廸子さん。

黒谷

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青野夜子のお話。

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「待っ、待って、飛ぶって、一緒にって!」
 さすがに息をのむ。
 女子高生の足取りは変わらない。
 ずんずんと、遠ざかっていたビルのふちが近くなる。
「それって、あなたも死ぬってことなのよ!」
 私の声は悲鳴に近かった。
 誰かを巻き添えにして死ぬなんて、考えたこともなかった。
(そんなの、私、まるで)
 胸が凍る。
 指先から、まるで全身が凍えていくようだ。
 冷たい。冷たい。冷たい。──不快だ。
(この子を殺すみたいじゃない!)
 冗談じゃないと思った。
 自分の命などあってないようなもので、どうでもいいものかもしれないが、他人は違う。
 ほかの誰がどうかは知らないが、私は誰かを巻き込むなんてまっぴらだった。
 けれども、どういうことだろう。
 女子高生の手を、振り切れない。
「ねえ!」
 ビルのふちに、女子高生が立つ。
 私ではない他の誰かが『そこに立っている』という光景を、目の当たりにする。
 ──心臓がざわざわした。
 自分で立ったときはなんとも思わなかった。
 けれども──そうだ。
 あのときと、私たちは今、逆の位置からそれぞれを見ているのだ。
「……待って、ごめんなさい。私が悪かった。もう死にたいなんて言わないから、あなたは──」
「あなたじゃないです」
 ぐい。
 女子高生が、私の手を引く。
 私の足が、ビルのふちにかかる。

「廸子さん、て呼んでください?」

 ──その時だった。
 がくん、と。衝撃がくる。
 女子高生の足が、ふちから外へと一歩踏み出したのだ。
 おのずと、私の体も引力に負けてふちから零れ落ちる。
「──ッ!」
 声が出なかった。
 すさまじい風圧と、すさまじい速度で迫ってくる地面。
(やだ、やだ、やだやだやだやだやだ──やだ!)
 拒絶したところで、それは変わらない。
 あっという間に地面が目の前にあって、そうして──

 ──べしゃ。

 耳に、何かが潰れたような音が。
 何かがどっと低くて鈍い音でぶつかって、潰れたような、そんな音が。
 確かに聞こえた。
 聞いた、はずだった。
「どう、して……」
 私の体は、地面にはなく。
 屋上にもなく。
 ましてや死んですらなく。
 二度と戻るまいと決めた、自分のデスクの前にあった。
 あの時から何も変わらない、山積みの書類。鳴り響く電話。貼りっぱなしの付箋。
 社員は私以外に誰もいない。
 社長はいつも定時前に帰るし、部長はそれにあやかって帰る。
 面倒なことは私たち任せで、そうだ、私の他には、もう誰もいない。
 誰も、いない。
 いつもと、おんなじである。
「ほら、だからいったでしょう」
「!」
 ばっと後ろを振り返ると女子高生がいた。
 その言葉で、私は彼女の言った『死ねない』という発言を思い出す。
「あの場所から飛んでもお姉さんはここに戻ってくるんですよ。絶対に」
「そんな……」
「だから私、お姉さんをラクにしてあげようと思って。聞いたんですよ、ご希望を」
 『どんなふうに死にたいですか?』
 あの時の言葉が、耳に響く。
 あの時はそんなひどい言葉を投げかけられる予定がなくて、そういう痛い言葉を聞きたくなくて、脳がその言葉を拒絶した。
 けれども、今は。
 その言葉の意味が、正確に理解できる。

 ころしてあげる、と。

 彼女は、そう言っているのだ。
「……私、私は……」
 らくに。
 なりたかった。
 言葉は出ない。出てこない。
 その言葉を口にしようとすると、ひどく口が重くなる。
 何かが喉の奥に詰まっている。
 その言葉が出ていかないように、何かが喉の奥にいるのだ。
 女子高生は私の言葉を待たずに、ぐいとまた、手を引く。
「らくになりたいんでしょう?」
「…………」
 こくり。
 言えない私の代わりにいってくれたその言葉に、私は頷いた。
「自由になりたいんですよね?」
 こくり。
 これもまた私の言いたかった言葉だった。
「方法なんてたくさんあるのに。お姉さんのことなんだから、お姉さんが選び放題なんですよう」
 女子高生の足は、オフィスを抜ける。
 廊下に出て、非常階段のドアを開けて、階段を上る。
 かん。かん。かん。かん。
 鉄特有の足音が響く。
 ふと真下を覗いたら、真っ暗闇が広がっていた。
 そこがない沼のように見えた。
 あれだけ綺麗だと思った夜景が、今はない。
 まるで停電でも起きたかのようだ。ひとつの明かりもないのである。
「ほら、そこにたってください」
 屋上につくと、女子高生は私の手を放した。
 そうして、また。
 屋上のふちを指す。
「でも……」
 足が震えた。
 二度は嫌だと思った。
 文字通り、あんな死ぬ思いをするのは、嫌だと体が拒絶した。
「大丈夫ですよ。ほら、あのかどに立ってください」
「……う、うん」
 とっ、と背中を押されて、足を一歩、前に踏み出す。
 女子高生が指示したとおり、屋上のふち。その角へと足を進める。
 前よりもだいぶ、足取りが重い。
 一歩、一歩とゆっくり歩くのが精いっぱいだ。
(鉛みたいだ)
 まるでぬかるみにはまったようだった。
 うまく歩けないのだ。
「どうしたんです? やっぱり、やめますか?」
 女子高生が、少し不安そうに呟いた。
 私の顔を、じ、と覗き込んでいた。
(どうして、そんな顔を)
 誰もそんな表情を浮かべてなんてくれなかった。
 誰も私をみてくれなかった。
 けれどもこの子は違う。
 この、『廸子さん』と名乗る女子高生は、違う。
「……ううん」
 頭を横に振る。
 別にこの子のためというわけではないのだけれど、私は踏ん張って、足を振り上げる。
 そうして、やっとの思いでかどに立った。
 眼下を見下ろす。
 やはり、あの時ほど綺麗だと思わなかった。
 むしろ怖いとすら思った。
 明かりはなく、広がっているのは、ただ、真っ暗な闇ばかりだ……。
「お姉さん」
 女子高生の声がする。
「どうして、泣いているんです?」
「え、あ……」
 いわれるまで気づかなかった。
 頬から、あごにかけて、涙が零れ落ちていた。
「わたし、なんで……」
「お姉さん、もしかして」
 その先の言葉を聞きたくないと思った。
 咄嗟に耳をふさごうとしたけれど、女子高生の方が早かった。

「しにたく、ないんですか?」

 心臓が、跳ねる。
 それとは対照的に、体が硬直する。
 頷けなかった。
 らくになりたかった。
 自由になりたかった。
 ──けれども。
 それは、『しにたい』ということだったのか。
「…………」
 会社でのことがよぎる。
 それ以前のことは、ここで過ごすうちもう忘れてしまった。
 今は家族の顔も思い出せなければ、その名前もぼやけてしまった。
 友達だって、いたはずだ。
 もう、だれも思い出せないけれど。
(……それでも)
 空を仰ぐ。
 それは何気ない行動だった。
 私は、目を見開いた。
「わあ……」
 そこに、すべてのあかりがあった。
 私たちの頭上を覆いつくさんばかりに、星たちが燦然とそこに在った。
「おや、星たちがいましたか」
「きれい……」
 す、と手を伸ばす。
 きらきらと。きらきらと。
 輝くそれに、手を伸ばす。
 ──そうして気づいた。
 気づいてしまった。
 女子高生を振り返らずに、私は。
 体を解かすようにゆっくりと、深呼吸して。
 こくり。と、頷いた。
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