旦那様、私は全てを知っているのですよ?

やぎや

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本編

私は?

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 ※奥様です。














 布団が熱い……。
 サラサラと肌に触れている布団が肌に纏わり付いて、なんとも言えない不快感を生み出す。
 同じようにサラサラなはずのシーツも、私の体の下でぐしゃぐしゃになっているような、布と布が重なりあってできる厚みを感じる。
 熱い………。
 侍女が着せてくれたであろう、薄い手触りの良い寝衣は、体から出てきた汗でぴったりと張り付いてしまっている。

 私は思わず手を伸ばして、目を閉じたまま布団をはねのけた。
 布団の中にこもっていた生暖かい空気が外に出て、部屋のひんやりとした空気が肌に触れる。
 その温度が肌に気持ちがよくて、もう少し眠ってしまおうかしら、という気持ちになってくる。
 でも、そう思えばそう思うほど眠れないのだ。もう十分に寝ている、と体が訴えかけてくる。

 仕方なく、もう閉じる事に飽きてしまった目を嫌々開ける。
 いつもは眩しいと感じることはないはずなのに、今日は外の明るさに目が痛くなってきた。
 それに、喉もカラカラに乾いている。

 何かがおかしい、と私は思った。

 重い体を無理にでも起こすと、頭がクラクラする。
 視界が回って、気分が悪くなりそうだ。枕にもたれて、その気持ち悪さが過ぎ去るのを待つ。
 
 しばらくそれに耐えていれば、大分ましにはなった。
 そうすると、自分の置かれている環境に気がつく。
 最初に目についたのは枕元の小さなテーブルの上に置いてある、ガラスコップとウォーターポットに入っている水だった。
 それを見れば、自分の喉が悲鳴を上げ始める。喉が渇いて死にそうだ、と。
 私はいつもであればしないであろう、荒々しい仕草でガラスコップに水を注ぐ。水を飲まなければ死んでしまいそうだ。水を注いでいる途中に水を少し零してしまったが、それに構えないほど私は水を飲みたかった。
 コップになみなみと注いだそれを、急いで飲み干す。誰もそんなものを取る相手などいないはずなのに、誰かにとられてはいけないとでも言うように、急いで飲み干した。
 大きめのガラスコップ一杯分の水を飲んでも、まだ私の喉は足りないと訴えかけてくる。
 先程とは違い、余裕を持って水を入れる。水を零さないように、そっと。
 それを飲み干せば、少しは落ち着いてきて、周りを見れるようになってくる。
 部屋を見渡せば、すぐに異変に気がついた。

 私の部屋ではない。

 マホガニーでできているどっしりとした本棚、その本棚に入っている貴重な専門書の数々。
 部屋の中央に置いてある机とソファ。ソファは深緑の天鵞絨で、机はくどすぎない彫刻が施されている。絨毯は柔らかそうな深緑色の物で、絨毯の間から見える床は傷一つない。
 窓から見える風景は木々に遮られていて、部屋の中は少し木漏れ日が入ってくる程度。窓の近くに配置してある、矢張りマホガニー製の棚には所狭しと大きな瓶に入ったお酒が入れてある。
 
 ここ、は。
 ーーー旦那様の部屋だ。

 どうしてこうなったんだろう、と思い返してみても、記憶に靄がかかっているかの様に思い出すことができない。
 旦那様の顔も、よく分からない。ただ、この部屋は旦那様の部屋だと言うことがわかる。
 どうしてこうなのか、意味がわからない。
 私はどしてしまったのか、必死に記憶を辿ろうとしてもそこだけぽっかりと穴が開いてしまったかのように覚えていない。
 ただ覚えているのは、幼い頃の日々と、旦那様との結婚式の様子だけ。
 それだけが私の記憶にある。旦那様は笑っている気がして、私を甘やかしてくれている。きっと良い人なのかもしれない。でも、体が旦那様の部屋にいることを拒絶している。
 私は旦那様と結婚していて………そう、2年経っている。どうしてそんな細かいことは覚えているのに、結婚生活について覚えていないのだろう。

 客観的にこんなことを考える自分がおかしく感じる。
 小説やお芝居では、混乱するところから始まるんだから。

 どうして私はこんなに冷静に考えられるんだろう。わからないことが多いけれど、何も分からない訳ではない。ただ、結婚生活の記憶がないだけ。だけ・・って言える様な問題ではないかもしれないけれど、私には分からないから。でも、私は落ち着いている。ここにいてはいけないと思う反面、ここにいると落ち着くと思う自分もいる。部屋にほんのり付いた、シトラス系の爽やかな香りが何故か懐かしい。これが旦那様の香りなのかもしれない。

 私はさっき、いつも・・・と考えた。いつもって、何? ただ、いつも、と使うことができることに不信感を持つ。きっと私は、心の奥底では分かっているのではないだろうか。いつもの生活、いつもの旦那様、いつもの私。それでいて、知らないふりをしているのだろうか。自分で何を言っているんだろう。思い出せる訳ではないのだから、きっとそんなことは覚えていない。でも、分からないことだらけで、自分が何を考えてどうすればいいのか頭が混乱してくる。
 
 自分の名前だって言える。好きな食べ物も、趣味も。勉強していることだって、なんとなくなら分かる。私は確か、いつも屋敷で女主人としてするべき仕事をしていたはずだ。それはわかっても、自分の侍女やら旦那様やらそう言うことは全くわからない。
 こんなの都合よく、記憶が抜け落ちることなどあるのだろうか。
 どうして、と言う気持ちが強すぎて、何が何だか本当にわからない。

 頭が理解することを、考えることをしたくないと言っている様に、頭が働かない。
 ぐるぐるぐる、とでも言うのだろうか。とにかく何もかもが分からないのだ。




 いつまでそうしていただろうか。
 外から静かな足音が聞こえてきて、その音はだんだん大きく聞こえるようになってきた。
 急に扉が開く。白と黒のワンピースを着た、若い黒髪のメイドらしき人が私を見て目を見開いている。
 「奥様…………。」
 そう言って、口をパクパクさせている。
 金魚みたい。

 そのメイドらしき人は私を見た後、扉を開いたまま、部屋の外に走っていった。
 ドタドタと足音が離れていって、遠くからよく響いた声が聞こえる。この子はよっぽど驚いたのだろう。
 「お、お、奥様が!」
 その声は変に上ずっていて、少し裏返っていた。
 どうしたのかしら?
 やがて部屋から離れたどこかで、沢山の人が話しているのが聞こえてきた。
 そうこうしているうちにコツコツと、下働きの人達が出さないような足音が聞こえてくる。
 私はその足音になぜか緊張して、俯いて自分の手元を見ているようにした。
 その理由はよくわからなかったけれど、そうした方がいい気がしたのだ。

 やがてその人は部屋にそっと入ってきて、その足元が目の端に写った。男の人のようだ。磨き上げられて輝いている靴が、私の寝ているベッドの前で止まった。

 「シャーロット」

 低くて聞いていて落ち着く声が、耳に伝わった。
 私はそっと顔を上げる。
 私の名前を、呼ばれたから。

 そうすれば、少し悲しみが写っているような美しい目が私を見つめていることに気づいた。
 人とは思えないほど整っている顔は、少し疲れているように見える。
 私は直感的に理解した。

 ーーーこの人が私の旦那様なのだと。

 

 
 
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