侍女の幸福

やぎや

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侍女の幸福2

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「お茶でもしないか」

 旦那様は奥様に仰った。奥様は一瞬驚かれて、もう一度繰り返すように旦那様に言って、その後にふんわり微笑まれて、テラスへ移動した。美しかった。教会の壁画の女神様のように美しかった。

『ぶち壊したいのなら、お菓子を運んでおいで。君を受け入れてあげよう』と、旦那様は言った。

 私はただ奥様のお好きなお菓子を作るように料理長に頼んでおいた。お茶を出す役目はいつも私だった。お茶もお菓子も全て私が用意すれば、旦那様は私に振り向いてくださるそうだ。
 奥様は乙女のように無垢だった。頰を紅潮させて嬉しそうに微笑んでいらした。
 旦那様にお礼を言って、最近あったことをぽつぽつと話していた。幸福そうだった。私は毎日当たり前のように旦那様としているのに、奥様はその時間を幸せそうに過ごしていらした。丁寧に、言葉を選んで旦那様と会話するご様子は健気だった。私に嫌なことをしてきたのだって、大切な宝物を誰にも取られまいと行動なさったことなのかもしれない。そう思ってしまうくらい、私の心に訴える何かがあった。あんな少女のような奥様を初めて見た。

 私の制服のポケットには、小さな小瓶が入っていた。中に入っているのは無味無臭の毒。旦那様の戸棚から拝借したものだった。私はそれをお菓子に入れることもできたし、カップに塗ることもできた。でも、やらなかった。

 旦那様が笑っていらした。にこやかに、心から。大切なものを見る目で奥様を見ていた。今まで私が一度も見たことのないお顔だった。
 その時、旦那様と私の目と目があった。旦那様は綺麗に微笑んだ。それは綺麗なだけで、空っぽだった。私に向けるのは意味のない笑みだった。私は全てを悟った。私はこの様子まで見て旦那様を追いかけ続ける馬鹿ではなかった。
 私はそばにいたメイドを引き連れて、奥様と旦那様の元へ行く。茶器とお菓子の入ったワゴンを運んで、それをセットした。でも、お茶も淹れなければお菓子を運びもしなかった。私はそれを全て他のメイドにやらせた。

「火傷がまだ治っていなくて。本当に申し訳ないのだけれど、全て任せても良いかしら? また粗相をしてしまったら大変だわ」

 私が一言そういえば、他のメイドは快く承諾してくれた。火傷によく効く薬をくれた子までいた。

 私は茶器の用意をした後すぐに、その場から立ち去った。執事のジェームズさんに知らせておかなければならないことがあったからだ。

「ジェームズさん」
「ああ、マーガレットさん。どうかなさいましたか?」

 ジェームズさんを探せばすぐ見つかった。私はポケットの中を探って、一枚の粗悪な封筒を差し出した。給金が減ったから、良いものなんて買えなかった。

「これを読んでいただけますか」

 ジェームズさんの眉がぴくりと動いた。

「こんな老人に、恋文を下さるなんて! マーガレットさんは物好きですね。お気持ちは嬉しいですが、受け取りませんよ。お若い人をお探しなさい。きっとすぐに見つかりますから! さあ、誰かに見られないうちにはやくしまってください」

 ジェームズさんはロマンスグレーの頭をかいて、封筒を受け取ろうとしなかった。私を茶化しているけど、言いたいことは分かっているだろう。今のうちなら冗談になるから、と親切に言って下さっている。

「恋文ではないことくらい、ジェームズさんはご存知でしょう? 受け取って下さい。冗談なんかじゃありません」
「私は……嫌ですよ。貴女はここを辞めたいというのでしょう?」
「……ええ、本当にご迷惑をお掛けしてしまいますが」
「……貴女は何のために今まで頑張ってきたのですか。私はこんなものを受け取りたくありません。私だって、あの養成学校で首席を取るのがどれだけ大変なのか分かっているつもりです。私もあそこの出身ですし。何の後ろ盾もない貴女が今ここで働けているのは、貴女が努力したからでしょう。貴女の今までの努力が水の泡ですよ。本当に勿体ない。それに、このことを旦那様はご存知なのですか……? もしかして旦那様が? そうでしたら私が旦那様に掛け合ってみます」

 私は緩く首を振った。

「これは私の判断です。旦那様はご存知ではありません。後で伝えるつもりです。でもきっと、旦那様は承諾して下さるでしょう。先に旦那様にお知らせすべきだということは分かっているのですが、どうしてもお世話になったジェームズさんに先に知らせておきたくて」

 受け取って下さい、と言いながら私はジェームズさんに封筒を押し付けた。ジェームズさんは渋々と言った様子で受け取ってくれた。

「貴女は惜しい存在です。いつ出ていかれるのですか。次の働き先は決まっているのですか」
「明日にでも出て行きます。……言いにくいのですが、次の働き先は見つかっていません。でも、旦那様がきっと紹介状を書いてくださいます。書いて下さらなくてもすぐに見つかるでしょう」

 養成学校を首席で出たという肩書きはそれくらい役に立つことを私は知っていた。

「ティーカップ一脚分の代金はお支払いします。私もそれくらいの貯金はあるんですよ」

 私は笑った。ジェームズさんはそれを痛ましそうに見ている。ジェームズさんは私と旦那様の関係をご存知だった。他の使用人も、表立って言いはしないものの陰では噂していただろう。何度か居心地の悪い思いをしたことがある。

「旦那様はそれくらいお許しになりますよ。貴女がいなくなってしまうのですか……。よく働いてくださったのに。貴女の空きを埋めるのは大変ですよ」

 ジェームズさんも笑った。寂しげな笑みだった。

「きっとすぐに私の代わりが見つかります。公爵家で働きたい人なんて山ほどいますから。でも、そう言って頂けて嬉しいです。今までありがとうございました」
 
 私は頭を下げた。養成学校で身につけた、最上級のお辞儀だった。

「こちらこそ。……どうか、お元気で」

 ジェームズさんも美しい礼をしてくれた。




















 翌朝、私は一人でワゴンを持って旦那様の部屋の前に立っていた。

「旦那様、失礼致します。紅茶をお持ちしました」
「お入り」

 ドアをノックすれば旦那様の低い声が聞こえてきた。
 私は旦那様の執務室に入った。紅茶はレディ・グレイ。お茶請けは甘さが控えめのクッキー五枚。バタークッキーが二枚、シナモンクッキーが二枚、紅茶のクッキーが一枚。これが旦那様のお気に入りだ。旦那様はいつもコーヒーをお飲みになるけど、時々こうやって私を呼びつけるために紅茶が飲みたいと言う。今日は私が旦那様に話があるとジェームズさんに言付けをお願いしたら、わざわざこうやって呼んでくださった。

「ドアを閉めて」

 私は黙ってドアを閉めた。

「昨日はありがとう。シャーロットと落ち着いてお茶ができた」
「当然のことをしたまでです」

 そう言いながら、旦那様の目に前にクッキーと紅茶を置く。すると、突然手首を掴まれた。火傷をした左手だったので、痛みに驚いて旦那様を見れば、真顔で私を見つめていた。

「私の妻になりたいのではなかったの」
「お戯れを。あれは冗談ですよ。どうかお許し下さい。旦那様、申し訳ありませんが手首を離してくださいませんか? 最近火傷をしてしまって」
 
 旦那様はすぐに私の左手を解放してくれた。それでも、私を見つめる目つきは変わらぬままだった。

「それからこれを……旦那様にお返しいたします」

 ポケットから透明な小瓶を取り出して、机の上に置く。コトン、と硬い音がした。
 旦那様は口元を緩めた。

「平民の私に、一時の夢を与えてくれてありがとうございました。短い間でしたが、あれほどまでに美しい世界を見せて頂けて本当に幸せでした」

 今までで一番美しい礼ができるように気をつけながら頭を下げる。

「全て夢で済ませてしまうのかい? 君となら、一緒に過ごすのも悪くないと思ったんだけど」
「お戯れが過ぎますわ。あんなに怖いことを仰っていらしたじゃありませんか。私は永遠に一緒にいられないのは嫌なんです。これからの人生を牢獄で過ごしたいとも思えなかったんです」
「……冗談だったんだよ。それから、ここに入っているのも水だよ。毒なんかじゃない。君を試したんだ。本当に君が妻になりたいと言うなら、シャーロットとは離縁しようかと思っていた。あの人も私に縛られていては可哀想だからね。解放してあげようかと思って」
「ご冗談を。奥様を愛していらっしゃるでしょうに。あんなお顔を見たのは初めてでしたよ。お二人は今まで歩み寄らなかっただけで、お二人の間には確かなお気持ちがあるのでしょう」

 旦那様は何も言わなかった。気不味い雰囲気を誤魔化すように、旦那様がお茶を飲んだ。

「……美味しいね。この屋敷で一番美味しい紅茶を淹れられるのは君なんだよ。知ってた?」
「ええ、承知しております」

 旦那様は声を出して笑われた。この国随一の使用人養成学校首席の実力を舐めてもらっては困る。

「そっか。君はそれくらいがいいね。そうしている方がずっといい。それで、話があるんだろう?」

 旦那様は全てお見通しだった。

「ええ、旦那様は全てご存知ですね」
「……ジェームズが嘆いていたからね」

 にこやかに微笑みたかったけれど、そんなことできなかった。目の前の旦那様が揺らいでいく。視界がぼんやりとして、全てを目に焼き付けておきたいのにそれができなくなる。それでも私はゆっくり息を吸って、言葉を紡いだ。

「私、マーガレット・スミスは、本日をもちましてローゼン公爵様の奥様、シャルロット・ド・ローゼン公爵夫人の侍女を辞めさせて頂きます。本日はその許可を得に参りました」

 もう一度礼をする。旦那様は刺すような視線を向けた。
 しばらく沈黙が続いた。

「顔を上げてくれ」

 そう言われて顔を上げると、悲しそうな顔をした旦那様がいた。
 
「……君には本当にすまないことを…」
「旦那様、私は後悔しておりません。……謝罪は不要です。全ては私が選んだ道でございます」
「それでは……、今までありがとう。迷惑をかけたね。紹介状を書こう。そうだね、君なら王宮で働けるかもしれない。公爵邸で働いた実績もあるし、君は優秀な成績で養成学校を出たからね。こんなことを私が言うのもなんだけど、幸せにおなりなさい。きっと君なら幸せになれるよ」
「……旦那様も、奥様とお幸せにお過ごしください」
「……ありがとう」

 旦那様はしばらく紹介状を書いていた。少しして顔を上げて、旦那様はゆっくり言った。

「シャーロットが、色々としただろう。私は謝れないし、今までそのことを見て見ぬふりをしていた。全部、私がシャーロットに向き合わなかったからだ。ティーカップのことは気にしないで良い。退職金も振り込んでおこう。火傷は……医者を紹介する。必ずそこに行ってくれ。医療費は公爵家が負担するから気にしないで。今までの詫びだと思って欲しい」
「……ありがとうございます」

 遠慮はしなかった。

「私からも、このようなことは直接奥様には伝えられませんが、申し訳ございませんでした。お二人のご関係を壊すような真似をしてしまいました。昨日のテラスでのお二人を見て、反省いたしました。……やはりあのようなことはするべきではないですね」

 冷たいものが頰をつたった。私は奥様には、敵わなかった。

「旦那様のことを、心から愛しておりました。私が言えたことではありませんが、どうか奥様を幸せになさってください。あれほどまでに旦那様を愛していらっしゃるのは、奥様しかいらっしゃいません」
「……ああ、必ず幸せにするよ。長い間待たせてしまった。………シャーロットを、小さな頃からずっと愛しているんだ」

 それだけ聞ければよかった。きっとお二人は素敵なご夫婦になるだろう。
 幸せそうに微笑む旦那様と奥様が見えた。
 旦那様に、不思議と未練はなかった。

「本当に、本当にありがとうございました。もう二度と会うことはないでしょうけど、お元気で」

 旦那様はなにも返さなかった。きっとこれからも会うことはある。貴族同士の交流の中で、私が使用人として働いているのだから。それでも、そんな時には知らないふりをしてくれたら良いなと思う。きっと旦那様も同じお気持ちだ。
 旦那様はただ私に紹介状を渡して、「今までご苦労だった」と言っただけだった。それでも、旦那様はすっきりとしたお顔で私を見送って下さった。
 奥様には最後まで会うことはなかった。

 使用人仲間にも挨拶をして、私は公爵邸を去った。みんなは急に辞めることになった私に驚いて、私のために泣いてくれる友達もいた。
 みんなみんな優しかった。





 数ヶ月後、私は王宮で働いていた。倍率の高い難しい試験をかいくぐって、やっと手に入れた仕事だった。
 そのうちに優しげな人に会った。その人は繊細な指を持つ王室お抱えの銀細工師で、平民から成り上がった人だった。いつもひだまりのような笑顔を向けてくれるその人は、私を支えてくれて、数年後夫となった。夫はごつごつした手で私の手をいつも握ってくれる。不安なことがあっても、すぐに助けてくれる。夫は私の過去についてなにも知ろうとしない。ただ、昔の功績や私が努力してきたことを全て褒めてくれる。私は、夫がなにも知ろうとしないことも、私を評価してくれることも、全て優しさからくるものだと言うことを知っていた。彼はありのままの私を愛してくれている。
 風の噂で、ローゼン公爵夫妻がおしどり夫婦として社交界で有名になっていることを知った。王宮のパーティーでお二人の姿を見かけた時は、それはそれは幸せそうに微笑みあっていらっしゃった。ローゼン公爵夫人の隣には、可愛らしい男の子が夫人に手を繋がれていた。私はそれを見て、なぜか笑みが浮かび上がったのだった。
 私と夫は旦那様から頂いた莫大な退職金と夫の貯金を使って、花が咲き乱れる、大きな庭があるレンガ造りの家を買った。休日は、夫と一緒にその庭に出て過ごす。庭いじりをするのも、夫と一緒にお菓子を焼いてお茶をするのも楽しかった。
 私は庭で暖かい陽を浴びながら夫と微笑み合う時間が一番好きだ。
 これは侍女だった私が、自分自身で手に入れた世界一の幸福である。



                               〈完〉
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