締めたアンリセラはそっと決意した。カウチは申し訳ないが、次の給料まで待ってもらうとして……、娘は深く息を吐きだしてゆっくりと顔を上げた。

 塔に帰ろう。

 足は痛むが歩けないほどではない。外は暗いだろうが街灯の灯りを伝っていけば辿り着けなくはないだろう。一度ここまできたし。むしろ日中と違って人通りが少ない分、歩きやすいかも。そんなことを考え自分を奮い立たせる。

 用意された紅茶はもう冷めきってしまっていたが、満身創痍の身体に染み渡った。しんと静まり返った部屋の中、小さく礼を呟くとアンリセラは立ち上がった。なんとか出入り口を見つけ、階段を下る。なぜかここの階段は整備されておりとても降りやすい。足を引き摺る様にして歩いている今の自分にはとてもありがたかった。そうしてなんとか塔の下まで降りきった娘はセテンスのいる北の塔に向かって踏み出した。




「なぜ、」



 悲痛な声音と共に強い風が巻き起こったのはその時だった。

 エスターに運んでもらった風とは全く違う、びゅう、と耳をつんざくような音を唸らせるそれに煽られ、思わず体勢を崩してしまう。アンリセラはすぐに遅い来るであろう衝撃にぎゅと目を瞑る。しかし、予期した衝撃は来ず、少しだけ冷たい腕の中へと引き寄せられる。

「なぜだ!」

 再度強い声が聞こえ、気のせいでないことに気がついたアンリセラは心の底から安堵する。彼女を自らの腕の中に囲い、まるで責め立てるように鋭い声を浴びせるこの相手こそ、アンリセラが救いたかった男セテンスだった。










「少し前から思っていたが、どうやら君は馬鹿だ。そうに違いない。それでなくとも馬鹿げている」


 何故だかニコニコと微笑んでいるアンリセラに詰め寄った後、セテンスは言葉を打ち切ったのは、目の前の—理解しがたい—女の身体を上から下まで確認するためだった。視線を上げた彼はギリと唇を噛み締めた。そして、いとも容易く彼女を抱き上げ——いわゆるお姫様抱っこというやつで絵本でしか見たことのなかったアンリセラは少しだけドギマギした——その地を蹴った。

——あれ?

 疑問を感じたその瞬間には彼女は見慣れた北の塔にいた。今朝方セテンスを寝転がしたソファに今度は彼女がそっと下される。

「あ、あの、私、かなり汚いので」

 こちらのソファまで埃まみれにしてしまっては申し訳ない、と慌てて咳を立ちかけたアンリセラをひと睨みして黙らせたセテンスは羽虫を払うかのようにぞんざいに腕を一振りする。その瞬間、不思議なことにアンリセラのお仕着せは新品同様に成り代わっていた。

「えっ」

 彼女が目を瞬かせている間に、彼は次の行動に移っていた。彼女の前に膝をつき、そうっとその靴を脱がせる。「我慢しろ」と言葉少なに呟かれた後膝までスカートを押し上げられる。異性に脚を見せるのは初めての経験で、アンリセラは顔を真っ赤にするが、しかし男の目的は明白だったため、きゅ、と唇をかみしめて耐えた。膝や踵だけではなく小指の先にも血豆が潰れたような傷が見える。自分のことながら、内心ではひぇえ、と思いつつも、なんとか表情には出さず、

「あ、あのこう見えて大したことはないので」

と告げたアンリセラに向けられたのは、まるで殺されそうなほどに鋭い眼光であった。息を呑み黙った同居人にフンと鼻を鳴らしたセテンスは視線を戻す。何かを呟きまた羽虫を払うかのように足の傷の上で手を振る。その瞬間痛ましいつ傷はあっという間に治癒した。





「っ!」

 目を見開く彼女は、思わず今まで感じていた違和感を口から漏らしていた。

「あ、あの、セテンス様は、魔力を持たないのでは……?」

 そう、エスターに聞いた話だとそういうことになっていたはずだ。なのに彼はひょいひょいと魔法を使っている。無垢な子どものように彼を見上げるアンリセラに、セテンスは分かりやすく顔を顰めた。

 やはり聞いてはいけないことだったか。彼にとって都合の悪いことを聞いてしまったことに、アンリセラは反省した。

「申し訳ありません、失礼なことを」
「身体に、……魔力を溜めていたんだ」

 アンリセラが謝罪するのと、怒気の消え去ったセテンスが声を引き絞るのはほぼ同時だった。こんな声など聞いたことはなくて、アンリセラはキョトンとする。

「私は魔力がないから……、少しでも魔力を介した魔法の行使ができるようになればと思って。魔力を含む魔石から抽出したものを身体に入れていた。だから……今のはその、体内に溜めていた魔力を消費した。これくらいの傷程度だったら問題なく治せる」
「で、でも、それって大切な力なのでは、」
「もう、いいんだ」

 慌てたアンリセラに、セテンスは首を横に振ってみせることでその答えとした。




「こんな馬鹿げたことで、誰かを犠牲にするくらいなら、本末転倒だから」
 最後にボソリとつぶやかれたその言葉はアンリセラの耳には入らなかった。





「そ、その、お加減は如何ですか、」

落ち着いてからようやっと気になっていたことを尋ねたアンリセラに、セテンスが小さく頷いて返す。

「だいぶ、良い」
「それは良かったです。心配しましたが、本当によかった」

 エスターはきちんと約束を果たしてくれたようだった。安堵するアンリセラはその後小さく付け足された言葉に、少しだけ驚いてしまう。

「あの、パンがドロドロしたやつ……美味かった」

 更に恥ずかしそうに、また作って欲しいとの要望まで添えられ、一拍の間も無く了承したアンリセラは今度こそ笑いを堪えらえきれなかった。

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