747 / 996
750話 癒しの氷
しおりを挟む
皆が心配してくれるたびに、大丈夫だと言いながら……自分はどうだ?
診療に集中しなくてはいけないのに、気がそれて仕方がない。
考えまいとしても、頭のどこかでずっと、夏が苦しむ姿がちらつく。情けない。
専攻医のときに夏が倒れた場面が、今でも鮮明に蘇る。
あの時は体力が極端に落ちていて、痛みに耐える姿はあまりに弱々しかった。
今回は、それよりはまだ少しだけ身体が持ちこたえている。
でも腸の弱さはあまり変わらないのかもしれない。それがすごく悔しい。
診断がついたことで、点滴に腸を動かす薬が加えられた。
その影響で夏は断続的な腹痛と闘っている。
イレウスの疝痛はお腹を絞るようなつらい痛みで、陣痛と似ている。
痛みが押し寄せた時は「ハア、ハア、ああっ……」と眉をぎゅっと寄せ、口を開けて呼吸を逃がす姿が浮かぶ。
腸の回復の妨げになるので痛み止めは使えない。
10時。まるで反射のように俺は診察室を出る。
一刻も早く夏のそばに行きたい。足を速めた。
俺が帰宅すると、待ち構えていたように莉子が声を上げた。
「夏がすごく痛がってるよ。なんとかしてあげられないの?」
その目は赤く潤んでいて、こらえきれない不安が滲み出ていた。
そばで見守ることしかできない苦しさ……それもつらい。
「うん、わかってるよ。でも……痛み止めは使えないんだよ」
俺の答えに、莉子は唇をぎゅっと結んだ。
そのまま目を伏せて、静かに部屋を出て行った。
きっと、莉子も何度も様子を見に行ってくれたのだろう。
だから、うがいをさせることと、氷を含ませることだけを莉子に頼んだ。
本当は、おむつの交換も頼みたかった……でも、夏がそれをどれほど嫌がるか想像がついた。
それだけは頼めなかった。
台所で氷をコップに入れ4階へ急ぐ。
寝室の扉を開けると、ベッドの端で夏が横向きに丸まっていた。
海老のように身を縮め、全身で腹痛に耐えている。
「夏、来たよ。大丈夫か? 先に点滴を取り替えるね」
点滴の交換を終え、ベッド脇に腰を下ろして、苦しげな夏の頬をそっと撫でた。
指先が髪に触れると、夏はほんの少し目を開けた。
「おなかが痛い……つらい……」と涙をあふれさせた。
こめかみを伝って枕に落ちる。両手の親指で涙を拭った。
そっと首の下に手を差し入れ、抱えるようにして頭を引き寄せる。
「夏、痛いね……ごめんね。楽にしてあげられなくて……」
夏の嗚咽が止まらない。細い声で、息も絶え絶えに泣き続ける。
俺は抱きしめたまま目を閉じた。
その瞬間、夏の嗚咽が胸に染み込んでいく。心で泣いた。
それでも時間は過ぎていく。
振り切るように夏の頭をポンポンと軽く叩いた。
「夏、ちょっと顔を拭いてあげるよ」
30分以内にやるべきことが、まだある。
タオルをお湯で絞り、顔や首、手を拭いてやった。
すると、階段を上がる足音が聞こえた。
そっと開いた扉の向こうに、莉子が立っていた。
目が合うと、何も言わずに小さく頷いてくれた。
「……氷、持ってきたの。あとで替えるね」
そう言って、ベッドのそばにそっと腰を下ろした。
夏の背中に手を添える。ゆっくりと撫でるようにさすっていた、何度も。
言葉はなかった。でも、それで十分だった。
苦しい中にも、三人だけのあたたかな時間が流れていく。
最後に一番大事なことをしないといけない。
「莉子、ちょっとおむつを替えるよ」と言うと席を外してくれた。
手袋が汚れるので、おむつの取り換えは最後になってしまう。
腸を無理やり動かしていることで、断続的に下痢が続いている。
もっと頻繁に替えてやりたい。
便や腸の分泌液はアルカリ性だ。肌に触れるとピリピリと刺激する。
だからおむつを変えないと赤くただれてしまう。
それがかわいそうだ。もう真っ赤にただれている。
これだけでも痛むはずだ。
そのために最後に軟膏を付けてやるが、追い付いていない。
でも現状ではそれも難しい。どうすればいい……?
手袋を捨てて、手を洗い消毒した。
口の中をミントの水歯磨きでゆすがせた。
ミントの香りだけでも口がさっぱりするはずだ。
最後に、氷をひとつ、そっと口に入れてやる。
夏は目を閉じたまま、ゆっくりと味わうように氷を含んだ。
口の中が、ひどく乾いていたようだ。
点滴だけでは、水分を十分に補えない。
俺はしばらく黙ったまま、夏の顔を見つめた。
診療に集中しなくてはいけないのに、気がそれて仕方がない。
考えまいとしても、頭のどこかでずっと、夏が苦しむ姿がちらつく。情けない。
専攻医のときに夏が倒れた場面が、今でも鮮明に蘇る。
あの時は体力が極端に落ちていて、痛みに耐える姿はあまりに弱々しかった。
今回は、それよりはまだ少しだけ身体が持ちこたえている。
でも腸の弱さはあまり変わらないのかもしれない。それがすごく悔しい。
診断がついたことで、点滴に腸を動かす薬が加えられた。
その影響で夏は断続的な腹痛と闘っている。
イレウスの疝痛はお腹を絞るようなつらい痛みで、陣痛と似ている。
痛みが押し寄せた時は「ハア、ハア、ああっ……」と眉をぎゅっと寄せ、口を開けて呼吸を逃がす姿が浮かぶ。
腸の回復の妨げになるので痛み止めは使えない。
10時。まるで反射のように俺は診察室を出る。
一刻も早く夏のそばに行きたい。足を速めた。
俺が帰宅すると、待ち構えていたように莉子が声を上げた。
「夏がすごく痛がってるよ。なんとかしてあげられないの?」
その目は赤く潤んでいて、こらえきれない不安が滲み出ていた。
そばで見守ることしかできない苦しさ……それもつらい。
「うん、わかってるよ。でも……痛み止めは使えないんだよ」
俺の答えに、莉子は唇をぎゅっと結んだ。
そのまま目を伏せて、静かに部屋を出て行った。
きっと、莉子も何度も様子を見に行ってくれたのだろう。
だから、うがいをさせることと、氷を含ませることだけを莉子に頼んだ。
本当は、おむつの交換も頼みたかった……でも、夏がそれをどれほど嫌がるか想像がついた。
それだけは頼めなかった。
台所で氷をコップに入れ4階へ急ぐ。
寝室の扉を開けると、ベッドの端で夏が横向きに丸まっていた。
海老のように身を縮め、全身で腹痛に耐えている。
「夏、来たよ。大丈夫か? 先に点滴を取り替えるね」
点滴の交換を終え、ベッド脇に腰を下ろして、苦しげな夏の頬をそっと撫でた。
指先が髪に触れると、夏はほんの少し目を開けた。
「おなかが痛い……つらい……」と涙をあふれさせた。
こめかみを伝って枕に落ちる。両手の親指で涙を拭った。
そっと首の下に手を差し入れ、抱えるようにして頭を引き寄せる。
「夏、痛いね……ごめんね。楽にしてあげられなくて……」
夏の嗚咽が止まらない。細い声で、息も絶え絶えに泣き続ける。
俺は抱きしめたまま目を閉じた。
その瞬間、夏の嗚咽が胸に染み込んでいく。心で泣いた。
それでも時間は過ぎていく。
振り切るように夏の頭をポンポンと軽く叩いた。
「夏、ちょっと顔を拭いてあげるよ」
30分以内にやるべきことが、まだある。
タオルをお湯で絞り、顔や首、手を拭いてやった。
すると、階段を上がる足音が聞こえた。
そっと開いた扉の向こうに、莉子が立っていた。
目が合うと、何も言わずに小さく頷いてくれた。
「……氷、持ってきたの。あとで替えるね」
そう言って、ベッドのそばにそっと腰を下ろした。
夏の背中に手を添える。ゆっくりと撫でるようにさすっていた、何度も。
言葉はなかった。でも、それで十分だった。
苦しい中にも、三人だけのあたたかな時間が流れていく。
最後に一番大事なことをしないといけない。
「莉子、ちょっとおむつを替えるよ」と言うと席を外してくれた。
手袋が汚れるので、おむつの取り換えは最後になってしまう。
腸を無理やり動かしていることで、断続的に下痢が続いている。
もっと頻繁に替えてやりたい。
便や腸の分泌液はアルカリ性だ。肌に触れるとピリピリと刺激する。
だからおむつを変えないと赤くただれてしまう。
それがかわいそうだ。もう真っ赤にただれている。
これだけでも痛むはずだ。
そのために最後に軟膏を付けてやるが、追い付いていない。
でも現状ではそれも難しい。どうすればいい……?
手袋を捨てて、手を洗い消毒した。
口の中をミントの水歯磨きでゆすがせた。
ミントの香りだけでも口がさっぱりするはずだ。
最後に、氷をひとつ、そっと口に入れてやる。
夏は目を閉じたまま、ゆっくりと味わうように氷を含んだ。
口の中が、ひどく乾いていたようだ。
点滴だけでは、水分を十分に補えない。
俺はしばらく黙ったまま、夏の顔を見つめた。
6
あなたにおすすめの小説
診察室の午後<菜の花の丘編>その1
スピカナ
恋愛
神的イケメン医師・北原春樹と、病弱で天才的なアーティストである妻・莉子。
そして二人を愛してしまったイケメン御曹司・浅田夏輝。
「菜の花クリニック」と「サテライトセンター」を舞台に、三人の愛と日常が描かれます。
時に泣けて、時に笑える――溺愛とBL要素を含む、ほのぼの愛の物語。
多くのスタッフの人生がここで楽しく花開いていきます。
この小説は「医師の兄が溺愛する病弱な義妹を毎日診察する甘~い愛の物語」の1000話以降の続編です。
※医学描写はすべて架空です。
甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。
海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。
ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。
「案外、本当に君以外いないかも」
「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」
「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」
そのドクターの甘さは手加減を知らない。
【登場人物】
末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。
恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる?
田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い?
【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】
月弥総合病院
僕君☾☾
キャラ文芸
月弥総合病院。極度の病院嫌いや完治が難しい疾患、診察、検査などの医療行為を拒否したり中々治療が進められない子を治療していく。
また、ここは凄腕の医師達が集まる病院。特にその中の計5人が圧倒的に遥か上回る実力を持ち、「白鳥」と呼ばれている。
(小児科のストーリー)医療に全然詳しく無いのでそれっぽく書いてます...!!
お兄ちゃんはお兄ちゃんだけど、お兄ちゃんなのにお兄ちゃんじゃない!?
すずなり。
恋愛
幼いころ、母に施設に預けられた鈴(すず)。
お母さん「病気を治して迎えにくるから待ってて?」
その母は・・迎えにくることは無かった。
代わりに迎えに来た『父』と『兄』。
私の引き取り先は『本当の家』だった。
お父さん「鈴の家だよ?」
鈴「私・・一緒に暮らしていいんでしょうか・・。」
新しい家で始まる生活。
でも私は・・・お母さんの病気の遺伝子を受け継いでる・・・。
鈴「うぁ・・・・。」
兄「鈴!?」
倒れることが多くなっていく日々・・・。
そんな中でも『恋』は私の都合なんて考えてくれない。
『もう・・妹にみれない・・・。』
『お兄ちゃん・・・。』
「お前のこと、施設にいたころから好きだった・・・!」
「ーーーーっ!」
※本編には病名や治療法、薬などいろいろ出てきますが、全て想像の世界のお話です。現実世界とは一切関係ありません。
※コメントや感想などは受け付けることはできません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
※孤児、脱字などチェックはしてますが漏れもあります。ご容赦ください。
※表現不足なども重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけたら幸いです。(それはもう『へぇー・・』ぐらいに。)
【完結】異世界に転移しましたら、四人の夫に溺愛されることになりました(笑)
かのん
恋愛
気が付けば、喧騒など全く聞こえない、鳥のさえずりが穏やかに聞こえる森にいました。
わぁ、こんな静かなところ初めて~なんて、のんびりしていたら、目の前に麗しの美形達が現れて・・・
これは、女性が少ない世界に転移した二十九歳独身女性が、あれよあれよという間に精霊の愛し子として囲われ、いつのまにか四人の男性と結婚し、あれよあれよという間に溺愛される物語。
あっさりめのお話です。それでもよろしければどうぞ!
本日だけ、二話更新。毎日朝10時に更新します。
完結しておりますので、安心してお読みください。
幼馴染みのメッセージに打ち間違い返信したらとんでもないことに
家紋武範
恋愛
となりに住む、幼馴染みの夕夏のことが好きだが、その思いを伝えられずにいた。
ある日、夕夏のメッセージに返信しようとしたら、間違ってとんでもない言葉を送ってしまったのだった。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる