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怒りと、困惑と。

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 セテンスは怒り狂っていた。

 確かに依頼は終えた。くだらない依頼だと一蹴しながらも、最速で乞われた役目はこなしたのだ。王に報告書類を持ち寄り、この手で全てを渡した。塔に戻って整った机を目にしたその瞬間、天を拝む勢いでアンリセラに感謝した。出来うることならば二度と目にしたくない代物の大凡が片付けられている。その当時の精神状態を考えると、塔に帰り着いた瞬間、怒りのあまり燃やし尽くしてしまってもおかしくなかった。

 こうしてセテンスに急遽訪れた怒涛の日々は終わりを告げ、また穏やかな日々が、———訪れることは、無かった。


 解読を終えたはずの書物について、訳書を読み込んだ王から、幾度も確認の連絡が入るのだ。それも「〇〇を舐めろって書いてあるんじゃが、それは上からかの?それとも下から?」と言ったような信じられないほど下らない内容が大半だった。お陰でもうお別れだと思っていた猥本と日がな一日向き合う日々に逆戻りである。蓄積されていく怒りを抑えることは困難で、無意識に唸り声も飛び出すようになってきた。

 世話焼きの同僚は世界を救うために国の方々に立ち寄って魔物を討伐しているというのに、自分は何だ。この温度差に泣きたくなる。すでに王も王妃も幾人もの子どもを設けているのだ。つまりお世継ぎを産むために、とかそういう大義は全くない。本来、非常に個人的な分野とされる夫婦生活の営みになぜ自分がここまで付き合わされているのかも分からない。

 幾日かは我慢したが、流石に我慢の限界である。辛抱たまらず王城に跳んだ彼は、他の仕事にも支障が出るのでそろそろ勘弁してほしい旨を非常に良い笑顔で王に告げ、(なんなら王妃にもこっそり告げ口し王をコテンパンに叱ってもらったところで)ようやっと王も引いた。こんなことならもっと早く行動してしまえばよかったと思うばかりのあっけない幕引きであった。

 兎にも角にも、やっと、やっとだ。
 今まで通りの、平穏な生活が戻ってくる!

 今日の少し前まで、そう思っていたのに。



 なぜだか使用人変わりの娘は神妙な顔をしているし、加えて訳の分からない言葉まで飛び出した。王といい、娘といい皆欲求不満なのかと思いかけるが、彼女は明らかに思い詰めた顔をしている。その瞳の奥に、いつかのようにセテンスを気遣う光が見えることから、巫山戯ているわけでも、自らの欲を優先しているわけでもないことはすぐに伺い知れた。

 それではなぜこんな行動に出るのか確認をするために理由を尋ねる。確かに誤解をさせてしまうような言動があり、それについてはいたく反省した。が、その後に続く言葉も、訳の分からない言葉ばかりである。そして、

「みんなに好かれるためには、そうしなきゃいけないんです」

娘から放たれた言葉を認知した瞬間、なぜか酷く気分が害されたことを自覚した。

 理解できない言葉を話すこの娘の一挙手一投足にセテンスは大いに振り回されていた。この娘自体も決して望んでいるわけではないのに、セテンスのために、という不思議な大前提のもと、話を続けようとする。

そう告げる娘は本気でそれを信じているようだった。危うい観念をおずおずと告げる娘にセテンスは口を開き思わず嗜めてしまう。

 他人の欲望を叶えることで幸せになれるだと?
 
ぐわりと視界が揺れ、苦い記憶が幾つもの映像となり蘇った。

 父の欲望を叶えたところで、一切幸せになれなかった幼少期の自分。それどころかこうして消えないトラウマを刻みつけられた、哀れな、自分。

 セテンスはギリギリと奥歯を噛み締め首を振った。

 冷静に、……冷静にならねば。このままでは目の前の娘に酷いことを告げてしまいかねない。ふ、とわずかに息を吐き出した彼はこめかみを抑える。


 兎角、そんな法則などあるはずがない。
 あまりにも道理から外れている。
 他人任せの幸福など、決してあり得ないのだ。

 忌々しい魔法士の一員であるこの自分はどうだ?周囲の人間から嫌われている自覚なんて腐るほどあった。しかしそれが実生活に与える影響は?皆無だ。何もありはしない。なぜか。自分らしく誰にも拘束せずに暮らせているこの時こそが、セテンスにとって穏やかな時間だからである。そんなセテンスにとって、アンリセラの言葉は怪文でしかなかった。古代語が入り乱れた魔法書でさえもっとわかりやすいのに、彼女の言葉は全く解読ができない。


 人にも個体差があるからな、とかなり乱暴な視点で困惑した思考をなんとか落ち着ける。そもそも、家を出てから今に至るまで、他人のことを考えたり、理解したりするための時間など久しく存在しなかったのだ。それに、これ以上話し合ったところで、二人が納得できる終着点が見つかるとは到底思えなかった。

「よく分からないから、もういい」

 質問したのは自分なので、会話を打ち切るためにそんな言葉を放り投げた。なけなしの礼儀のつもりで投げかけた言葉のはずが、相変わらずのしわがれ声と、粗雑な語彙が、極端なまでに過去のトラウマを限界まで顕現させた娘にどんな印象を与えるかなど、知る由もない。

 本調子でない娘には少し頭を冷やしてもらって、距離をおいたほうがいいかも知れない。夕食は用意してもらうとして、別がいいか?明日も引きずるようなら、仕事を休ませたほうが懸命かも知れないな。

 そんなことを考えた彼は「今日はもう休んだほうがいい」そう告げ、私室に戻った。


 王にはああ言ったが、立て込むような仕事もないし。
 少し午睡にしけこむのもいいかも知れない、な。


ぼんやりとそんなことを考えたセテンスは、わずかな扉の開閉音を聞き逃す。不意に黒衣が引っ張られ、何気なく振り返った彼に、縋りつくように。

「嫌わないでください」

——そこにのはまるで。

 母に縋るいつぞやの自分を想起させる酷く寂しげな瞳をした娘の姿だった。パンドラの箱過去の傷を開きかねない思考をどうにか他所に放り投げたセテンスは、どうしたって理解できない娘へと思考を戻す。


 やっぱり、まるで、さっぱり、理解ができない。
 ここまで縋るのは金のためか?そんな考えに行き着いたセテンスは首を傾げた。

「別にそんなに気に病まなくても嫌ったりしない」

 この娘の人間関係への概念は、明らかに捻じ曲がっている。セテンスの口だけの言葉など通用していなかった。

「嫌われちゃう……だめ、それはダメ、カトリーネ……」

 うわ言のように呟く娘は明らかにセテンスではない何かに怯えていた。しばらく何かを呟き続けた娘は、す、と視線を上げた。濁った瞳は、既にセテンスなど見ていない。

 止める間も無く、彼女はセテンスの机に一直線に進んだ。彼女自身が整えたそこは、広々として、余分な書物の一切が片付けられている。あろうことかその上に乗り上げた彼女は、セテンスに向き直る形で座って見せた。

「一体何を、」

 仕事机で遊ばれるのはさすがのセテンスも予期しておらず、慌てて彼女に近づき、結果としてそれが悪手となった。

 支給されたお仕着せの長いスカートをそっと持ち上げる。そして細い脚をそっと開き、近寄ったセテンスの腰をはしたなくも抱え込んでみせた。彼女の脚が自らの臀部にかかったと思った瞬間、ぐい、と彼女の方に引き寄せられる感覚に、セテンスは困惑が止まらない。


「……は、これが、好きって言って、た……から、だから、きっと、……で、いい、はず」

 なおもぽそぽそと呟いた彼女は、困惑しきりのセテンスを見上げた。机に座った彼女の脚に羽交締めにされたセテンスは彼女と見つめ合う形になる。

明らかに濁ったその瞳は、セテンスから目を逸らされることはなく。時が止まったような感覚に陥る。しかし彼女の細腕だけはそろそろと降ろされ、自らのスカートをじわりじわりと引き上げていく。

「いったい、なにを」

 本来は秘められるべき膝から上がゆっくりと露わになっていく。白い大腿部が晒され、ついには。

 決して目にすることのないレースの下着が露わになった。

 セテンスはこの状況の一切合切が理解できなかった。腰を支えられているため離れようにも離れられない。

「君は何がしたいんだ?」

 苦い顔をしたセテンスが尋ねると、娘は無表情のまま、下着の紐を解いて見せる。しゅる、と頼りない糸ずれの音と共にあっという間に下着が用を成さないただの布、となる。そうして彼女は惜しげもなく、その秘部を晒してみせた。

「お願いします。嫌いにならないでください」

 行為はまるで淫売のそれだ。しかし表情のみが、彼女が何かを思い詰めていることを示していた。

「君の業務内容に、性行為及び、私の好意の有無は含まれていないと思うが」
セテンスがそう告げても彼女の言葉は意味をなさないものばかりだった。
「好きでもない相手にこういう行為をすること自体が、君の品位を下げているように思う」

 弱りきったように告げたセテンスの言葉に、アンリセラの眉間に皺が寄った。







困惑したセテンスから放たれた言葉はなぜかアンリセラの胸に響いた。

忌まわしい過去に囚われたままのアンリセラは、既に追い詰められきっていた。兄に秘部を晒したあの時、アンリセラの中で何かが失われた。

 品位を下げている?
 だってこうでもしなきゃ嫌われてしまうじゃない!
 そうなったらカトリーネは救えない!そんな役立たずの義娘私はお義父さんにすら嫌われちゃう!

 もう嫌だ。あの侮蔑の目に晒されるのも。
 役立たずだとせせら笑われるのも。

「お願いします。触ってください。舐めて、気持ち良くしてください」

だって兄はこれで喜んでくれた。
褒めてくれた。こうしたら、嫌わないって言ってくれた。

 アンリセラの上から大きなため息が降ってくる。それはいつぞやの兄のため息とかぶって、アンリセラは恐怖に身をすくませた。

「嫌わないで、お願い……嫌わないで」

 もはや涙をこぼしながらそんなことを呟く彼女に落とされたのは、
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