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侍女の幸福1
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「おいで、マーガレット」
旦那様が私を求める。私を愛しいと、可愛いと言う。奥様にはそんな甘い言葉を仰らないくせに奥様の侍女の私には溢れるほど下さる。
「ほら、ここにおいで」
旦那様がベッドに座るように言う。私はその言葉に従ってベッドに座った。その途端に噛み付くような口付けをされて、思わず旦那様にしがみついてしまう。それでも旦那様は私の腕を嫌がらないで、ぎゅっと抱きしめ返して下さった。
旦那様の口付けにうっとりしながら、いつも私は頭の片隅で奥様のことを考える。
(お可哀想な奥様……)
私の方が奥様より価値がある。
それがどんな価値なのかは考えたくもないけどね。
私はベッドの上ですっかり眠りこけてしまった旦那様を眺めた。整った顔には疲れが浮かんでいて、旦那様をもっと癒して差し上げたくなる。最近はコーヒーを飲む回数も増えたし、色々な人と連絡を取っていてとても忙しそうになさっているから。心配になってしまう。旦那様がお身体を壊されたら、私はどうなってしまうんだろうって。
私はこんなことをしていい立場ではないから。きっと旦那様は私のことを、いつ切り捨てられるかわからない、お遊びの相手だと思っているから。それが余計に私の不安を煽った。
……私だって、本当は身の程をわきまえている。こんなに傲慢なことをしているけど、ちゃんとわかっているもの。
それでも、旦那様は私のことを愛していると、奥様より私の方が愛してるのだと考える方が楽だった。私がそれよりもずっとずっと旦那様のことを愛してしまっているから、そう考えたかった。
私は何度も繰り返し言われた優しい言葉の数々を頭の中で思い出して、ほうっとため息をついた。やっぱり、私の方が旦那様の隣にいるのに相応しい。奥様はずっと難しそうなお顔をなさっていて、なんだか怖い。私の方が旦那様を楽しませられるし、お慰めすることもできるし、癒してあげることもできる。
旦那様をお慰めすることに関してだけは、私の方がよっぽど有能だ。
日が昇る前に私は起き出して、私たちはキスをして別れた。
本当に、罪深い事をした。侍女としてやってはならないことーー奥様の旦那様を盗ることーーをしてしまったと思う。これは決して自慢できることじゃないし、人前で話せることじゃない。暗い関係だ。でも、これが悪い事だとは分かっているけど不思議と罪悪感はなかった。
(奥様も旦那様のことを引き留めないから。見て見ぬ振りをなさっているから……)
時々少しだけ……塩のひとつまみ分くらいの罪悪感が湧き上がりそうになるけど、私は悪くないのだと言葉に出せばそんな気持ちは消えてしまう。
ずっと遠くで見ていた人が私の気持ちに気づいてくれたことが嬉しくてたまらなかった。私に口づけをしてくれるたびに、私を求めてくれる度にもう死んでもいいんじゃないかと思ってしまうほど幸福だった。
私たちの幸福が奥様の犠牲の上で成り立っている関係だってことをまるっきり無視して、私と旦那様はなんども逢瀬を重ねた。何度も逢瀬を重ねる度に私の罪悪感は薄れて行く。あとに残るのは、旦那様への愛だけ。
心なしか、最近奥様は私に冷たい視線を投げかけるようになった。今までは仕方のない子供を見るような憐れみを浮かべていたのに、今は嫉妬に狂ったお顔をなさる。つま先から頭のてっぺんまで氷のように冷たくなってしまうくらい恐ろしい目線を私に注ぐ。
チリンチリン、とベルが鳴った。私を呼び出すための、キンキンしたベルの音。この音が聞こえる度に私は奥様の部屋に行って、お相手をしなくてはならない。
最近奥様は私を虐めるようになった。
私を奥様の部屋に呼び出して、微笑みながら「マーガレット、お茶を入れて頂戴?」っていうくせに、私の淹れた紅茶に口をつける振りをして全く飲んでくれなくなった。一口も飲まないで、「あら、冷めてしまったわ。わたくし冷めてしまったお茶は好きではないの。マーガレット、淹れなおしてちょうだい?」って意地悪く微笑む。何度も何度もそれを繰り返して、最後に大きなため息をついて、「他所で働きたいのかしら?」って呟いて、私を部屋から追い出す。それを繰り返すものだから、頭がおかしくなってしまいそうだった。
奥様は気づいていた。全部全部知っていた。それでもなお、私をクビにしようとはしない。それが気持ち悪かった。私はどうなってしまうのだろう。
私は、奥様はとってもわがままな方だと思う。きっと奥様は旦那様を愛していらっしゃる。旦那様はお優しいから、奥様が旦那様を欲しがればすぐに願いを叶えてくれるだろうに、素直なお気持ちを口に出そうともしない。プライドばかりが邪魔をして、お二人の仲はどんどん悪くなっていっている。私が気づくくらいなのだから、社交界でも有名になっているだろう。
どうして旦那様と愛し合える立場にいるのに、奥様はそれを利用しないんだろう? 旦那様が居心地悪そうにしているのに気づいている筈なのに、どうして居心地の良い屋敷にしないんだろう? どうして私を解雇しないのだろう? 考えれば考えるほどよくわからない。
奥様は私を羨ましがってる。どうして私が愛されるのか、きっと疑問に思っている。でも、そんなこと私だって知りたかった。私はそんなにいい性格をしているわけでもないし、肌だってすべすべじゃない。女の私から見たって奥様はお美しい。私だって、奥様になりたかった。奥様の地位が欲しかった。あの人の隣に堂々と並んでいられる存在になりたくてなりたくて仕方なかった。
その気持ちが降り積もって、降り積もって。
私はその日、口を滑らせた。
その日は奥様に足を引っ掛けられた日だった。私が紅茶をお出ししようとしたら、華奢なハイヒールを履いた細い足がドレスから覗いて、私の足の前に出されていた。私は上手く立ち回ることができなくって、熱い紅茶の入ったティーカップを持ったまま絨毯の上に倒れた。私の手首に熱い感覚が走って、それと同時にティーカップががしゃんと壊れる音がした。
奥様は言った。
「何をしているの……!! またあなたね、マーガレット。ティーカップだって割れているじゃない……! 新人のメイドの方がよっぽど役に立つわ。貴女はなんのために養成学校に行ったの? お里が知れる!」
私は平民だから、この国随一の使用人養成学校に通ってやっと貴族のお屋敷で働けるようになった。私の家は使用人養成学校に行く余裕があるくらい裕福ではなかったから、王都の近くの居酒屋なんかで働ければ十分だと両親は言っていたけれど、私はそれが嫌だった。両親のように貧しいところでくすぶっているのなんてごめんだった。だから、返済不要の奨学金が貰えるように、養成学校の試験では常に一位を取り続けた。血を吐くくらい勉強して、入学試験ではトップの点数を取って入学した。
それでも、私が奥様の元…公爵家で働いているのは奇跡に等しかった。私は田舎出身の卑しい平民だから。
奥様はそれから一時間、私を離してくれなかった。ジリジリと火傷した手首が痛んだけど、それも言い出すこともできないくらい奥様はご立腹だった。散々私をお叱りになった後、奥様は私に片付けをするように言いつけて部屋を出ていった。私はそれを一人で片付けるしかなくて、結局火傷の手当てをできたのは二時間後だった。今、私の手首には白い包帯が巻かれている。
その中でも幸いだったのは、そのティーカップがあまり高価なものではなかった事くらい。……それでも、高価なことには変わりがないのだけれど、お屋敷の中にある他のものに比べればそれは安価だった。私はティーカップを一脚壊してしまったから、そのティーカップ分の代金が私のお給金から毎月天引きされていくことになった。一年くらいで払い終わるだろうって執事のジェームズさんは言っていたけれど、私は親に仕送りをしなくちゃいけないから、私が使える金額なんてしれている。どうすればいいのか、本当に私は分からなかった。
その日の夜、旦那様からお呼びがかかった。
私は疲れていた。奥様に虐められるのも、何もかもに疲れていた。私は旦那様のベッドの上でぽつりと呟いた。
「ねえ旦那様、私を旦那様の奥様にして?」
こんなこと言うつもりじゃなかった。ただ、もう離れたくないと思った。もう日陰の存在にはなりたくないと思った。もうこんな火傷を負わされるような目にあいたくなかった。
旦那様は暫く難しいお顔をなさって、私に言った。
「……いいよ。もし君が私の妻という地位が欲しいのならば、シャーロットから奪うと良い。毒をいくつか渡しておこうか? そこの戸棚にも入ってあるよ。君がやりたいようにやれば良いよ。私は何も言わない。何ヶ月持つかわからないけれど、そんなに短い期間でよければ、私の妻になると良い」
「ずっとお側にいることはできないんですか……?」
旦那様のお言葉はぞっとしてしまうくらい冷たかった。いつもの優しさなんてそこからは少しも見つからなかった。
「それは無理だろうね。シャーロットは侯爵令嬢だから、侯爵家が黙っていないよ。それに、何か私にメリットはあるの? 君と結婚をして、私は何かいいことがあるのかい? 私は愚かなことだと思うよ……。殺すにしても、きっとすぐに足がつく。そもそも君は平民だからね。籍を入れることはできないけど、君が捕まって牢獄に入れられるまでの間なら妻として扱ってあげよう。それくらいで良いの? 君は満足する? もっと君は賢いと思っていたよ」
旦那様は優しく笑った。
「でも、そんな愚かなところも可愛くて好きだよ。本当に突拍子もないことを考えつくんだねぇ。ああ、もしシャーロットを殺したいなら私を巻き込まないでね? 私は力があるから、巻き込もうとしてもその罪状を潰してしまうけど」
色々使ってね、と言って旦那様はニコニコ笑いかけた。
「……ごめんなさい、旦那様、冗談です。笑ってくださると思ったのに……。それでは、愛人は? 私、旦那様と離れたくないの」
背中につたった冷たい汗は無視して、私は口の端を吊り上げた。
「ああ! 冗談だったの? 私はすごくつまらない反応をしてしまったね、紳士らしくなかった。ごめんね? 怖がらないでおくれ。……愛人、ね。私は愛人を囲うのは好きではないんだ。いつ間男を作られるか分からないだろう? お金を持った人はすぐに裏切るからね、必要以上の権力を持たせないほうがいいと思ってる。……こんなことを話すのは君くらいだよ。私はこんなことを他人にはあまり話さないのだからね」
旦那様はそう言って私の頰に触れた。口づけをする合図だ。私は目を閉じた。旦那様はいつもと同じように私を優しく愛してくださった。
旦那様は私が部屋を出て行こうとすると、私のそばまで歩いてきて唇を耳に寄せた。そして、甘い声で私を唆そうとした。
「さっきの冗談、すごく興味深いね。面白いことを考えるねぇ、マーガレットは。ああ、そうだ、今度シャーロットとお茶をするんだ。夫婦としての交流が無さすぎるのもいけないからね。マーガレットは好きにすると良いよ」
好きにすると良い、という言葉の裏を理解してしまって、私は恐怖を感じた。
「ああ、それから、いつでもその戸棚を触って良いからね」
旦那様が指を指したのは、毒薬が入っているという戸棚だった。旦那様は、心底面白がっていた。旦那様にとって、それは余興の一部だったのであろう。
旦那様が私を求める。私を愛しいと、可愛いと言う。奥様にはそんな甘い言葉を仰らないくせに奥様の侍女の私には溢れるほど下さる。
「ほら、ここにおいで」
旦那様がベッドに座るように言う。私はその言葉に従ってベッドに座った。その途端に噛み付くような口付けをされて、思わず旦那様にしがみついてしまう。それでも旦那様は私の腕を嫌がらないで、ぎゅっと抱きしめ返して下さった。
旦那様の口付けにうっとりしながら、いつも私は頭の片隅で奥様のことを考える。
(お可哀想な奥様……)
私の方が奥様より価値がある。
それがどんな価値なのかは考えたくもないけどね。
私はベッドの上ですっかり眠りこけてしまった旦那様を眺めた。整った顔には疲れが浮かんでいて、旦那様をもっと癒して差し上げたくなる。最近はコーヒーを飲む回数も増えたし、色々な人と連絡を取っていてとても忙しそうになさっているから。心配になってしまう。旦那様がお身体を壊されたら、私はどうなってしまうんだろうって。
私はこんなことをしていい立場ではないから。きっと旦那様は私のことを、いつ切り捨てられるかわからない、お遊びの相手だと思っているから。それが余計に私の不安を煽った。
……私だって、本当は身の程をわきまえている。こんなに傲慢なことをしているけど、ちゃんとわかっているもの。
それでも、旦那様は私のことを愛していると、奥様より私の方が愛してるのだと考える方が楽だった。私がそれよりもずっとずっと旦那様のことを愛してしまっているから、そう考えたかった。
私は何度も繰り返し言われた優しい言葉の数々を頭の中で思い出して、ほうっとため息をついた。やっぱり、私の方が旦那様の隣にいるのに相応しい。奥様はずっと難しそうなお顔をなさっていて、なんだか怖い。私の方が旦那様を楽しませられるし、お慰めすることもできるし、癒してあげることもできる。
旦那様をお慰めすることに関してだけは、私の方がよっぽど有能だ。
日が昇る前に私は起き出して、私たちはキスをして別れた。
本当に、罪深い事をした。侍女としてやってはならないことーー奥様の旦那様を盗ることーーをしてしまったと思う。これは決して自慢できることじゃないし、人前で話せることじゃない。暗い関係だ。でも、これが悪い事だとは分かっているけど不思議と罪悪感はなかった。
(奥様も旦那様のことを引き留めないから。見て見ぬ振りをなさっているから……)
時々少しだけ……塩のひとつまみ分くらいの罪悪感が湧き上がりそうになるけど、私は悪くないのだと言葉に出せばそんな気持ちは消えてしまう。
ずっと遠くで見ていた人が私の気持ちに気づいてくれたことが嬉しくてたまらなかった。私に口づけをしてくれるたびに、私を求めてくれる度にもう死んでもいいんじゃないかと思ってしまうほど幸福だった。
私たちの幸福が奥様の犠牲の上で成り立っている関係だってことをまるっきり無視して、私と旦那様はなんども逢瀬を重ねた。何度も逢瀬を重ねる度に私の罪悪感は薄れて行く。あとに残るのは、旦那様への愛だけ。
心なしか、最近奥様は私に冷たい視線を投げかけるようになった。今までは仕方のない子供を見るような憐れみを浮かべていたのに、今は嫉妬に狂ったお顔をなさる。つま先から頭のてっぺんまで氷のように冷たくなってしまうくらい恐ろしい目線を私に注ぐ。
チリンチリン、とベルが鳴った。私を呼び出すための、キンキンしたベルの音。この音が聞こえる度に私は奥様の部屋に行って、お相手をしなくてはならない。
最近奥様は私を虐めるようになった。
私を奥様の部屋に呼び出して、微笑みながら「マーガレット、お茶を入れて頂戴?」っていうくせに、私の淹れた紅茶に口をつける振りをして全く飲んでくれなくなった。一口も飲まないで、「あら、冷めてしまったわ。わたくし冷めてしまったお茶は好きではないの。マーガレット、淹れなおしてちょうだい?」って意地悪く微笑む。何度も何度もそれを繰り返して、最後に大きなため息をついて、「他所で働きたいのかしら?」って呟いて、私を部屋から追い出す。それを繰り返すものだから、頭がおかしくなってしまいそうだった。
奥様は気づいていた。全部全部知っていた。それでもなお、私をクビにしようとはしない。それが気持ち悪かった。私はどうなってしまうのだろう。
私は、奥様はとってもわがままな方だと思う。きっと奥様は旦那様を愛していらっしゃる。旦那様はお優しいから、奥様が旦那様を欲しがればすぐに願いを叶えてくれるだろうに、素直なお気持ちを口に出そうともしない。プライドばかりが邪魔をして、お二人の仲はどんどん悪くなっていっている。私が気づくくらいなのだから、社交界でも有名になっているだろう。
どうして旦那様と愛し合える立場にいるのに、奥様はそれを利用しないんだろう? 旦那様が居心地悪そうにしているのに気づいている筈なのに、どうして居心地の良い屋敷にしないんだろう? どうして私を解雇しないのだろう? 考えれば考えるほどよくわからない。
奥様は私を羨ましがってる。どうして私が愛されるのか、きっと疑問に思っている。でも、そんなこと私だって知りたかった。私はそんなにいい性格をしているわけでもないし、肌だってすべすべじゃない。女の私から見たって奥様はお美しい。私だって、奥様になりたかった。奥様の地位が欲しかった。あの人の隣に堂々と並んでいられる存在になりたくてなりたくて仕方なかった。
その気持ちが降り積もって、降り積もって。
私はその日、口を滑らせた。
その日は奥様に足を引っ掛けられた日だった。私が紅茶をお出ししようとしたら、華奢なハイヒールを履いた細い足がドレスから覗いて、私の足の前に出されていた。私は上手く立ち回ることができなくって、熱い紅茶の入ったティーカップを持ったまま絨毯の上に倒れた。私の手首に熱い感覚が走って、それと同時にティーカップががしゃんと壊れる音がした。
奥様は言った。
「何をしているの……!! またあなたね、マーガレット。ティーカップだって割れているじゃない……! 新人のメイドの方がよっぽど役に立つわ。貴女はなんのために養成学校に行ったの? お里が知れる!」
私は平民だから、この国随一の使用人養成学校に通ってやっと貴族のお屋敷で働けるようになった。私の家は使用人養成学校に行く余裕があるくらい裕福ではなかったから、王都の近くの居酒屋なんかで働ければ十分だと両親は言っていたけれど、私はそれが嫌だった。両親のように貧しいところでくすぶっているのなんてごめんだった。だから、返済不要の奨学金が貰えるように、養成学校の試験では常に一位を取り続けた。血を吐くくらい勉強して、入学試験ではトップの点数を取って入学した。
それでも、私が奥様の元…公爵家で働いているのは奇跡に等しかった。私は田舎出身の卑しい平民だから。
奥様はそれから一時間、私を離してくれなかった。ジリジリと火傷した手首が痛んだけど、それも言い出すこともできないくらい奥様はご立腹だった。散々私をお叱りになった後、奥様は私に片付けをするように言いつけて部屋を出ていった。私はそれを一人で片付けるしかなくて、結局火傷の手当てをできたのは二時間後だった。今、私の手首には白い包帯が巻かれている。
その中でも幸いだったのは、そのティーカップがあまり高価なものではなかった事くらい。……それでも、高価なことには変わりがないのだけれど、お屋敷の中にある他のものに比べればそれは安価だった。私はティーカップを一脚壊してしまったから、そのティーカップ分の代金が私のお給金から毎月天引きされていくことになった。一年くらいで払い終わるだろうって執事のジェームズさんは言っていたけれど、私は親に仕送りをしなくちゃいけないから、私が使える金額なんてしれている。どうすればいいのか、本当に私は分からなかった。
その日の夜、旦那様からお呼びがかかった。
私は疲れていた。奥様に虐められるのも、何もかもに疲れていた。私は旦那様のベッドの上でぽつりと呟いた。
「ねえ旦那様、私を旦那様の奥様にして?」
こんなこと言うつもりじゃなかった。ただ、もう離れたくないと思った。もう日陰の存在にはなりたくないと思った。もうこんな火傷を負わされるような目にあいたくなかった。
旦那様は暫く難しいお顔をなさって、私に言った。
「……いいよ。もし君が私の妻という地位が欲しいのならば、シャーロットから奪うと良い。毒をいくつか渡しておこうか? そこの戸棚にも入ってあるよ。君がやりたいようにやれば良いよ。私は何も言わない。何ヶ月持つかわからないけれど、そんなに短い期間でよければ、私の妻になると良い」
「ずっとお側にいることはできないんですか……?」
旦那様のお言葉はぞっとしてしまうくらい冷たかった。いつもの優しさなんてそこからは少しも見つからなかった。
「それは無理だろうね。シャーロットは侯爵令嬢だから、侯爵家が黙っていないよ。それに、何か私にメリットはあるの? 君と結婚をして、私は何かいいことがあるのかい? 私は愚かなことだと思うよ……。殺すにしても、きっとすぐに足がつく。そもそも君は平民だからね。籍を入れることはできないけど、君が捕まって牢獄に入れられるまでの間なら妻として扱ってあげよう。それくらいで良いの? 君は満足する? もっと君は賢いと思っていたよ」
旦那様は優しく笑った。
「でも、そんな愚かなところも可愛くて好きだよ。本当に突拍子もないことを考えつくんだねぇ。ああ、もしシャーロットを殺したいなら私を巻き込まないでね? 私は力があるから、巻き込もうとしてもその罪状を潰してしまうけど」
色々使ってね、と言って旦那様はニコニコ笑いかけた。
「……ごめんなさい、旦那様、冗談です。笑ってくださると思ったのに……。それでは、愛人は? 私、旦那様と離れたくないの」
背中につたった冷たい汗は無視して、私は口の端を吊り上げた。
「ああ! 冗談だったの? 私はすごくつまらない反応をしてしまったね、紳士らしくなかった。ごめんね? 怖がらないでおくれ。……愛人、ね。私は愛人を囲うのは好きではないんだ。いつ間男を作られるか分からないだろう? お金を持った人はすぐに裏切るからね、必要以上の権力を持たせないほうがいいと思ってる。……こんなことを話すのは君くらいだよ。私はこんなことを他人にはあまり話さないのだからね」
旦那様はそう言って私の頰に触れた。口づけをする合図だ。私は目を閉じた。旦那様はいつもと同じように私を優しく愛してくださった。
旦那様は私が部屋を出て行こうとすると、私のそばまで歩いてきて唇を耳に寄せた。そして、甘い声で私を唆そうとした。
「さっきの冗談、すごく興味深いね。面白いことを考えるねぇ、マーガレットは。ああ、そうだ、今度シャーロットとお茶をするんだ。夫婦としての交流が無さすぎるのもいけないからね。マーガレットは好きにすると良いよ」
好きにすると良い、という言葉の裏を理解してしまって、私は恐怖を感じた。
「ああ、それから、いつでもその戸棚を触って良いからね」
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