沈みゆく恋 ~ 触れ合えば逃げていく者へ ~

小原ききょう(TOブックス大賞受賞)

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その先にあるもの①

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◆その先にあるもの

 人生における喜びはこうも連続するものだろうか。
 絵画展に一緒に行った人は僕が初めて。
 そして、現在交際している人はいない。
 更に、彼女は高校の時から、現在までの事を少し話した。
 それで分かったことは、
 彼女は、現在までにつき合った男性がいない、ということだった。
 何てことだ!
 僕は目の前の彼女の事実を受け止めるように、アイスコーヒーを勢いよく飲んだ。
 
 よく言われる話にこうある。
 ・・高嶺の花には誰も手を出さない。
 そんなありふれた言葉が、ごく身近で証明されるとは夢にも思わなかった。
 高校の時は男子校だったせいもあって、女の子には縁がなかった。ましてや「本物の高値の花」なんて出会ったことがなかった。
 それが、こうして目の前にいる。三崎涼子という現実の女の子として、触れそうな距離に佇んでいる。

 これで終わりにしたくない。そんな気持ちが込み上げてきた。
 彼女との関係を今日で終わりにしたら、もうこのチャンスは二度と巡っては来ない。そう思った。
 このチャンスを繋ぎ止めておきたい。
 そう思った時、僕は「三崎さん」と呼びかけ、
「ま、また今度、絵画展があれば、一緒に行かない? 絵を見ることだったらつき合うよ」
 おそらく「つき合う」というよりも「つき合わせて下さい」と言った方が正しいかもしれなかった。
 
 ああ、でも言ってから、「しまった!」と思った。もしも絵画展がこの先ずっとなければ、彼女との交際は終わってしまう。
 だからと言って、彼女は、映画館は嫌いみたいだから、誘うことは難しそうだし、遊園地とかもダメそうだ。

 だが、三崎涼子の次の言葉は予想に反するものだった。
「いいわよ」
 たったこれだけの言葉が、こんなに素敵に人を喜ばせるものだろうか。
 僕は心の中で「いいわよ」という言葉を反芻した。
「ほんとに?」まだ信じられないという風に僕は言った。
 すると、
「私、美術館に入る前に言ったでしょう? 『行ってみる?』って」
 確かに彼女はここに入る前、
 僕が、「他の美術館がどんな建物か知らないから」と言った時、
「北原くんさえよかったら、今度、京都の美術館でも行ってみる? 全然違うわよ」と言っていた。
 言ってみるものだ、と思った。たったこれだけの言葉が、素敵な未来に案内してくれるように思えた。

三崎涼子は少し笑みを見せた上で、
「今度、西宮の大谷美術館で『ルノアール展』があるの」と言って、「これもチケットが二枚あるの」と微笑み、「一緒に行く?」と言った。
「もちろん!」
 次回は、京都ではなかったが、取り敢えず場所なんてどうでもいい。
 二回目の約束を取り付けた。その方が重要だった。
「北原くん、ルノアールって知っているの?」三崎涼子が言った。
「もちろん、『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』を描いた人だよね」
 僕が勢いよく返すと、三崎涼子は「そうよ」と言った。
 その絵を知っていたのは、たまたまだった。
 僕の家の洋室にその複製画が飾られてあるからだ。
 だから、画家の名前と作品名くらいは知っていた。問題は、ルノワールのそれ以外の絵は知らないことだ。突っ込まれことのないように、
「あの絵が好きだから、他の絵をもっと知りたい」と僕は言った。
 すると、三崎涼子は、
「私、ルノワールの絵が好きなの」と言った。
 ああ、彼女が何かの単語を口にすると、それが美しい音楽のように聞こえるから不思議だ。
「ルノワール」・・
 その言葉の響きは、詩の題名、もしくは素敵な曲の題名にすら思えた。
 だって、僕が「あの絵が好きなんだ」と言うと、彼女が「ルノワールが好きなの」と言ったからだ。
 三崎涼子とは会ってから間がないけれど、心が少し近づいた気がした。
 焦ることはない。こうして少しずつ進んで行けばいい。そう思った。

 その後、一緒に食事をすることなく帰宅した。陽が沈む前の帰宅だ。
 お互いに暗黙の了解でそうなった。
 三崎涼子が僕を美術館に誘ったのは、純粋に絵を見たかったからであって、誰かとデートしたかったわけではない。
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