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侵攻 3

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 戦場で働く“勘”というものがある。
 自軍が敗走するという目に見えるものであればわかりやすい。
 だが、往々にしてそれは、前触れなく鳥が集団で空を舞った時や、劣勢であるのに攻撃に勢いが増したといった、感覚でしか測れない何かなのだ。

「命を恐れないってのは怖いねー」

 敵の攻勢は徐々に強くなっていた。
 シルキスは目に入りかけた汗をすばやくぬぐった。戦い始めてまだ三十分程度だろうか。学園の守備隊は疲弊していた。
 ダンドロンが魔蟲を使って陣を敷いたところまでは優勢だった。
 巨大な蟲の背に隠したセーフゾーンで兵が入れ替わり、MPやHPを回復させながら、再度敵に立ち向かう。
 アルシュナの代わりはリリアーヌが果たした。
 さすがは次期王女と呼べる活躍だ。
 機動力でシルキスが混乱させ、補助から移動阻害までの幅広い支援をダンドロンが行い、リリアーヌが大魔法を落とす。
 戦術は綺麗に決まっていた。
 しかし、敵は異形のモンスター軍団だ。
 感情に左右される帝国軍ではない。
 メラン家の軍を抜けてくる狼は増え、その動きもこちらの戦術を見越したものに変わった。

「ここらで食い止めないと、崩れるねー」

 シルキスはちらりと屋上に視線を向けた。
 ダンドロンも同じことを考えていたのだろう。鷲鼻の上に覗く瞳が厳しい。
 隣に立つリリアーヌはふらふらだ。
 すでにスキルで強化した大魔法を五発。多数の狼を吹き飛ばしたが、まったくひるむ気配はない。
 左前方では、モニカが肩で息をしている。縛っていた髪がほどけ、首に金髪が張り付いていた。
 彼女のサポートにべったり入っているカルナリアの動きも落ちている。大中小の三本の剣のうち、最も使い慣れた真ん中の剣を失ったことがそれに拍車をかけた。

「一体、どれだけいるのやら。そんなにうちが憎いのかい」

 そう言ったシルキスの体がぶれた。
 <瞬動術>だ。数メートル移動した先には、彼を見失った狼が無防備に立っている。
 炎を纏う手刀を首元に突き刺す――はずが、狼はバックステップで後方に跳んだ。
 すでに何度も見せた手だ。
 シルキスの姿が消えれば、距離を取ればいいと知られている。

「学習能力はほんと高いんだから。普通のモンスターじゃないねー。っと……ここで戦力強化ですか」

 こめかみに冷や汗が流れた。嫌な流れに口が歪む。
 姿を見せたのは、今までより一回り大きな狼だ。圧倒的な存在感に場が静まり返った。
 四つの瞳はどう猛さを漂わせ、場の兵を睥睨する。爪も牙も巨大だ。
 まずい。
 気圧された兵を確認し、シルキスが先陣を切った。

 ――暴れられると、ぎりぎりの防衛線が崩れる。

 危険な予感を胸に、なけなしのMPを使って拳と足を強化した。巨大な狼の死角、右足の後ろに跳んだ。
 正面突破は厳しそうだ。まずは機動力を削ぐ。
 炎の手刀を足の健に撫でるように当てた。
 その瞬間だった。
 巨狼がこまを回すように半回転する。動きの速度はシルキスの想像を遥かに超えていた。
 はっ、と気づいたと同時に、ハンマーのような前足が体の側面を打った。
 かろうじて右腕で顔を守る。しかし、抗いがたい衝撃と、意識を断ち切らんとする振動はどうしようもない。
 直線上にいた味方と狼を巻き込み、派手な音を立てて訓練場を転がった。

「仲間とか気に……しない……わけね」

 シルキスが呆れながら大量の血を吐いた。
 誰もが視線を縫い付けられた。戦場を高速で動きながらサポートしていた人間が止まったのだ。
 何とか立ち上がろうとする彼に、数人の味方が駆け寄ろうと反転する。
 だが、それを巨狼は許さない。
 弄ぶように背後から踏みつけ、ためらうことなく頭部に牙を立てた。
 ぐしゃりと骨の砕ける音。
 巨狼は喜悦を浮かべて笑った。
 駆け寄ろうとした味方の足が止まる。
 シルキスはごろりと仰向けになって言った。

「力の見せ方をよくわかってるねー」

 重い振動音を響かせ、巨狼が近寄る。誰が一番の邪魔者かをすでに知っている顔だ。
 ――これを潰せば、敵は終わりだ。
 そう言っているように見えた。
 だが、それを良しとしない者がいた。
 白い鎧にクレイモアを構えた少女が立ちふさがった。

「これ以上は、やらせないわ」

 同時に、渾身の力を込めた声が、屋上で響いた。

「炎よ。悠遠の時の中、変わらぬ煌めきよ。眼前にあるは災禍なり――」

 青白い顔のリリアーヌが杖を構えていた。
 ダンドロンに肩を借り、仇を見るような瞳を向けていた。

「離れます」

 意識を奪われた巨狼の隙をついて、モニカが動いた。倒れ伏すシルキスを無理やり背負い、場を離れる。

「リリアーヌは……まだ撃てるのかい?」

 唇の端から血を流すシルキスが小声で問いかける。
 モニカはきっぱり言った。

「撃てます。ここで撃たなきゃ国王になれません」
「それは、どんな理屈だい?」

 シルキスは苦笑を浮かべてせき込んだ。肋骨と右腕が完全に折れていた。
 たった一撃でこのざまかと、嫌になった。

「決めてくれよ」

 シルキスは力を振り絞って、小声で呪文を唱えて<風魔法>を使用した。一瞬だが、巨狼の足を止めるだろう。
 リリアーヌの魔法を当てるためなら、自分のMPなど使い果たして良い。
 が――

「リリアーヌ、逃げてっ!」

 突然の金切り声が響いた。背負われたシルキスは、声の主に最初に気づいた。
 モニカだ。
 彼女の体は一気に強張った。ありったけの声が、彼の体を通して戦場に響いた。

「そんなっ」

 痛みをこらえて向けた視線の先。屋上に立つ二人の上に、何かが降ってきていた。
 それは、巨大な岩の塊だった。
 悲痛な叫びにリリアーヌは気づいていない。
 シルキスは、まさかと思って首を回した。
 巨狼が嗤っていた。額には金に輝く瞳が一つ増えている。
 ぞくりと背筋が震えた。

「リリアーーヌーーーっ!」

 モニカは叫んだ。何度も叫んだ。
 だが無情にも、二人の頭上に影が舞い降りた。
 先に気づいたダンドロンの顔が歪む。呪文を唱え続けるリリアーヌを押し倒すと、上に覆いかぶさった。
 巨狼の唸り声が響き――学園の建物は岩の落下を受けて崩壊した。


 ***


「リ……リ……アーヌ……」

 モニカが瞳に涙をためて崩れ落ちた。シルキスも沈痛な面持ちで息を呑む。
 狼たちが勢いづいた。
 高笑いするような遠吠えがあちこちで生じ、残った兵の動きが乱れる。
 誰もが単純な噛みつきに腕をやられ、弄ぶように爪を立てられた。

「しっかりしろ、モニカ!」

 離れた場所で狼に跳びかかったカルナリアが気勢を上げた。

「まだ死んでない、助けに行けっ! あいつはここで死ぬ人間じゃない。陛下の跡継ぎだぞ! 簡単に死んでたまるか!」

 矢継ぎ早に怒鳴る彼女は、狼の間を縫いながらモニカの方向に必死に近づいてくる。
 長い大剣を巧みに操り、懐に飛び込む狼の目を狙って、短剣を挿しこむ。
 声がだんだん近くなった。

「付き人が最初に諦めてどうするっ! お前は王の敵を切る剣だ! 誰よりも最後まで戦うべき人間だ! それを知ってるから、サナトはお前に武器を与えたんあろうが!」

 カルナリアが、「邪魔だ!」と叫んで、進路を阻む狼を蹴り飛ばした。
 剣術も技もない、ただの打撃だ。
 しかし、味方にとっては何より心強かった。

「いけっ、モニカ! 私が巨狼の相手をしてやる」
「先生……」
「ばか、さっさと行けと言ってるだろ! 立ち止まるな!」

 カルナリアはシルキスを降ろさせ、モニカの鎧を剣の柄でがんがん叩く。
 今にも蹴り飛ばしそうな勢いだ。
 モニカが走り出した。
 カルナリアがわずかに微笑み、すぐに表情を引き締めた。

「どれくらい戦えます?」

 地面に座るシルキスが、その問いに笑う。

「カルナリア先生のご要望の通りに」
「それなら、巨狼の足を止めてください」
「はいはい。理事使いが荒いことだねー」
「私より給金が高いのですから、がんばってください」

 シルキスが「よっこらしょ」と胸を押さえて立ち上がる。右腕は使い物にならないうえ、呼吸もうまく行えない。
 しかし、その表情に悲愴感はない。

「作戦は?」
「シルキス理事が足止めして私が斬る。以上です」
「単純明快で口を挟む隙もないねー」
「離れると岩が降ってきますし、小細工も通用しなさそうなので」
「もしも剣が通用しなかったら?」
「もしも?」

 カルナリアが嫌そうに眉を寄せる。

「勝ち負けのあとを『もしも』で語るのは政治だけで十分です。私たちは、ただ斬るのみ。負けたら死ぬだけです」
「そうか……しょうもないことを聞いたね」
「では、行きますよ。敵はこっちを舐め切っているので、まずはすかした面に一撃を当てましょう」
「了解」

 カルナリアが狼に負けず劣らず凶暴な表情を浮かべる。それは、冒険者としてギルドの裏方として、長年戦ってきた彼女の姿だった。
 シルキスが続いて立ち上がった。
 そんな時だった。


 ***


 半壊した学園が、音を立ててさらに崩れた。
 近づこうとしたモニカが足を止めた。
 がれきの下にはモニカとダンドロンが埋まっているのだ。もしこれ以上崩れたら。
 激しく音を立てる心臓に手を当て、まだ大丈夫、と言い聞かせて走った。

「えっ……」

 視線の先で、がれきが持ち上がった。
 ふわりと空中に浮かぶ山のような破片は、次の瞬間、まったく別方向に飛んでいった。
 呆気に取られるモニカの視界で、何かが動いた。
 大きい。山が動いたようだ。
 ぬっと長い首が突き出た。
 いつの間にか、途方もない黒い渦ができあがっていた。
 黒い顔、鋭利な爪、すべてを覆える巨大な体。
 ――想像すらできないサイズの黒竜が戦場に現れた。


 ***


「しっかりしろ、二人とも。そして、さっさと場を離れろ。巻き込むぞ」

 黒竜は低い声でリリアーヌとダンドロンに告げた。二人の真上には規格外の羽が広げられていた。

「竜?」

 リリアーヌがよろよろと立ち上がって見上げた。
 茶色い瞳がぎょろりと動く。

「我はアペイロン。ただの竜ではない」
「あなたがあの黒竜……私たちを助けてくれたの?」
「それがサナトの願いだからな。それにしても――」

 アペイロンは不服そうに続ける。

「我に『救助をせよ』とはとんでもない男よ。伝説に等しい我を何だと思っておるのだ」
「……サナトさんが、私たちを?」

 呆気に取られる二人に、アペイロンが鼻を鳴らす。

「あとは任せよ。この苛立ちは、小賢しい悪魔の群れにぶつけてやろうぞ。さあ、分かったらとっとと離れよ」

 黒い翼がばさりと広がる。学園に匹敵するのではと思うほど大きい。
 言葉を失うリリアーヌの周囲に爆風が巻き起こる。アペイロンが羽ばたき始めたのだ。

「さて、まずは……あの大きなやつからだな」

 アペイロンはそう言って、宙に浮かんだ。


 ***


「そんな貧弱な攻撃が我に通じるわけがなかろう」

 訓練場に舞い降りたアペイロンは大声で笑う。足や尾に必死の形相で噛みつく狼たちだが、その歯はまったく通用しない。
 巨狼が落とす岩を首を振って叩き割り、群がる狼を尾の一振りで薙ぎ払う。

「人間を巻き込まない方が気をつかうな」

 アペイロンは止まらない。
 <神格法>で動きを止めた巨狼の胴体にかみつき、一噛みで消滅させる。
 続いて軽く息を吸い、敷地外から今も流れ込む狼に向けて、炎を吐いた。
 まるで炎の海だった。
 扇状に大地を走る溶岩が、獣を一瞬で蒸発させる。
 瞬く間に熾火のように変わった一帯を、重い足音を鳴らして踏みしめて歩く。
 万夫不当。
 並外れた頑丈な体躯に、桁違いのブレス。
 原初の黒竜の進撃を止める敵は皆無だった。

「さて、次はあっちの救助だな。おお、群れとる群れとる、木っ端悪魔どもめ。積年の恨みを存分に晴らしてくれるわ」

 アペイロンは高らかに吠える。
今にも羽ばたこうとして、足を止める。

「ふん……少しは戦える悪魔がおるようだな」

 たった今、頭の中に聞こえた声に、アペイロンはぐるりと長い首を回した。
 デポン山の方向だ。
 遠く先を見つめていたアペイロンは、「いや、まずはこちらからだな」と気を取り直してメラン家の戦場に視線を向けた。

 ディーランド王国の反攻がとうとう始まった。
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