沈みゆく恋 ~ 触れ合えば逃げていく者へ ~

小原ききょう(TOブックス大賞受賞)

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近代美術館②

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 僕の心情を察したのか、三崎さんが、
「只の建物で味気ないでしょ」と澄ました顔で言った。その顔は「建物なんて、どうでもいい。問題はその中にあるものよ」そう言っているように思えた。
 僕はそれには応えず、「他の美術館がどんな建物か知らないから」と返した。
 すると、三崎涼子はほんの少し笑顔を見せて、
「じゃ、北原くんさえよかったら、今度、京都の美術館でも行ってみる? 全然違うわよ」と言った。
 えっ、今度? 今回は神戸で、次は京都・・
 まだ、この中にも入っていないのに・・
 それに、僕たちはつき合ってもいない。何度も美術館に行ったりしたら、それは交際していることにならないのか? 
 いや、そんなはずはない。
 もし、これからも美術館に行くとすれば、それは「友だち関係」だ。いや、「美術館巡り用の友だちだ。きっとそうだ。
 キャンパス内で噂の三崎涼子が僕なんかと交際するわけがない。
 高嶺の花は、決して僕の元へ降り立つことはないのだ。

 美術館の壁面には大きな垂れ幕が掛けられていて、
『エミール・クラウスとベルギー印象派展』と、幕一杯に書かれてあった。
 更に建物の中に入ると、至る所に、同じフレーズが描かれたポスターが貼られているし、チラシもあちこちに重ねられている。
 エミール・クラウスの有名な絵画が、量産されているように見えた。
 僕たちは人の流れに乗るように進んだ。
 美術館に入る時も彼女が先頭で、決して横並びになることはなく、ましてや手が触れ合うこともなかった。ほとんど会話をすることなく入館した。

 順路を進んだ先には、白い壁に囲まれた空間が広がっていた。
 静かな空間だ。ほぼ予想していた通りだ。
 当然、映画館も静かだが、中は人が密集してる。だが、美術館では人の間隔が空いているし、話し声も小さい。
 賑やかな家族連れはいない。中年の夫婦や、同じく中年の一人客が多い。
「順路」に従って、僕たちは進んだ。情けないことに彼女が先頭で、僕は後から追いかける形だった。
 彼女が立ち止ると、僕も立ちどまる。そこには僕の意志はない。
館内には、画集で見た絵が数点あった。
 
 絵には、解説が添付されている。画家の名前、絵の名称、製作年、そして、絵のテーマなどが書かれている。
 三崎涼子は顔を落とし、熱心に解説を読んでいるが、僕はさっぱりだった。読んでも全く分からない。語彙が見知らぬものばかりだ。
 それでも三崎涼子は、説明書きに頭を傾け読んでいる。
 彼女はそれらを理解しているのだろうか?
「説明を読むと絵が分かるの?」とも聞けない。
 僕にできることは、説明書きを読んでいる振りをするだけだった。ああ、情けない。
 僕は解説を読むより、絵を見ることに専念することにした。

 気がつくと傍で、男女の語らいが聞こえた。見ると、若い男が同伴の女性にしきりと絵の説明をしている。
「構図がどうだとか」「色の使い方がいい」とか、男の声が流れてくる。男は両指を使って、三角の形を作り、絵の前に差し出して、女の子に見せている。
「ほら、こうやって見ると、構図がいかに上手く出来ているかわかるだろう」と言っている。
「遠近法」がどうのこうのと言っている男もいた。
 ああ、全然分からない。 
 僕の知識は一夜漬けで画集を見ただけだ。あんな風に説明はできないし、キザなセリフも吐けない。
 的確に絵を解説できる男になれたらいいのに、と思う一方で、三崎涼子とはそんな関係になるとは思えない自分がいた。
 更に思うことは、そもそも絵画というのは、あの男たちのように、ペラペラとしゃべりながら見るものなのか? ということだ。
 あの男たちは、相手の女性に聞かせるために言っているような気がした。

 僕は生まれて初めてこのような場所へ来たが、絵は黙って鑑賞するものだと思っている。絵を見て感じるものだと思っていたのだ。
 つまり、映画と同じだ。映画を見ながらあれこれ批評したりはしないだろう。
 そうは思っても、絵画の知識がない負け惜しみのような気もした。今の僕は、絵について饒舌に話せる人間ではないということだ。

 絵のことは分からないけど、
 展示されている絵は、どれも「いいな」と思った。
 画集で見た絵も、実物を見ると、何かしら伝わってくるものがあった。
 特に、ベルギー印象派を代表する画家「エミール・クラウス」の「河畔に座る少女」や「野の少女たち」などは素晴らしかった。
「河畔に座る少女」は、正式名称は「レイエ河畔に座る少女」と言い、花が咲き乱れる河のほとりに少女が座っている絵だ。顔は横向きだ。
 少女の横顔からは、孤独のようなものが伝わってくる。ずっと絵を見ていると、少女の視線の先にあるのは何か、と考えたりもした。

 そして、「野の少女たち」は、田舎の道を少女たちが歩いている絵だ。ただそれだけの絵だ。
 図書館で閲覧した時は、何も感じなかったけれど、こうして見ると少女たちの表情が手に取るように見える。少女たちは何を思いながら歩いているのだろう? そんな興味が沸いてくるのは、優れた絵の力なのだろうか。
 場所のせいもあるのかもしれない。図書館で見るとの、美術館という厳粛な場所で見るのとでは、全く違う。感覚が研ぎ澄まされるからだろうか。それとも横に三崎涼子がいるからだろうか?
 そのどちらも当たっている気がした。

「北原くん。退屈じゃない?」
 入館してから10分ほど経った頃、僕を気遣うように言った。
 僕は「そんなことはない」という風に首を振った。「退屈だ」なんて言ったら、それで終わりだ。今日という日も消滅するし、これからの展望も無くなる。
 僕が首を振ると、三崎涼子は「そう」と言って再び絵の鑑賞に戻った。

しばらくすると、彼女は何か思い出したように、僕に向き直り、
「こういう絵って、時代背景を知っておくと、面白くなるのよ。絵も違って見えるし」と言った。「その意味で説明書きを読んでいるの」と言いたいようだ。
 更に、「画家の人生や、辿ってきた恋愛なども知ると面白いわ」と楽しそうに言った。
 画家の恋愛・・そんなこと、考えたこともなかった。
 だがそう考えると、遠い存在の画家が急に身近に思えてくるから不思議だ。
 彼女は続けて、
「絵に関して言えば、光の使い方なんかも知っておくと鑑賞する時、面白いわよ」と言った。
「面白い」という言葉が気に入った。
 何も気難しく考える必要はないんじゃないか、そう思えてきた。
 そう思えるようになったのは、彼女のお蔭かもしれない。
 更に三崎涼子は、「エミール・クラウスは自身の絵を「リュミニスム」・・「光輝主義」と言ったりしているの」と言った。
「リュミニスム」とか「光輝主義」とか難しい言葉は分からなかったけれど、その言葉を聞いた後では、絵を見る目が変わってくるから不思議だ。
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