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雛鳥の章
第十話 豊臣天下、その先
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「まいった!」
眼前にびたりと止まった木刀に、思わずたじろいでしまう。
「ふう。兄上、もう一手願えるか?」
「いや、休憩にしよう。続けて十二本目だ」
「なんだなんだ、僕はまだまだやれるぞ」
戦績は五勝七敗。
兄の面目ももう守れなくなってしまった。
午後からの稽古を朝に変えてから、もう一年が過ぎようとしている。
歳の暮れに近づき、聚楽第の朝も寒い。
この一年は、まさに豊臣の天下を確固たるものとした年だった。
まず、小田原征伐の成功、そして奥州仕置と題する征伐戦も先日終えた。琉球も降り、これにより日ノ本のほぼ全てを豊臣が掌握したと言ってよい状況となった。
大きな敵対勢力は全て平らげてしまっており、残る反豊臣を掲げる大名も今の秀吉からすれば、吹けば飛ばせる程度の小さな勢力でしかない。
「天下人」の名は即ち、豊臣秀吉その人を指す言葉となった。
昨年には実子の鶴松様が誕生しており、生まれてすぐにも関わらず後継に指名し、秀吉は大層上機嫌の様子らしい。
まさしく世は豊臣の天下。これまで誰も成し得なかった日ノ本平定を、あの秀吉が成し遂げたのだ。
織田の名は、既に豊臣の傘下のひとつとして数えられてしまっている。
俺はと言えば、歳は十一となっていた。弟の吉丸……いや、織田秀則は九歳。
俺と同じ歳で元服し、改名していた。当然のように秀吉が名付け、「信」の字すら与えられなかった。その事に酷く落胆していた様子だったが、今では受け入れているようだ。
そして、秀則の成長は著しかった。
二つ離れているというのに背丈は俺とほぼ変わらず、力は俺よりも強い。
日課の稽古でも負け越すようになってしまった。剣の天稟は、俺ではなく秀則の方にあるようだ。
口惜しいのは確かだが、最近は妙にそれが嬉しかった。
最初の頃はかなり手加減をしていた。力を抜く、相手に合わせる、というのはなかなかに難しい。
押し過ぎてしまったり、早く振り過ぎてしまうと簡単に倒せてしまうからだ。
その加減を覚える苦労を感じながら、忠政もこんな気分だったのかな、と思いを馳せていたものだ。
次第にその加減の具合が変わっていき、自身の稽古とほぼ変わらない域に入ってからは早かった。すぐに全力を出さなければ負けてしまう程になり、今では届かない事が増えている。
それでも秀則は俺に羨望の眼差しを向けている。だから、自分を「俺」と呼ぶように変えていた。忠政のように。
聚楽第の日々も四年を過ぎて五年目に入っている。こんなに長く過ごしたことは無い。
こんな毎日がどこまで続くのだろうと、ふと、そんな事を考えてしまう。
名ばかりの織田当主。所領も持たないのが実状だ。知らない所で信雄叔父であったり、倅の秀勝殿が織田宗家を名乗っていたりもしているが、秀吉からは「織田の嫡流はうぬのみ」と言われ、何とも曖昧にされている。
このまま名前だけの傀儡として、飼い殺しにされるのだろうか。
俺の人生は、一体なんのためにあるのだろうか。
戦国の世の中、ぬるま湯のような毎日に、自分が他の肥え太る公家衆や武家衆達のように腐ってしまうのではないかと、そんな不安に駆られたりもした。
「兄上、今日は関白殿下がここに来るらしい」
汗を拭う秀則が、そんな事を言った。
「鶴松様に首ったけかと思っていたが、なんだ、来るのか」
最近の秀吉の動きと言えば、築城が進んでいる大阪、これから築城に取りかかるという肥前、京の時は鶴松様のいる淀城が定番となっていた。
聚楽第には公家衆と会う時や、朝廷の臣下と会う時などに限定されて使っている。
一応秀吉の本拠としているが、主が不在な事が多い空の城である。
「侍女から聞いたのか?」
「ああ、立ち話しているのを」
今日は特に行事など聞いていない。だが、何か用があっての事かもしれない。
「相変わらず、兄上は関白殿下が苦手か?」
「まあ、な。あまりこういう話はするなよ、お前まで睨まれる」
「僕は構わないさ、兄上の方が心配だ」
秀則は鷹揚とした部分があり、何かと気を立ててしまう俺とは正反対の性格だった。
ゆったりと構えているような節があるので、既に大物のような風体である。
「さて、僕はもう少し稽古したいが兄上は?」
「俺はやめておく。着替えてくるよ」
「わかった」
実は八本目の時に打たれた左肩が、腫れはじめているのを確かめていた。
これ以上秀則に付き合っていたら、いよいよ立てなくなりかねない。そんな無様を晒したくはないので、冷やしに行きたかった。
「あいつは加減を知らないからなあ……」
小さくぼやき、痛む肩をさする。
それにしても、秀吉が来るのはいつ頃だろうか。
少しばかり気が重くなる。
◆
秀則の言った通り、その日の夕刻に秀吉は現れた。
やはりあの男が来る時は屋敷が騒がしくなる。
もちろん供回りや家臣達の引き連れているので人が増えるのもあるのだが、秀吉という存在ひとつに皆が神経を尖らせるのだ。
しかしその日も、翌朝も呼ばれはしなかった。
主君の跡継ぎとして自ら担いだ頃と違い、実質的に臣従させている今となっては俺に興味などないのだろう。
だが、そんな思いとは裏腹に、寝静まる前の夜遅くに呼ばれた。
こんな事は初めてだ。
……もしや。
噂に聞く臣下への夜伽の誘いではないだろうか。
男色を好む大名の話もよく聞く。何よりもお祖父様である信長公がその筆頭と言われる程だ。
……あの猿に、抱かれる?
それは嫌だ。無理だ。先日精通し、女の抱き方を教わったばかりだというのに。
しかし断ることはできない。侍女も有無を言わさぬ様子だ。
脇差の一つでも持っていければよいのだが、この部屋には無い。最悪、力づくで拒むしかないだろう。
肚を括り、秀吉の居室へと向かった。
通された部屋は普段の大広間ではなく、秀吉が寝室に使っている部屋の前だった。
そこには秀吉以外の者はおらず、侍女が去ると二人きりにされてしまった。
「関白殿下におかれましては、本日もご機嫌麗しゅうございます」
「夜半に呼び出してすまぬの。明日には発つから会っておきたかった」
そう答える秀吉は、少し疲れた様子を見せていた。
着物も、豪華な柄だが寝間着であろう簡素なつくりのものだ。
「私に何か御用でしょうか」
「おう。酒は飲むか?」
「いえ」
「そうか」
素っ気ない答えと共に、秀吉が目の前にどかりと座った。
秀吉が盃を手にしたので、酒を注いでやる。
「お疲れのようでございますね」
「まぁの。日ノ本を肩に背負うというのは、並み大抵ではない」
盃を一息に飲み干し、突き出すので再び注ぐ。
「緊張しておるな? 何を畏れる」
「……決して、そのような」
「いい、申せ。うぬと儂の仲じゃ」
さて、どう切り返すべきか。まさか俺を抱くつもりで呼んだのかなどと、己から言いたくはない。
「……何か、お気に障るような事があったのかと」
「はっ、わざわざ八つ当たりするために童のうぬを呼ぶか。世迷言も大概にせい」
「申し訳ございませぬ」
それからは秀吉が飲み、俺が注ぎ、を繰り返すだけだった。
酒瓶が空になると、顔が赤くなった秀吉は盃を放り投げ、畳で大の字になる。
「のう、秀信。うぬに儂はどう映る?」
「それは……天下、そのものと」
「つまらぬが、まあ、そうじゃろう」
どうやら僕を抱く為ではなく、いつもの天下語りをしたかったようだ。まだ警戒は解けないが、少しばかり胸を撫でおろす。
「既にこの日ノ本全て、豊臣配下となっております。その頭領であり、朝廷の関白でもあられる秀吉様は、紛れもない天下人かと」
「そうじゃのう。源も足利も、そしてうぬの爺ですらできなかった事じゃ。信長め、あの世でさぞ口惜しがっておるじゃろうて」
今までの大言とは、また一つ違う趣を感じられた。普段は信長公と呼んでいるのに呼び捨てた。それに、歴代の将軍家を足蹴にするような物言いも初めてだ。
「儂はな、秀信。うぬを後継にしようと思っていた」
「は……?」
「なんの為にこれ程庇護してきたと思う。なんの為に養育してきたと思う。なんの為にこの聚楽第に住まわせていたと思う。全ては、子を為せなかった儂の志を継がせる器を、育てたかったからじゃ」
こんな話、聞いた事がない。俺は傀儡。お前が天下に昇るために使い捨てた、人形のはずだ。
「うぬには覇道を駆けた血が流れておる。信長も、信忠も、儂は稀代の戦上手として見ておる。だが運が無かった。光秀如きに討たれる隙を作ったのが運の尽きよ」
秀吉は、酔っている。目が泳いでいるようだ。
「うぬは運よく生き残った。だから儂は信孝でも信雄でもなく、うぬを選んだ。結果として、儂が日ノ本を治める大大名となったのは皮肉かもしれんがの」
今話していることの真偽は分からない。だが、本音が漏れだしているような、そんな気がしている。
「まあその意味ではうぬも運が無かったな。鶴松が生まれた。……くく、ほんに可愛いぞ、儂の子は。儂は鶴松に全てを継がせるために生まれ、戦ってきた。そう思える程に、な」
「それは、大変喜ばしゅうございます」
「だがな、うぬに継がせるために心血を注いできたのも事実。うぬにはその素養がある。何とも恵まれた童よ」
そう言うと秀吉は起き上がり、半目で俺を見据える。
「のう、秀信。鶴松がおる以上、全ての倅どもと、うぬら兄弟は用済みと思うか?」
「それは……」
思った。今の話の流れではそうだ。だからその処分の下知が下るのだと、身構えてしまっていた。
「これだから、うぬは儂を舐めておると言うとるのじゃ。倅どもなど、これから先を考えれば百や千では足らんというに」
「百や千、でございますか」
「おう。――うぬは、儂を天下そのものと言ったな。うぬの言う天下はどこからどこまでじゃ」
「それは……本州から九州・四国、そして琉球まででしょうか」
そう答えると秀吉は笑い声を上げ、畳の上を転げまわった。
小馬鹿にした、不快な笑いだ。
「狭い! うぬは何を学んできた? 未だに信長が見ていたものすら、見えなんだ。――儂の言う天下はの、日輪が届くすべての場所を指しておる! それこそが言葉の通り”天下”じゃろうて!」
「――天下」
「そうじゃ。儂からすれば日ノ本など一国に過ぎぬ。地球儀というものを見たことがあるか? あれに書かれた日ノ本は、ほんの小さな欠片程の大地でしかおらん! たかが一国を統べた程度で天下だなどと、口にするな!」
秀吉の言うことが本当なのか、という疑念はあるものの、その話は雷に打たれたような衝撃があった。
この日ノ本が小さな一国? この聚楽第、京の都ですら僕は全てを見ていないというのに。
――どれだけ広いんだ。ここは。
海の向こうにどれだけの国があるのだろうか。
「儂の言う天下人は、まだ遠い。一歩目をようやっと踏み出したのだ。じゃから、鶴松には儂が平らげた全てをくれてやる。儂の倅どもにはそれぞれが一国を治め、鶴松を盛り立て天下人とするのじゃ」
秀吉の話の壮大さに、目眩がするようだった。
この日ノ本を全て手に入れたのが、ただの一歩目。
そして己の死の先の話をしている。
俺には到底踏み込めない、境地のような話だ。
……だが、心が昂っている。秀吉の話を、もっと聞きたいと思ってしまっている。
「うぬは鶴松の代ではいい歳になるじゃろう。筆頭として、仕えてもらうつもりでおる」
そう言って僕の肩を叩く秀吉。
「私は、織田ですよ」
「反骨者が傍におる方が、鶴松にもよい薬になるじゃろうて。それに、うぬは儂の倅も同然じゃ。これからを頼みたい」
柄にもなく、秀吉の言葉を嬉しく思ってしまっている自分が居た。
もう既に豊臣の配下だ。その中でも、筆頭として扱ってもらえる。そして真の天下取りに加われる。この誘いがどれ程のものか。
「まあ、返事などいらぬ。まだ鶴松に譲るには早いからのう。じゃが、そろそろうぬも所領が欲しかろう。美濃はどうじゃ? うぬの親父殿と同じ地から始めるのは。秀勝にくれてやる手筈じゃが、彼奴は来年は忙しくなるからのう。恒興の倅が今はおるが、城替えで秀勝が入る岐阜城。まずはそこで励め」
「私が、一国一城を」
「儂から見れば一国の中の一つの地じゃ。別になーんとも思わん。これから領地なぞ腐るほど増えるからのう」
秀吉の言う話。日ノ本平定のその先。つまりは……
「秀勝様は、海向こうに攻め入られる、と?」
「おお! そうじゃ鋭いのう。これから肥前国に城を建てる。そこを拠点に、朝鮮へと攻め入る。一歩を踏み出したのならすぐに二歩目を踏み出さねばのう」
なぜあんな場所に、と思っていた肥前の築城。それはこの為だったのか。
この人は、なんて大きな人なのだろうか。
あれ程恨んでいたのが、ひどく小さな事に思えてしまっていた。
視点が、視野が、唯人のものではない。
「朝鮮の次は唐じゃ。あそこは途轍もなく広い。骨が折れるぞ」
欄々と目を輝かせる秀吉の熱に、浮かされそうだ。
「唐を越え絹の道を越え、南蛮の国も全てを平らげる。伴天連共が捧げる珍品も全てが儂の物となる」
「それが、秀吉様の志、でございますか」
「おう、そして儂が手にした全てを、鶴松に受け継がせる。豊臣は千年、万年の繁栄を得るじゃろう」
震えた。
体ではない、心が、だ。
「まだ儂がここに来れる内に、うぬに話しておきたかった。じきに慌ただしくなる。まあ、美濃の一国程度軽く治めてみせよ。そこでうぬの実力を見るでな」
「はっ」
勢いよく手をつき頭を下げる。
秀吉に、真の臣従の意を見せるのは、この時が初めてだった。
眼前にびたりと止まった木刀に、思わずたじろいでしまう。
「ふう。兄上、もう一手願えるか?」
「いや、休憩にしよう。続けて十二本目だ」
「なんだなんだ、僕はまだまだやれるぞ」
戦績は五勝七敗。
兄の面目ももう守れなくなってしまった。
午後からの稽古を朝に変えてから、もう一年が過ぎようとしている。
歳の暮れに近づき、聚楽第の朝も寒い。
この一年は、まさに豊臣の天下を確固たるものとした年だった。
まず、小田原征伐の成功、そして奥州仕置と題する征伐戦も先日終えた。琉球も降り、これにより日ノ本のほぼ全てを豊臣が掌握したと言ってよい状況となった。
大きな敵対勢力は全て平らげてしまっており、残る反豊臣を掲げる大名も今の秀吉からすれば、吹けば飛ばせる程度の小さな勢力でしかない。
「天下人」の名は即ち、豊臣秀吉その人を指す言葉となった。
昨年には実子の鶴松様が誕生しており、生まれてすぐにも関わらず後継に指名し、秀吉は大層上機嫌の様子らしい。
まさしく世は豊臣の天下。これまで誰も成し得なかった日ノ本平定を、あの秀吉が成し遂げたのだ。
織田の名は、既に豊臣の傘下のひとつとして数えられてしまっている。
俺はと言えば、歳は十一となっていた。弟の吉丸……いや、織田秀則は九歳。
俺と同じ歳で元服し、改名していた。当然のように秀吉が名付け、「信」の字すら与えられなかった。その事に酷く落胆していた様子だったが、今では受け入れているようだ。
そして、秀則の成長は著しかった。
二つ離れているというのに背丈は俺とほぼ変わらず、力は俺よりも強い。
日課の稽古でも負け越すようになってしまった。剣の天稟は、俺ではなく秀則の方にあるようだ。
口惜しいのは確かだが、最近は妙にそれが嬉しかった。
最初の頃はかなり手加減をしていた。力を抜く、相手に合わせる、というのはなかなかに難しい。
押し過ぎてしまったり、早く振り過ぎてしまうと簡単に倒せてしまうからだ。
その加減を覚える苦労を感じながら、忠政もこんな気分だったのかな、と思いを馳せていたものだ。
次第にその加減の具合が変わっていき、自身の稽古とほぼ変わらない域に入ってからは早かった。すぐに全力を出さなければ負けてしまう程になり、今では届かない事が増えている。
それでも秀則は俺に羨望の眼差しを向けている。だから、自分を「俺」と呼ぶように変えていた。忠政のように。
聚楽第の日々も四年を過ぎて五年目に入っている。こんなに長く過ごしたことは無い。
こんな毎日がどこまで続くのだろうと、ふと、そんな事を考えてしまう。
名ばかりの織田当主。所領も持たないのが実状だ。知らない所で信雄叔父であったり、倅の秀勝殿が織田宗家を名乗っていたりもしているが、秀吉からは「織田の嫡流はうぬのみ」と言われ、何とも曖昧にされている。
このまま名前だけの傀儡として、飼い殺しにされるのだろうか。
俺の人生は、一体なんのためにあるのだろうか。
戦国の世の中、ぬるま湯のような毎日に、自分が他の肥え太る公家衆や武家衆達のように腐ってしまうのではないかと、そんな不安に駆られたりもした。
「兄上、今日は関白殿下がここに来るらしい」
汗を拭う秀則が、そんな事を言った。
「鶴松様に首ったけかと思っていたが、なんだ、来るのか」
最近の秀吉の動きと言えば、築城が進んでいる大阪、これから築城に取りかかるという肥前、京の時は鶴松様のいる淀城が定番となっていた。
聚楽第には公家衆と会う時や、朝廷の臣下と会う時などに限定されて使っている。
一応秀吉の本拠としているが、主が不在な事が多い空の城である。
「侍女から聞いたのか?」
「ああ、立ち話しているのを」
今日は特に行事など聞いていない。だが、何か用があっての事かもしれない。
「相変わらず、兄上は関白殿下が苦手か?」
「まあ、な。あまりこういう話はするなよ、お前まで睨まれる」
「僕は構わないさ、兄上の方が心配だ」
秀則は鷹揚とした部分があり、何かと気を立ててしまう俺とは正反対の性格だった。
ゆったりと構えているような節があるので、既に大物のような風体である。
「さて、僕はもう少し稽古したいが兄上は?」
「俺はやめておく。着替えてくるよ」
「わかった」
実は八本目の時に打たれた左肩が、腫れはじめているのを確かめていた。
これ以上秀則に付き合っていたら、いよいよ立てなくなりかねない。そんな無様を晒したくはないので、冷やしに行きたかった。
「あいつは加減を知らないからなあ……」
小さくぼやき、痛む肩をさする。
それにしても、秀吉が来るのはいつ頃だろうか。
少しばかり気が重くなる。
◆
秀則の言った通り、その日の夕刻に秀吉は現れた。
やはりあの男が来る時は屋敷が騒がしくなる。
もちろん供回りや家臣達の引き連れているので人が増えるのもあるのだが、秀吉という存在ひとつに皆が神経を尖らせるのだ。
しかしその日も、翌朝も呼ばれはしなかった。
主君の跡継ぎとして自ら担いだ頃と違い、実質的に臣従させている今となっては俺に興味などないのだろう。
だが、そんな思いとは裏腹に、寝静まる前の夜遅くに呼ばれた。
こんな事は初めてだ。
……もしや。
噂に聞く臣下への夜伽の誘いではないだろうか。
男色を好む大名の話もよく聞く。何よりもお祖父様である信長公がその筆頭と言われる程だ。
……あの猿に、抱かれる?
それは嫌だ。無理だ。先日精通し、女の抱き方を教わったばかりだというのに。
しかし断ることはできない。侍女も有無を言わさぬ様子だ。
脇差の一つでも持っていければよいのだが、この部屋には無い。最悪、力づくで拒むしかないだろう。
肚を括り、秀吉の居室へと向かった。
通された部屋は普段の大広間ではなく、秀吉が寝室に使っている部屋の前だった。
そこには秀吉以外の者はおらず、侍女が去ると二人きりにされてしまった。
「関白殿下におかれましては、本日もご機嫌麗しゅうございます」
「夜半に呼び出してすまぬの。明日には発つから会っておきたかった」
そう答える秀吉は、少し疲れた様子を見せていた。
着物も、豪華な柄だが寝間着であろう簡素なつくりのものだ。
「私に何か御用でしょうか」
「おう。酒は飲むか?」
「いえ」
「そうか」
素っ気ない答えと共に、秀吉が目の前にどかりと座った。
秀吉が盃を手にしたので、酒を注いでやる。
「お疲れのようでございますね」
「まぁの。日ノ本を肩に背負うというのは、並み大抵ではない」
盃を一息に飲み干し、突き出すので再び注ぐ。
「緊張しておるな? 何を畏れる」
「……決して、そのような」
「いい、申せ。うぬと儂の仲じゃ」
さて、どう切り返すべきか。まさか俺を抱くつもりで呼んだのかなどと、己から言いたくはない。
「……何か、お気に障るような事があったのかと」
「はっ、わざわざ八つ当たりするために童のうぬを呼ぶか。世迷言も大概にせい」
「申し訳ございませぬ」
それからは秀吉が飲み、俺が注ぎ、を繰り返すだけだった。
酒瓶が空になると、顔が赤くなった秀吉は盃を放り投げ、畳で大の字になる。
「のう、秀信。うぬに儂はどう映る?」
「それは……天下、そのものと」
「つまらぬが、まあ、そうじゃろう」
どうやら僕を抱く為ではなく、いつもの天下語りをしたかったようだ。まだ警戒は解けないが、少しばかり胸を撫でおろす。
「既にこの日ノ本全て、豊臣配下となっております。その頭領であり、朝廷の関白でもあられる秀吉様は、紛れもない天下人かと」
「そうじゃのう。源も足利も、そしてうぬの爺ですらできなかった事じゃ。信長め、あの世でさぞ口惜しがっておるじゃろうて」
今までの大言とは、また一つ違う趣を感じられた。普段は信長公と呼んでいるのに呼び捨てた。それに、歴代の将軍家を足蹴にするような物言いも初めてだ。
「儂はな、秀信。うぬを後継にしようと思っていた」
「は……?」
「なんの為にこれ程庇護してきたと思う。なんの為に養育してきたと思う。なんの為にこの聚楽第に住まわせていたと思う。全ては、子を為せなかった儂の志を継がせる器を、育てたかったからじゃ」
こんな話、聞いた事がない。俺は傀儡。お前が天下に昇るために使い捨てた、人形のはずだ。
「うぬには覇道を駆けた血が流れておる。信長も、信忠も、儂は稀代の戦上手として見ておる。だが運が無かった。光秀如きに討たれる隙を作ったのが運の尽きよ」
秀吉は、酔っている。目が泳いでいるようだ。
「うぬは運よく生き残った。だから儂は信孝でも信雄でもなく、うぬを選んだ。結果として、儂が日ノ本を治める大大名となったのは皮肉かもしれんがの」
今話していることの真偽は分からない。だが、本音が漏れだしているような、そんな気がしている。
「まあその意味ではうぬも運が無かったな。鶴松が生まれた。……くく、ほんに可愛いぞ、儂の子は。儂は鶴松に全てを継がせるために生まれ、戦ってきた。そう思える程に、な」
「それは、大変喜ばしゅうございます」
「だがな、うぬに継がせるために心血を注いできたのも事実。うぬにはその素養がある。何とも恵まれた童よ」
そう言うと秀吉は起き上がり、半目で俺を見据える。
「のう、秀信。鶴松がおる以上、全ての倅どもと、うぬら兄弟は用済みと思うか?」
「それは……」
思った。今の話の流れではそうだ。だからその処分の下知が下るのだと、身構えてしまっていた。
「これだから、うぬは儂を舐めておると言うとるのじゃ。倅どもなど、これから先を考えれば百や千では足らんというに」
「百や千、でございますか」
「おう。――うぬは、儂を天下そのものと言ったな。うぬの言う天下はどこからどこまでじゃ」
「それは……本州から九州・四国、そして琉球まででしょうか」
そう答えると秀吉は笑い声を上げ、畳の上を転げまわった。
小馬鹿にした、不快な笑いだ。
「狭い! うぬは何を学んできた? 未だに信長が見ていたものすら、見えなんだ。――儂の言う天下はの、日輪が届くすべての場所を指しておる! それこそが言葉の通り”天下”じゃろうて!」
「――天下」
「そうじゃ。儂からすれば日ノ本など一国に過ぎぬ。地球儀というものを見たことがあるか? あれに書かれた日ノ本は、ほんの小さな欠片程の大地でしかおらん! たかが一国を統べた程度で天下だなどと、口にするな!」
秀吉の言うことが本当なのか、という疑念はあるものの、その話は雷に打たれたような衝撃があった。
この日ノ本が小さな一国? この聚楽第、京の都ですら僕は全てを見ていないというのに。
――どれだけ広いんだ。ここは。
海の向こうにどれだけの国があるのだろうか。
「儂の言う天下人は、まだ遠い。一歩目をようやっと踏み出したのだ。じゃから、鶴松には儂が平らげた全てをくれてやる。儂の倅どもにはそれぞれが一国を治め、鶴松を盛り立て天下人とするのじゃ」
秀吉の話の壮大さに、目眩がするようだった。
この日ノ本を全て手に入れたのが、ただの一歩目。
そして己の死の先の話をしている。
俺には到底踏み込めない、境地のような話だ。
……だが、心が昂っている。秀吉の話を、もっと聞きたいと思ってしまっている。
「うぬは鶴松の代ではいい歳になるじゃろう。筆頭として、仕えてもらうつもりでおる」
そう言って僕の肩を叩く秀吉。
「私は、織田ですよ」
「反骨者が傍におる方が、鶴松にもよい薬になるじゃろうて。それに、うぬは儂の倅も同然じゃ。これからを頼みたい」
柄にもなく、秀吉の言葉を嬉しく思ってしまっている自分が居た。
もう既に豊臣の配下だ。その中でも、筆頭として扱ってもらえる。そして真の天下取りに加われる。この誘いがどれ程のものか。
「まあ、返事などいらぬ。まだ鶴松に譲るには早いからのう。じゃが、そろそろうぬも所領が欲しかろう。美濃はどうじゃ? うぬの親父殿と同じ地から始めるのは。秀勝にくれてやる手筈じゃが、彼奴は来年は忙しくなるからのう。恒興の倅が今はおるが、城替えで秀勝が入る岐阜城。まずはそこで励め」
「私が、一国一城を」
「儂から見れば一国の中の一つの地じゃ。別になーんとも思わん。これから領地なぞ腐るほど増えるからのう」
秀吉の言う話。日ノ本平定のその先。つまりは……
「秀勝様は、海向こうに攻め入られる、と?」
「おお! そうじゃ鋭いのう。これから肥前国に城を建てる。そこを拠点に、朝鮮へと攻め入る。一歩を踏み出したのならすぐに二歩目を踏み出さねばのう」
なぜあんな場所に、と思っていた肥前の築城。それはこの為だったのか。
この人は、なんて大きな人なのだろうか。
あれ程恨んでいたのが、ひどく小さな事に思えてしまっていた。
視点が、視野が、唯人のものではない。
「朝鮮の次は唐じゃ。あそこは途轍もなく広い。骨が折れるぞ」
欄々と目を輝かせる秀吉の熱に、浮かされそうだ。
「唐を越え絹の道を越え、南蛮の国も全てを平らげる。伴天連共が捧げる珍品も全てが儂の物となる」
「それが、秀吉様の志、でございますか」
「おう、そして儂が手にした全てを、鶴松に受け継がせる。豊臣は千年、万年の繁栄を得るじゃろう」
震えた。
体ではない、心が、だ。
「まだ儂がここに来れる内に、うぬに話しておきたかった。じきに慌ただしくなる。まあ、美濃の一国程度軽く治めてみせよ。そこでうぬの実力を見るでな」
「はっ」
勢いよく手をつき頭を下げる。
秀吉に、真の臣従の意を見せるのは、この時が初めてだった。
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下剋上の戦国時代、九州では“大友・龍造寺・島津”三つ巴の戦いが続いている。
大友家を支えるのが、足が不自由にもかかわらず、輿に乗って戦い、37戦常勝無敗を誇った“九州一の勇将”立花道雪と高橋紹運である。立花道雪は1人娘の誾千代姫に家督を譲るが、勢力争いで凋落する大友宗麟を支える為に高橋紹運の跡継ぎ統虎(立花宗茂)を婿に迎えた。
女城主として育てられた誾千代姫と統虎は激しく反目しあうが、父立花道雪の死で2人は強く結ばれた。
だが、立花道雪の死を好機と捉えた島津家は、九州制覇を目指して出陣する。大友宗麟は豊臣秀吉に出陣を願ったが、島津軍は5万の大軍で筑前へ向かった。
その島津軍5万に挑んだのが、高橋紹運率いる岩屋城736名である。岩屋城に籠る高橋軍は14日間も島津軍を翻弄し、最期は全員が壮絶な討ち死にを遂げた。命を賭けた時間稼ぎにより、秀吉軍は筑前に到着し、立花宗茂と立花城を救った。
島津軍は撤退したが、立花宗茂は5万の島津軍を追撃し、筑前国領主としての意地を果たした。豊臣秀吉は立花宗茂の武勇を讃え、“九州之一物”と呼び、多くの大名の前で激賞した。その後、豊臣秀吉は九州征伐・天下統一へと突き進んでいく。
その後の朝鮮征伐、関ヶ原の合戦で“立花宗茂”は己の仁義と意地の為に戦うこととなる。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
信忠 ~“奇妙”と呼ばれた男~
佐倉伸哉
歴史・時代
その男は、幼名を“奇妙丸”という。人の名前につけるような単語ではないが、名付けた父親が父親だけに仕方がないと思われた。
父親の名前は、織田信長。その男の名は――織田信忠。
稀代の英邁を父に持ち、その父から『天下の儀も御与奪なさるべき旨』と認められた。しかし、彼は父と同じ日に命を落としてしまう。
明智勢が本能寺に殺到し、信忠は京から脱出する事も可能だった。それなのに、どうして彼はそれを選ばなかったのか? その決断の裏には、彼の辿って来た道が関係していた――。
◇この作品は『小説家になろう(https://ncode.syosetu.com/n9394ie/)』でも同時掲載しています◇
本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~
bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。
戦国終わらず ~家康、夏の陣で討死~
川野遥
歴史・時代
長きに渡る戦国時代も大坂・夏の陣をもって終わりを告げる
…はずだった。
まさかの大逆転、豊臣勢が真田の活躍もありまさかの逆襲で徳川家康と秀忠を討ち果たし、大坂の陣の勝者に。果たして彼らは新たな秩序を作ることができるのか?
敗北した徳川勢も何とか巻き返しを図ろうとするが、徳川に臣従したはずの大名達が新たな野心を抱き始める。
文治系藩主は頼りなし?
暴れん坊藩主がまさかの活躍?
参考情報一切なし、全てゼロから切り開く戦国ifストーリーが始まる。
更新は週5~6予定です。
※ノベルアップ+とカクヨムにも掲載しています。
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
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