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飛空の章
第二十二話 心の救い
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寺の境内は、ひどく静かだった。
風に揺らされた草木の擦れる音が大きく思えるほどに、塀に囲まれた一角は別の世界のように感じられる。
土間には小さな子どもが三人、並んで膝を抱えて座っていた。若い僧が素焼きの椀に白粥を盛り、順に与えていく。
子どもらは汚れた袖で口を拭いながらも、夢中で口に運んだ。
脇には親らしき女が俯いて並び、終始頭を上げぬままに合掌している。
目をやれば、門前にはもう十を超える人々が腰を下ろし、次の施しを待っていた。
「これを、日々繰り返しておるのですか」
秀信は、脇に立つ僧に問いかけた。
老僧は黙礼し、皺深い口元にわずかな笑みを浮かべる。
「はい。托鉢で得た米や野菜を、できるだけ多くの方に行き渡るように工夫しておりまする。飢えに苦しむ民は、ただ食を得るためにここに集うのではありません。仏の御前で合掌し、来世の救いを信じる事で、心の安らぎを得て帰ってゆくのです」
「今を生きるために、死後の救いを拠り所としている……か」
「そうでございます。皆にとって、来世の極楽はただの戯言ではござりませぬ。今が苦しいほどに、いつか必ず報われると信じる他ないのでしょう」
老僧はこの寺の住職であり、丸められた紙のように皺だらけの顔は、常に変わらぬ微笑みを湛えている。
「……無念ではないのですか。現を救えぬ事は」
そう問うと、老僧は目を伏せ、静かに息を吐いた。
「無念にございます。ですが我ら僧は、仏に仕える身。人の苦悩を共に抱き、少しでも軽くする事が役目でございましょう。我らは己を慎み、他者を思いやる事。そうして人は、御仏に救われるのです」
老僧の言葉の全てを納得できるものではない。しかし、妙な説得力を感じられた。
それと共に、己らの在り方を疑問に思う。どうして、この僧たちのように在れないのか。
「我らでは、こうした民を救うことができぬ。我らは、ただ苦しめるのみだ」
「それは、生き方がそのようになってしまったに過ぎませぬ。人には、それぞれに役割がございます。織田様は決して民を苦しめるためのみに生きているわけではないと、私は思います。現に、こうしてお心を痛めておられる」
「それだけだ。それ以上の事が、できていない」
「徳とは何でございましょうか。金銭を積み上げる事でしょうか。腐るほどに施しを与える事でしょうか。私は、そうは思いません」
一拍の時を置き、再び口を開く。
「徳とは”真心”だと思うのです」
「――真心」
「真の心を他者に与える事こそ、徳となると思っております。故に、一心に御仏に祈りを捧げる事も、窮した民に僅かでも助けの手を伸ばす事も、そして他者を想い、心を痛める事も……全て偽りがなければ”真心”であり、それこそが、御仏が今世の人々に求める”徳”となるのです」
「……私には、まだまだ理解に至れぬ域の話だ」
そう言うと老僧は笑みを浮かべ、こちらの右手を取り、両の手で包み込んだ。
「織田様はお若い。ですが、既に真心をお持ちであられる。これから先きっと、多くの事を学び、得て、失うでしょう。そうして一つ、己の生に答えを得るのです。焦ることもありますまい」
老僧の手は堅く、冷たかった。それであるのに何故か暖かさを感じられ、奇妙なものだった。
「今後も、時折訪れてもよろしいでしょうか」
「ええ、それはもう。この老骨の話相手になってくだされ」
包む手に左手を乗せると、老僧は嬉しそうに頷いた。
寺を出ると、綱家と長政が着いてきた。
「少しだけだが、寺の役割というものが分かった気がする」
二人は答えない。だが、それが答えだとも思えた。
「領内の寺院を保護しよう。全ての僧があの住職のようではないかもしれない。それでも、彼らに民の希望を託してみたい」
「直ちに手配致しまする」
馬に跨りながら、寺の方を見る。
静謐に包まれたあの場所は、心地よさと共にどこか恐ろしさもあった。
「あんな場所を、焼いたのか」
小さな呟きを向けた先は、己の影。
微かに歪んだ影は、どこか嗤っているようだった。
◆
城へ戻ると、居室に秀則が来た。
「兄上、どうだった? 僧の話は」
「……思ったよりもずっと、人を強く支えているものだな。飢えた者に粥を与えるだけでなく……多分、もっと深く、心まで救っていた」
「兄上が宗教の話を真剣にするなんて、聚楽第にいた頃には想像もつかなかったな」
「おい」
揶揄する弟を一瞥し、秀信はすぐに視線を前へ戻した。
「死後に救いを求めてしまうのは、どうにも哀しい事のようにも思えてしまうがな」
「そうじゃないよ、兄上。罪を……今を精一杯に生きてこそ、死後に救いがあると思うものだ」
今言いかけた言葉。恐らくは――
「秀則、このひと月と少しで思ったが、お前の考え方は仏教のそれではないな?」
「そんなことは……いや……うん」
「左近か」
「いや、左近は……どちらかと言うと、太兵衛殿の影響だ」
橋本太兵衛――確か、親の代からの生粋の切支丹だったか。
「兄上、お願いがある。伴天連や切支丹を追い出さないで欲しい」
「お前がすぐに来た理由はそれか。寺院についての扱いを聞いたんだな?」
「うん……」
開口一番、僧の話を聞こうとした事のはそう言う事か。
長政あたりから、仏教の保護についての話を聞いたのだろう。そうなると秀吉の嫌う伴天連に対して、俺も同じ方針を取りかねないと危惧したのだろう。
「追い出すつもりはないよ。ただ、あまり多くの宗派が乱立するのは良くない。何よりも、切支丹と仏教では水と油ではないのか?」
「違う部分は多くあるけど、でも、僕は神の教えにも正しさがあると思ってる。人の心を救う教えなのは変わらない」
「お前は、救われたか?」
「……僕には、こっちの方が合ってるとすら思える」
思っていたよりも、心を傾け過ぎているようだ。弟の変化は、ここにもあったか。
「秀則、橋本太兵衛と左近を呼んで来い。話してみたい」
「兄上、まさか……」
「心配するな。単なる興味だ」
「それならいいけど……」
◆
程なくして、秀則が二人を伴って現れた。
「急に呼び出してすまなかったな。まあ座ってくれ」
「それでは……」
三人と相対するようにして座り、表情を見る。
秀則と左近はどこか不安そうだが、真中の太兵衛は堂々としたものだった。
「今日、領内の寺院の保護を決めた。明日にでも通達が回るだろう」
「それは……善きことと存じます」
「仏の教えとは、衆生の者を救っているのだな。俺は感銘を受けたよ」
すると、太兵衛が口を開く。
「殿。民は苦しみの中でこそ、神や仏に縋ります。……これは、我ら切支丹も同じでございます」
「十字の神、か」
「はい。私の父は南蛮商人から神の話を聞き、その教えに深く心を打たれました。戦で家を焼かれ、多くの親族を失った時も、『皆神の国で待っている』と信じる事ができたからこそ、こうして生き延びられたと申しておりました」
「……太兵衛にとって、神は救いだったのか?」
その問いに、太兵衛は真っすぐにこちらを見据える。
「救いでございます。生きる事自体が苦しい時、死して終わるのではなく、その先に神が迎えてくれると信じられるのは、何よりの慰めです」
その横から、左近も話に入ってきた。
「私も同じです。切支丹となって、心が澄んだ気がしました。……無論、罪を重ねている身ではありますが」
「罪?」
「人を斬り、血を浴びてなお神を信じるのは罪深い事でしょう。ですが神は、罪を告白し、懺悔すれば必ず赦してくださると……そう教わりました」
”罪”という概念は、ある。ただそれは、戦の時は全てが無きものとして扱われる。
ほとんどは、村民や町民同士での諍いを咎めるための統治の道具として使われているものだ。殿が無礼を働いた家臣や家内の者を切腹に処しても、誰も文句を言わない。
命は重いが、軽い。それは、俺も感じている事だった。
「我ら切支丹には、戒律というものがございます。それは人が人として真っすぐに歩くための、道しるべであると考えております」
改めて、太兵衛が語る。
「そして道から外れたとしても、その罪を認め、贖うことができれば、再び正道を歩むことができる。それが、神の教えでございます」
「そうすれば、極楽浄土に行けると?」
「天の国でございます、殿。そして……こう言っては無礼と思われますが、切支丹以外の者は、神はお救いにならない」
「……その考えは、狭いな」
仏教との違いは、その線引きかもしれない。だからこそ切支丹同士の結束が強いのかもしれないが。
「兄上は、仏教や神道だけでは飽き足らず、切支丹の話まで真剣に聞くとはな。どこまで寛容なお殿様なんだか」
秀則の茶化すような言葉に、軽く肩を小突く。
「やかましい。……だが、興味はある。民を支えるものが宗教ならば、俺もそれを知っておくべきだからな」
「それだけじゃない、って顔してるよ、兄上」
弟に見透かされ、僅かに視線を逸らした。
◆
それから秀信は、太兵衛を通じて小さな礼拝堂へ幾度か足を運んだ。
太兵衛が師と仰ぐ宣教師達に会うためだ。
中でもオルガンティノと名乗る老いた宣教師の話は、訥々としていながらも芯を穿ったものであり、心を動かされるほどに衝撃を受けた。
信長や秀吉と縁があり、信長の孫である事を話すと当時の話を色々と聞かせてくれて、この南蛮人をいつしか好きになっていた。
慈愛に満ちており、あの老僧とも近しい雰囲気を感られる。
最初こそ疑いの心を持って礼拝堂へと行ったものだが、中に居る様々な身分の者たちと話をすると、己の見識の狭さを改めて思い知った。
この場では織田家の当主であるという事を束の間忘れさせてくれるもので、信徒たちは神の前では皆平等であるという思想の下、接しているらしい。
それがまた、心地のよいものだった。今まで自分と接する者は、上か下かでしか見られていなかったから。
人としての礼を逸しない限り、この場では同じ立場で話ができる。
それが、堪らなく嬉しかった。
◆
燭台の明かりが揺れ、マリア像の影が石壁に大きく映し出されている。
年が明けた文禄四年二月。
人々が寝静まった岐阜城下にて、秀則、太兵衛、左近、それに僅かな小姓だけが共にいる。人目を憚り、外には厳重な見張りを置いた。
神父がラテン語で祈りを唱えると、秀信は両手を組み、静かに頭を垂れた。
冷たい水が額を撫で、心臓がひどく速く打つ。
「――ペトロ」
神父はそう名を授け、再び祈る。
秀信は目を閉じたまま、僅かに唇を動かした。
……仏も、神も、在るのならば……どうかこの国と、民を守ってくれ。
太兵衛がそっと十字架を差し出した。
秀信はそれを胸に当てると、ゆっくりと深く息を吐いた。
「これが救いになるのか、それともまた新たな重荷となるのか……」
呟きは誰に届くでもなく、小さく礼拝堂に溶けていった。
この夜、織田秀信は弟の秀則と共に、神の信徒となったのだった。
風に揺らされた草木の擦れる音が大きく思えるほどに、塀に囲まれた一角は別の世界のように感じられる。
土間には小さな子どもが三人、並んで膝を抱えて座っていた。若い僧が素焼きの椀に白粥を盛り、順に与えていく。
子どもらは汚れた袖で口を拭いながらも、夢中で口に運んだ。
脇には親らしき女が俯いて並び、終始頭を上げぬままに合掌している。
目をやれば、門前にはもう十を超える人々が腰を下ろし、次の施しを待っていた。
「これを、日々繰り返しておるのですか」
秀信は、脇に立つ僧に問いかけた。
老僧は黙礼し、皺深い口元にわずかな笑みを浮かべる。
「はい。托鉢で得た米や野菜を、できるだけ多くの方に行き渡るように工夫しておりまする。飢えに苦しむ民は、ただ食を得るためにここに集うのではありません。仏の御前で合掌し、来世の救いを信じる事で、心の安らぎを得て帰ってゆくのです」
「今を生きるために、死後の救いを拠り所としている……か」
「そうでございます。皆にとって、来世の極楽はただの戯言ではござりませぬ。今が苦しいほどに、いつか必ず報われると信じる他ないのでしょう」
老僧はこの寺の住職であり、丸められた紙のように皺だらけの顔は、常に変わらぬ微笑みを湛えている。
「……無念ではないのですか。現を救えぬ事は」
そう問うと、老僧は目を伏せ、静かに息を吐いた。
「無念にございます。ですが我ら僧は、仏に仕える身。人の苦悩を共に抱き、少しでも軽くする事が役目でございましょう。我らは己を慎み、他者を思いやる事。そうして人は、御仏に救われるのです」
老僧の言葉の全てを納得できるものではない。しかし、妙な説得力を感じられた。
それと共に、己らの在り方を疑問に思う。どうして、この僧たちのように在れないのか。
「我らでは、こうした民を救うことができぬ。我らは、ただ苦しめるのみだ」
「それは、生き方がそのようになってしまったに過ぎませぬ。人には、それぞれに役割がございます。織田様は決して民を苦しめるためのみに生きているわけではないと、私は思います。現に、こうしてお心を痛めておられる」
「それだけだ。それ以上の事が、できていない」
「徳とは何でございましょうか。金銭を積み上げる事でしょうか。腐るほどに施しを与える事でしょうか。私は、そうは思いません」
一拍の時を置き、再び口を開く。
「徳とは”真心”だと思うのです」
「――真心」
「真の心を他者に与える事こそ、徳となると思っております。故に、一心に御仏に祈りを捧げる事も、窮した民に僅かでも助けの手を伸ばす事も、そして他者を想い、心を痛める事も……全て偽りがなければ”真心”であり、それこそが、御仏が今世の人々に求める”徳”となるのです」
「……私には、まだまだ理解に至れぬ域の話だ」
そう言うと老僧は笑みを浮かべ、こちらの右手を取り、両の手で包み込んだ。
「織田様はお若い。ですが、既に真心をお持ちであられる。これから先きっと、多くの事を学び、得て、失うでしょう。そうして一つ、己の生に答えを得るのです。焦ることもありますまい」
老僧の手は堅く、冷たかった。それであるのに何故か暖かさを感じられ、奇妙なものだった。
「今後も、時折訪れてもよろしいでしょうか」
「ええ、それはもう。この老骨の話相手になってくだされ」
包む手に左手を乗せると、老僧は嬉しそうに頷いた。
寺を出ると、綱家と長政が着いてきた。
「少しだけだが、寺の役割というものが分かった気がする」
二人は答えない。だが、それが答えだとも思えた。
「領内の寺院を保護しよう。全ての僧があの住職のようではないかもしれない。それでも、彼らに民の希望を託してみたい」
「直ちに手配致しまする」
馬に跨りながら、寺の方を見る。
静謐に包まれたあの場所は、心地よさと共にどこか恐ろしさもあった。
「あんな場所を、焼いたのか」
小さな呟きを向けた先は、己の影。
微かに歪んだ影は、どこか嗤っているようだった。
◆
城へ戻ると、居室に秀則が来た。
「兄上、どうだった? 僧の話は」
「……思ったよりもずっと、人を強く支えているものだな。飢えた者に粥を与えるだけでなく……多分、もっと深く、心まで救っていた」
「兄上が宗教の話を真剣にするなんて、聚楽第にいた頃には想像もつかなかったな」
「おい」
揶揄する弟を一瞥し、秀信はすぐに視線を前へ戻した。
「死後に救いを求めてしまうのは、どうにも哀しい事のようにも思えてしまうがな」
「そうじゃないよ、兄上。罪を……今を精一杯に生きてこそ、死後に救いがあると思うものだ」
今言いかけた言葉。恐らくは――
「秀則、このひと月と少しで思ったが、お前の考え方は仏教のそれではないな?」
「そんなことは……いや……うん」
「左近か」
「いや、左近は……どちらかと言うと、太兵衛殿の影響だ」
橋本太兵衛――確か、親の代からの生粋の切支丹だったか。
「兄上、お願いがある。伴天連や切支丹を追い出さないで欲しい」
「お前がすぐに来た理由はそれか。寺院についての扱いを聞いたんだな?」
「うん……」
開口一番、僧の話を聞こうとした事のはそう言う事か。
長政あたりから、仏教の保護についての話を聞いたのだろう。そうなると秀吉の嫌う伴天連に対して、俺も同じ方針を取りかねないと危惧したのだろう。
「追い出すつもりはないよ。ただ、あまり多くの宗派が乱立するのは良くない。何よりも、切支丹と仏教では水と油ではないのか?」
「違う部分は多くあるけど、でも、僕は神の教えにも正しさがあると思ってる。人の心を救う教えなのは変わらない」
「お前は、救われたか?」
「……僕には、こっちの方が合ってるとすら思える」
思っていたよりも、心を傾け過ぎているようだ。弟の変化は、ここにもあったか。
「秀則、橋本太兵衛と左近を呼んで来い。話してみたい」
「兄上、まさか……」
「心配するな。単なる興味だ」
「それならいいけど……」
◆
程なくして、秀則が二人を伴って現れた。
「急に呼び出してすまなかったな。まあ座ってくれ」
「それでは……」
三人と相対するようにして座り、表情を見る。
秀則と左近はどこか不安そうだが、真中の太兵衛は堂々としたものだった。
「今日、領内の寺院の保護を決めた。明日にでも通達が回るだろう」
「それは……善きことと存じます」
「仏の教えとは、衆生の者を救っているのだな。俺は感銘を受けたよ」
すると、太兵衛が口を開く。
「殿。民は苦しみの中でこそ、神や仏に縋ります。……これは、我ら切支丹も同じでございます」
「十字の神、か」
「はい。私の父は南蛮商人から神の話を聞き、その教えに深く心を打たれました。戦で家を焼かれ、多くの親族を失った時も、『皆神の国で待っている』と信じる事ができたからこそ、こうして生き延びられたと申しておりました」
「……太兵衛にとって、神は救いだったのか?」
その問いに、太兵衛は真っすぐにこちらを見据える。
「救いでございます。生きる事自体が苦しい時、死して終わるのではなく、その先に神が迎えてくれると信じられるのは、何よりの慰めです」
その横から、左近も話に入ってきた。
「私も同じです。切支丹となって、心が澄んだ気がしました。……無論、罪を重ねている身ではありますが」
「罪?」
「人を斬り、血を浴びてなお神を信じるのは罪深い事でしょう。ですが神は、罪を告白し、懺悔すれば必ず赦してくださると……そう教わりました」
”罪”という概念は、ある。ただそれは、戦の時は全てが無きものとして扱われる。
ほとんどは、村民や町民同士での諍いを咎めるための統治の道具として使われているものだ。殿が無礼を働いた家臣や家内の者を切腹に処しても、誰も文句を言わない。
命は重いが、軽い。それは、俺も感じている事だった。
「我ら切支丹には、戒律というものがございます。それは人が人として真っすぐに歩くための、道しるべであると考えております」
改めて、太兵衛が語る。
「そして道から外れたとしても、その罪を認め、贖うことができれば、再び正道を歩むことができる。それが、神の教えでございます」
「そうすれば、極楽浄土に行けると?」
「天の国でございます、殿。そして……こう言っては無礼と思われますが、切支丹以外の者は、神はお救いにならない」
「……その考えは、狭いな」
仏教との違いは、その線引きかもしれない。だからこそ切支丹同士の結束が強いのかもしれないが。
「兄上は、仏教や神道だけでは飽き足らず、切支丹の話まで真剣に聞くとはな。どこまで寛容なお殿様なんだか」
秀則の茶化すような言葉に、軽く肩を小突く。
「やかましい。……だが、興味はある。民を支えるものが宗教ならば、俺もそれを知っておくべきだからな」
「それだけじゃない、って顔してるよ、兄上」
弟に見透かされ、僅かに視線を逸らした。
◆
それから秀信は、太兵衛を通じて小さな礼拝堂へ幾度か足を運んだ。
太兵衛が師と仰ぐ宣教師達に会うためだ。
中でもオルガンティノと名乗る老いた宣教師の話は、訥々としていながらも芯を穿ったものであり、心を動かされるほどに衝撃を受けた。
信長や秀吉と縁があり、信長の孫である事を話すと当時の話を色々と聞かせてくれて、この南蛮人をいつしか好きになっていた。
慈愛に満ちており、あの老僧とも近しい雰囲気を感られる。
最初こそ疑いの心を持って礼拝堂へと行ったものだが、中に居る様々な身分の者たちと話をすると、己の見識の狭さを改めて思い知った。
この場では織田家の当主であるという事を束の間忘れさせてくれるもので、信徒たちは神の前では皆平等であるという思想の下、接しているらしい。
それがまた、心地のよいものだった。今まで自分と接する者は、上か下かでしか見られていなかったから。
人としての礼を逸しない限り、この場では同じ立場で話ができる。
それが、堪らなく嬉しかった。
◆
燭台の明かりが揺れ、マリア像の影が石壁に大きく映し出されている。
年が明けた文禄四年二月。
人々が寝静まった岐阜城下にて、秀則、太兵衛、左近、それに僅かな小姓だけが共にいる。人目を憚り、外には厳重な見張りを置いた。
神父がラテン語で祈りを唱えると、秀信は両手を組み、静かに頭を垂れた。
冷たい水が額を撫で、心臓がひどく速く打つ。
「――ペトロ」
神父はそう名を授け、再び祈る。
秀信は目を閉じたまま、僅かに唇を動かした。
……仏も、神も、在るのならば……どうかこの国と、民を守ってくれ。
太兵衛がそっと十字架を差し出した。
秀信はそれを胸に当てると、ゆっくりと深く息を吐いた。
「これが救いになるのか、それともまた新たな重荷となるのか……」
呟きは誰に届くでもなく、小さく礼拝堂に溶けていった。
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