魔王の残影 ~信長の孫 織田秀信物語~

古道 庵

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雛鳥の章

第九話 映し鏡

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吉丸は翌日も、あて布を巻いた顔で現れた。
さすがに昨日の今日で顔を出すなどと思っていなかったので、たじろいでしまったものの、僕の日課は変わらない。
無視して歩を進めると、吉丸はおずおずと着いてきた。

……この子は、何を考えているんだ。
あれだけ徹底的に打ちのめしてなお、どうして僕に近づこうとする。

理解不能な存在に心が乱れる。
そして昨日、己の行った仕打ちを思い出し胸がちくりと痛む。

午前は必ず学問所で、何かしらの勉強をしていた。
今日は算術についての話だった。
吉丸も僕の背で聞いているようだが、身に入っているかは疑問だ。何せ、僕に合わせた教え方をしているのだ。
二つ下の吉丸では欠片も理解できまい。

――くそ、どうしてこうも考えてしまうんだ。

普段なら意識の外に追いやっているのに、気を抜くと気にかけてしまっている自分が悔しい。

「亡霊め」
小さく呟き舌打つと、教師が驚いて僕を見る。
何でもない、とあしらって再び机に向かうが、やはり集中できなかった。



さすがに、午後の素振りには姿を現さなかった。
当たり前だ、とほっとすると同時に、やはり昨日の事を思い出してしまう。

しかし、木刀を手に振り始めると、次第に無心になり打ち込むことができた。

数日おきに剣術指南役から教わっていたが、どちらかと言えば型や礼儀作法が中心で、僕の求める剣術とずれていた。
僕が求めているのは、忠政のような打ち合い。合戦で活きる剣だ。

だからこうして木刀を振り、空想の敵を思い浮かべて立ち合いの真似事をする。

いつも現れる相手は、忠政だった。

二十日程度の短い間だったが、忠政の動きはよく覚えている。
本当に楽しい日々だった。

思い出をなぞるように忠政の剣を空想し、そして己の体を動かす。
覚えたばかりの新しい型なども試してみる。

それでも、ちょっと本気を出した忠政にあしらわれて最後には一本取られてしまう。
目の前に現れる忠政は、ひたすらに強かった。


夢中になって剣を振る時間も終わり、日が傾く頃に止めにして、庭を整えてから湯殿へと向かう。
午後から侍女らは僕についていない。庭から離れることもないし、中庭なので障子を開けておけばよく見えるからだ。
湯殿へも先回りして準備に行くため、この時は一人だった。

その道中、なにやら風を切る音が聞こえたので気になり足を止めた。
よくよく聞けば、棒振りのような音だ。
それも酷く鈍く、荒い息遣いの方が多く聞こえる。


足音を忍ばせて覗くと、そこには大汗に塗れた吉丸の姿があった。
あて布が外れており、裂けた額の傷と潰れた鼻が痛々しい。傷が開いたのであろう、血が滴っている。

大きく口を開けて息を吐き、そして重たそうに棒を構え、振る。
地面を叩くように振り、荒く息継ぎをし、そして構えて振る。
それを繰り返していた。

「……どうして」

思わず、声に出ていた。
あの様子からかなり長い時間、棒を振っていたのは分かる。
しかし昨日、あれほど打ちのめされて傷も塞がらぬ内に、どうしてここまでできるのか。

理解できない。
――否、これはもしかして、僕への復讐か……?

ふと、そんな考えがよぎる。
僕を敵と捉えて、面目を潰された仕返しに来るつもりか。
それならば理解できる。

僕もどれ程あの秀吉を憎んだものか。母の御守りを焼いた事は、決して許せない。


悟られぬよう慎重にその場を離れる。

吉丸程度がどれ程稽古を付けようが問題にならない。それほどの差が、僕たちの間にあると思っている。
僕は僕で、日々強くなっているのだから。

果たし合いを挑まれたのならば、それに応えるのみ。肚さえ決まればどうという事もない。
変わらぬ日々を、精進を、続けるだけだ。

……なあ、忠政。





それからの日々は平穏そのもだった。
吉丸が朝から姿を現す日が減った。
時折学問所に着いてくるが、途中で寝てしまい、侍女に連れていかれる光景が当たり前になっていた。
午後も、僕のところには来ない。

そして、あの亡霊も姿を見せなくなった。
何がきっかけかは分からないが、とにかく、夜煩くするものが消えたのは良い事だ。
きっと符か札のいずれかが効いたのだろう。

秀吉も、吉丸も、亡霊も居ない。
悩みの種は全て消えた。平穏そのものだ。

……だが、何故か僕は気にかけてしまっている。
静かな水面に小さなつぶてが放りこまれ、波紋が起きているような、そんな感覚だ。

自分の稽古が終わった後、夕刻も木刀を振り続けている吉丸を、陰から眺めている事が増えた。
以前に比べてしっかりとした振り方になっており、かつて剣を習い始めた頃の自分と重ねてしまっていた。


――そう言えば、僕がここに来た頃も七歳の頃だったな。

何も分からず、屋敷を転々と移され、母の御守りだけが心の支えだったあの頃。
豪奢な聚楽第を見た日の自分と、目の前で必死に素振りする吉丸が同じに思えてしまっていた。


――『あの童ははお前と同じだ。鏡に映る己は、好ましいか? それとも醜いか? よう考えてみろ』

亡霊の言葉を思い出す。
僕と同じ。そして鏡の僕。

僕は……僕が嫌いだ。ただの傀儡として、大人たちのされるがままに生きるしかない、無力な童。それが鏡に映る僕だ。
そんな自分を、吉丸に重ねていたのだろうか。

見ていると胸に針が刺さるような痛みが走る。
このまま居ると、いつまでも痛みが続くような気がして、足を湯殿へと向けた。



「お待ちください、秀信様」

廊下の途中で声を掛けられ振り向くと、そこには吉丸の母の姿があった。

「……何用ですか」
僕には居ない、吉丸には居る、母。
そんな想いがあって、この人と話すのは苦手だ。

「先日の非礼をお詫びさせてください。当主を平手で打つなど……」
「用はそれだけですか。僕は何も思っていないのでお気になさらず。では」
「お待ちください!」

去ろうとする僕を再び止められ、早く離れたい気持ちを抑えながらも振り向く。

「秀信様が吉丸を見てくれているのを、幾度かお見かけしております。なので少々、お話させてください」
どうしたものか、と思っているうちに吉丸の母が歩み寄り、廊下に正座し向き合う。

まじまじとこの人の顔を見るのは、初めてかもしれない。
瘦せていて皺が多く、手も荒れていた。

「秀信様のお身上の事は、存じておりました。秀信様の元に行こうとしたのも、一再ではありません。もっと前にこうして話をしたかったのです」
「それは、父上の側室だから、ですか」
「いえ、私は……独りとなったあなた様を、吉丸と共に育てかったのです」
「虫のよい話、ですね。実際は一度も会いにすら来なかった」
「ああ……覚えておいでではないのですね。あの頃の秀信様は、どこか上の空のようでしたから……」

この口ぶりは、僕に会いに来ていたという事か。

「坂本に居る時にも、安土のお屋敷の時にも参りました。まだ秀信様も幼かったので、覚えていないのも当然かもしれません。その時あなた様を引き取りたいと申し出たのですが、秀吉様……関白殿下がお止めになっていると、聞き入れてもらえませんでした」
「……今更、そんな話を信じろと?」
「私のことも、吉丸のことも存じていなかった様子を見るに、きっと天涯孤独であると伝えられていたのかと、お察しします。ですが、吉丸の……あの子の気持ちだけは聞いて欲しいのです」

あの頃はめまぐるしく住処も人も変わっていたので、何一つ覚えていない事は確かだった。あの大人たちの中にこの人が紛れていても、分からないだろう。
覚える気も、話を聞く気も無くなっていたのを思い出す。

「吉丸には、兄の存在を教えておりました。あの子は父と一度も触れ合う事なく生れ落ち、母一人子一人、小さな村の屋敷に閉じ込められて育ちました。村の者には私達の警護と監視を頼まれていたようで、息苦しい日々を過ごしてまいりました。そんな中で、あの子にとって歳の近い兄の存在は、きっと心の支えになっていたと思います」

興味などない、聞きたくない。そんな気持ちとは裏腹に、吉丸の母の話を聞き入ってしまっていた。
元大名の側室だというのに、侍女たちのように苦労のにじみ出る容貌をしているのが、話に説得力を持たせていた。

「ある日のことです。関白殿下の使いの者から、この聚楽第に参じるように言い渡されたのは。聚楽第に秀信様が居ることを聞いた吉丸の喜びようはそれはそれは……飛ぶことを覚えたばかりの鳥のようでした。これまで学ぶ気のなかった礼儀作法も自ら学ぼうとして、毎日のように秀信様に会える楽しみを私に語っておりました」

話から、吉丸の姿が思い浮かぶ。
僕と違うが、僕と同じ。似た痛みを知る、子供。

「秀信様には鬱陶しく映っているのかもしれません。ですが、どうかご容赦ください。そして少しでも良いので……吉丸に言葉をかけてはくださりませんか。本当に少しで構わないのです。それだけで、あの子はきっと」
「もういいです。分かりました」
「あ……」

きびすを返し、吉丸の母を置いて廊下を進む。
その途中で、足を止める。

「明日の正午過ぎに、庭に来るように伝えてください。ご自分の木刀を持ってくるのがよろしいかと」
「秀信様、まさか……」
「お伝えください」

何か叫ぶ吉丸の母を残し、足早に立ち去った。





いつもの時間、いつもの庭。
そこに異物が一つ。

庭の端に立ち尽くす、一人の幼子。その手には使い込んだ木刀があった。

僕の姿を認めた吉丸は、口を開き魚のようにぱくぱくとさせる。
しかし言葉にはならず、俯き黙りこくっている。

僕は吉丸の脇を通り過ぎ、自分の木刀を掴む。吉丸の物よりも、ずっとぼろぼろになった木刀だ。

「今日は稽古をつけてやる」

言うと、びくりと体を震わせる吉丸。
遠くから強い視線を感じる。見遣れば、そこには吉丸の母がこちらを見ていた。

「案ずるな。前のようにはしない。あの時は……本当に、すまなかった」
そう言って頭を下げると、慌てた様子で吉丸が駆け寄る。

「そんな、兄上! 頭を上げてください。お気に障る事をしたのは僕の方です」

「いや、やり過ぎたよ。稽古と称して僕がやりたかったのは、ただの憂さ晴らしだ。だから、すまない」
もう一度頭を下げる僕に、吉丸は慌てた様子から少し落ち着く。

「……とても痛かったです、兄上。あんなに打たれたのは初めてでした。でも、それでも兄上を嫌いになれなかっ
た。兄上のお気持ちを考えずに付きまとってしまったこと、謝ります。お許しください」

言いながら頭を下げる吉丸に、ふっ、と笑みを漏らす。

「ああ、とても煩わしかったよ。公家や武家衆の童たちに遊べ遊べと付き合わされるようで、辟易していた。だから、これでおあいこだ」

そう言って右手を差し出すと、驚いたような表情を浮かべる吉丸。

「吉丸、よく来てくれた。兄は嬉しい」
「あに……うえ……」
僕の言葉を聞いた吉丸は、ぽろぽろと目から雫が溢れ始め、嗚咽を漏らしながら僕の右手を握り返す。

「さあ、男は泣くな。僕は一度も泣いたことなどないぞ!」
「はい……はい!」
「稽古をつけてやる。ただし、僕は教え下手だ。打ち合いで学べ!」
「はい!」

聚楽第に、久しぶりに木刀の快音が響く。
一陣の風が駆け巡り、誰もが土埃から眼を庇った。
しかし、二人の童は構わず駆け回り木刀を合わせる。

笑っていた。

よく似た二人、その姿は映し鏡のように、かつての三法師と忠政、そして吉丸と秀信の姿を映しとった。
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