年下王子と口うるさい花嫁

いとう壱

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第37話 敵わない相手

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 クリストフは羞恥と混乱の中にいた。

 自分が何をしているのか、何故上手く踊れなかったのかが全く分からなかったからだ。覚えたはずのステップが、まるでなかったことかのように全て頭の中から消えてしまっていて、思い出そうとしても記憶が朧げなのだ。白花はくかの館では楽しいとすら思えたものが今では悪い夢のようだと感じられた。

 クリストフのおぼつかないダンスを見ていた観衆の中から聞こえてきたのは落胆のため息と諦めの言葉だ。


「やはり難しいものですかな」

「仕方がない。お生まれがお生まれですから」

「ですから神殿の中にいていただくのが良いのです。我々のような社交ができるわけもない。お母上のように祈りだけ捧げていれば」


 落ち着こうと深い呼吸をするたびに、何故か耳が冴えて聞きたくもないものまで聞こえてしまう。


「冷血公爵閣下が花嫁としてお側に侍るようになったからでは?」


 クリストフは思わず呼吸を止めた。


「なにしろあの閣下は茶会ですら戦場のような扱いで物事を運ぼうとなさる。第三王子殿下も心労が重なっているのだろう」

「そういえば、新年の祝賀の儀で一風変わった祝いの言葉をいただいたことがありますよ。あの方は祝いの場のような華やかな場がお好きではないようだ」

「祝福の花嫁様というのも何かの間違いでは」


 たかがダンスの失敗ひとつで、クリストフ本人のみならずローゼン公爵の評判までもが落ちてしまった。浅く息を吐き出して、ちらりと上を見上げる。銀縁の眼鏡に反射した会場の光のせいで、ローゼン公爵の表情は見えなかった。


「少し落ち着かれたほうが良さそうですね」


 ローゼン公爵は冷静な声でそう言うと、そっとクリストフの背を押した。会場の一角に用意されたゆったりとした椅子のある王族専用の休憩場所へとクリストフを誘導していく。

 本来であればクリストフはローゼン公爵のエスコートをしなければならないのだろう。だが、教えてもらったエスコートの作法も頭に浮かばぬほどクリストフは動けなかった。体の表面が全て過敏な神経で覆われてしまったかのように、囁きや笑い声がどれもクリストフとローゼン公爵に向けられた嘲笑に聞こえてしまう。


「殿下、少し遅れてはおりますが、まもなくアレクシアも来る予定です。アレクシアの友人で殿下と年の近い男子学生も共に参加しますので、王立学院の話でもお聞きになって、緊張をほぐされるのがよろしいでしょう」


 夜会とは関係のない話題に釣られクリストフが顔を上げたとき、乾いた音が背後から響き渡った。


「結構結構! 初めてのダンスにしては上出来ではないか」


 明らかに嫌味だと分かる言葉。レオンハルトだ。大仰な仕草で手を叩きながら歩み出てきた彼は、背後に何人もの令嬢を従えている。皆、頬を染めながらレオンハルトにダンスの相手をと乞うていた。

 ローゼン公爵はクリストフを器用に動かしながら振り返り、頭を下げた。


「だがダンスの相手にはもう少し身の丈に合った者を選ぶべきだな」


 クリストフの背丈を揶揄するような言葉に、ローゼン公爵が僅かに眉を上げる。


「王太子殿下、恐れながら」

「来い、セドリック」


 言葉を遮られ急に手を引かれたローゼン公爵は、クリストフの側からレオンハルトのその胸にあわや抱き止められるほどに近づく寸前で、何とか踏みとどまっった。


「ちょ、ちょっと!」


 これにはクリストフも驚いて声を上げた。思わずローゼン公爵に向けて手を伸ばしても、レオンハルトはローゼン公爵の手首を掴んだまま歩き出そうとしている。


「王太子殿下、何を」

「ダンスだ」


 レオンハルトは唇の端を吊り上げてクリストフを顧みた。


「兄として教えてやる。王族のダンスをな。よく見ておけ」


 慌てるクリストフを尻目に、ローゼン公爵を連れ出したレオンハルトはワルツを踊る貴族達の中に入っていった。ダンス前の作法は飛ばして、すぐにローゼン公爵の手を取り、腰に手を当てる。だがその動きは、手順を踏んでいないにも関わらず優雅で堂々としていた。


「王族の高慢と無礼さを知らしめるのが殿下の学ばれた作法ですかな」

「阿保の子守から救い出してやったのだ。許せ」

「第三王子殿下は日々学ばれております。王族同士で争わず、兄として弟君を守る姿勢をお見せにならなければ国が荒れますぞ」

「本当によく口が動くものだな、セドリックよ。女とは口うるさい生き物だが、まるでお前そのものではないか。存外女役を楽しんでいるのではないか?」

「女性の気質を決めつける発言をなさるとは、為政者を志す方とはとても思えませんな。王太子妃殿下は今夜はいらっしゃらないのですか? 言葉より思考を好まれるお方ですが、愛想を尽かされぬよう注意された方がよろしいかと」

「あれは例外だ。俺の前には出ぬ静かな女よ。今宵は女が主導する東部での慈善事業の会合に出ている。私も出る予定だったが……。なに、慈善事業とやらは女の仕事だろう? あれに任せておけば問題ない」


 ローゼン公爵とレオンハルトは何かを言い合いながら、それでも洗練された身のこなしで踊っていた。クリストフのときとは比べ物にならないほどの美しい動きだ。周囲から感嘆のため息がもれた。

 格の違いを見せつけられて、クリストフは悔しさよりも無力感で体が動かなかった。周囲の令嬢達はまだ誰もレオンハルトと踊れていなかったようで、瞳を煌めかせてレオンハルトとローゼン公爵を見つめているよもや、レオンハルトはクリストフにこんな思いをさせたくて、ダンスに参加せずに待ち構えていたのかもしれない。そんな考えが頭をよぎったのに、クリストフはただその場に立ち尽くした。

 自分が恥ずかしい。そんな思いで心も頭も埋め尽くされていく。


「……クリス様」


 不意にかけられた声に肩が跳ねた。アルベルトが自分を気遣ってくれている。声音からそれが分かっても、彼を振り返る気にはなれない。人の思いやりが惨めさをより一層大きなものにする。

 クリストフは身を翻した。


「あっ……! で、殿下っ!」


 素早い足取りで人々の中へと逃げ込む。レオンハルトとローゼン公爵のダンスをひと目見ようと集まった人々の群れが背の低いクリストフの姿を隠してくれた。逃げるクリストフの上から降ってくる視線に嘲りの色が見える。実際に彼らの目を見ているわけではないのだが、クリストフには会場にいる人々の視線全てが、自分を笑うためにこちらに向けられていると感じられるのだ。

 ここから早く抜け出して白花はくかの館に戻らなければ。

 人ごみから人の少ないほうへと、明るい場所から暗い場所へと、華やかな世界から孤独な世界へと。人々の熱気の中に迷い込んだかのような冷たい外気に誘われて、窓から覗く夜がクリストフを導いた。




 抜け出した先はバルコニーだった。

 夜会の会場がすぐ背後にあるにも関わらず、そこは別世界のように静かな夜に近かった。思い切り走ったわけでもないのに肩で息をしながら一歩踏み出す。冷たい石に手を触れて身を乗り出した。いっそここから飛び降りて一人で帰ってしまおうか。そう思ったとき——

 耳に届いたのは女性がすすり泣く声だった。





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