開かずの扉がひらいた!

Sora jinNai

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どうして

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 下駄箱においていた靴をとり、足を入れる。中は濡れているのかと錯覚するほど冷たかった。僕はけして寒さに強い方ではない。雪玉だって何個握れるだろうと、そう不安になりながら表へ出た。

「ふふふ……今日は雪合戦びよりだね」
 姫代は悪だくみするように腕を組んでほほえんでいた。頭から足先まで暖かくした完全防備の彼女。一方、僕はスーツにダウンを一枚着こんだだけである。特に手袋がないことが致命的だった。

「ここでやるのかい」
 僕はポケットに手をつっこんだまま彼女の横に立つ。姫代は首をかしげて上目づかいで言う。
「ここじゃ面白くないよ。やるならもっと広い場所がいい。裏に行こ?」
 スタスタと歩き出す。僕は彼女の後ろをついていった。

 屋敷を右手に沿って進む。渡り廊下をくぐると、いっきに視界がひらけた。真っ白な雪原と大きな池。それを囲うようにぽつぽつと木が立っている。その東側に河が一本流れていて、奥には純和風の小さな建物が、本館と渡り廊下でつながれていた。あれは佳乃さんがいるという離れなのだろう。

「ああ、そうだ。ちょっとここに立って」
 彼女に手を引かれ、胸の高さまでまで盛り上がった雪の前に立たされる。いったい何をさせようというのだろう。彼女はそのまま僕の後ろにまわる。そして——

「はーい、目をつぶってくださーい」
 目元を手で隠された。背中に柔らかいボアの感触がする。
「つぶりましたよ」
 パッと手がはなれ、視界は薄明るくなる。ガサガサと雪をかくような音が聞こえる。姫代は僕のまわりでなにか作業をしているらしい。

「大事なのは、目に頼らないことだよ。耳とか肌とかでまわりがどうなっているか想像するの」
「ちょっと待って。その前に、これの目的は?」
「今まで見えなかったものを見えるようにする」

 僕はドキッとする。まさかこれは、幽霊が見えるようになる儀式なのだろうか。
 霊感は生まれつきや臨死体験によって得られるもので、限られた人だけが使える認知能力という考えが一般的だ。だからその力がほしいと思う人もいて、霊感を身につける方法なんてものが流布される。当然、これらはまったくのデタラメで効果はない。そう言い切れるのは、僕自身もその方法を聞いて実践したことがあるからだ。結果は——まあ言わなくてもいいだろう。

「どれくらいこうしていればいい」
「わたしがいいって言うまで。あとは、どんなものを見たいか想像することも大事だよ。『見たい!』って強い感情が必要なの」

 僕が見たい幽霊。凍りついたような白い肌。長い髪。喉の底からゴポゴポと吹き上がるような奇怪な声。子どもの頃、僕の記憶に焼きついた恐ろしい姿。僕は女の幽霊をイメージする。幽霊は黒い髪がだらりと地面に垂らす。青白い腕がおもむろに持ち上がり、ゆっくりゆっくりと僕の首元に近づいてくる。

「イメージできたよ」
「オッケー。じゃあ、目、開こうか」

 ごくりと喉を鳴らす。僕は薄く目を開ける。刹那、正面に女が立っている。白い肌、長い髪、くり抜かれたようなぽっかりとした目が僕を見つめていた。

「どう、驚いた?」
「うん、これはすごい。きみの言う通りだね。

 目の前には文字通り、生きてない女性が立っていた。けれど、それは僕のイメージとちがって、眉間からすっとのびた高い鼻を持っているし、髪は波のようにうねらせている。全身は真っ白だが、それは雪ではなく大理石の色である。まごうことなき、一体の大理石の彫刻だった。

「てっきり幽霊が見えるのかと」
「幽霊って……どんなのを想像したの?」
「子どもの頃、映画で見たやつさ」

 すっかり肩のちからが抜け、僕はがくりとうなだれた。一瞬でもドキドキしたことがバカらしくなった。子どもみたいに期待してしまったことが恥ずかしくて、冷たい風が身に染みた。さっさと雪玉を被って屋敷に戻りたい。

「雪合戦はそうね、池の氷の上でやるのはどう?」
「え、どうしてそんなところで。だいいち、雪がない場所で雪合戦はできないよ」
「雪玉は作ってから持って行くの。球数が限られていたほうがゲームが面白くなると思わない?」

 まったく、変なこだわりだ。どうせ勝ちはゆずろうと考えていたため、正直場所はどこでもいい。姫代は氷上の戦いにやけにノリ気だったため僕はそれ以上反対しなかった。
 手近な雪をにぎって玉にする。雪の質はギシギシとしていて、強く力をこめればゆるく固まってくれる。僕は九個作って、両手に抱えて歩いた。

「ねえ、これ本当に大丈夫なの?」池の氷を前にして僕はきいた。
「大丈夫よ。ほら」姫代は氷上にとび乗り、体操の決めポーズをとった。

 しばらく歩いて「このあたりじゃだめなのか」ときいてみるが、彼女は池の中心がいいらしい。いい加減、僕は彼女に振り回されることに慣れてきた。

「ねえ、食堂での話なんだけど」
「食堂での話……もしかして聞いてた?」
「うん。池で男の人が亡くなったって話」
 なるほど。彼女は食堂の外で洋輔さんとの会話を聞いていたのだ。

「あんまり盗み聞きするものじゃないよ」
「ごめん。でも、わたしも気になったから」
 姫代は初めて落ちこんだような暗い顔を見せた。明朗快活な彼女のイメージからは想像できない姿だった。

 突然、彼女は歩く足を止める。僕は振り返って言った。
「そこまで落ちこまなくてもいいよ。これから気をつけていけばいいさ」
「そうじゃなくて、あなたには伝えたほうがいいと思ったから。それだけなの」
 どういうことだかさっぱりわからない。僕は彼女が口を開くまで、じっと見つめていた。

「あのひと、寒川洋輔ってひとの話は嘘がまじってる。だってわたしが知ってる話とちがうもの」
「なにを言っているんだ」

「事件はね、一度しか起きていないの」

 なぜ僕に、こんな場所で————

「一度目の事件で、屋敷にいた人は亡くなったんだもの。でも一人だけ生き延びた」

「それは、誰だ」意識せず、言葉が口をついた。
「それはね」彼女の唇に目が釘付けになる。だんだんと口先はしぼられて——

 う?

 その言葉が、僕の耳の奥で反響する。彼女が何かを言いかけたその瞬間——

ピシッ

 足元で、音がした。刹那、僕の体は氷の割れ目に吸い込まれ、凍てつく水の中へ落ちた——。

 グリッと心臓をつかまれたような衝撃が走る。池の水は肌を刺すように冷たい。もがいたときにはもう水面ははるか彼方にあった。

 落ちた? 池に? まずい。おちつけ。泳ぎなら得意だろう。体は動く。けれど思い通りにはならない。気づけば池の底の暗闇に引きずりこまれていた。

 苦しい。助けて。姫代、姫代はどこにいる。水中でカッと目を開き、彼女の姿を探す。しかしどこにもいない。明るい水面に彼女の影はない。

 ぶぼわああああ。声にならない叫びが泡となって吹き上がる。手足にやわらかく細いものが触れる。それはまるで意志を持つかのように、執拗に僕の体にからみついてくる。姫代はどこだ。助けてくれないのか。いや、そもそも彼女は助けるつもりなんてなかったのかもしれない。

 待ってくれ。僕はまだ死にたくない。もし屋敷に住む幽霊が僕をあの水死体と同じように殺そうとしているのなら——僕は想像し、きゅっと体が縮むように感じた。

 ごめんなさい。探ろうとした僕が悪かったです。もうこれ以上詮索しません。幽霊も事件のことも忘れます。だから、だから命だけは助けてください。

 僕は渾身の力で腕にからみついたなにかを払いのけた。それはうねって離れたが、またペタペタと触れてくる。いい加減にしろ。今度は両手でつかんで引きちぎろうとした。ぷちっと、それは簡単に切ることができた。僕が手にしていたのは長く、やわらかく、深い緑色の、水草だった。

 水面のゆらめく光がさしこみ、ほんのわずかな間だけ池の底が照らされた。きらり、と光が黄金色に反射する。

 僕ははっとして水面を見る。体に自由が戻ってきた。冷たい水に慣れてきて、思い通りに腕や足を動かせるようになってきた。

 息。息。息。息。あと一度でいいから息がしたい。
 がむしゃらに水をかく。苦しくても意識が続く限り、命が続く限り水をかく。

 かく。かく。かくかくかく。
 そんなことが、僕の意識の中で永遠にくりかえされていた。
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