沈みゆく恋 ~ 触れ合えば逃げていく者へ ~

小原ききょう(TOブックス大賞受賞)

文字の大きさ
17 / 40

その先にあるもの②

しおりを挟む
 それならば、食事は余計となる。それに食事なら、今度のルノワール展の帰りでもできる。

 別れ際、三崎涼子は「また連絡するわ」と言った。
 初めて会った時の顔を傾けるだけの挨拶とは違って、「バイバイ」と手を振ってくれた。
 ああ、何て素敵な言葉なんだろう、と思った。
「バイバイ」・・僕は彼女の声を何度も反芻した。

 別れてから気がついた。
 ああ、本のことを聞けばよかった。
 絵画に囚われていて、僕は自分が文芸部員だということをすっかり忘れていた。
 三崎涼子は文学部だし、文学の話題に振ればよかったのだ。
 彼女が何を読んでいるのか? そんな質問をすればよかった。
 だが、待てよ・・彼女は僕が文芸部だということを知っている。
 だが、三崎涼子はその事について話をしなかった。
 ということは、彼女は文学にはそれほど興味がない。もしくは、あっても二の次なのだろうか。
 いずれにしても、三崎涼子について知らないことが多すぎる。
 知っているのは、彼女が絵画に関心があることと、
 現在、彼女には交際している人がいない、ということだ。

 家に帰ると、気になっていたことを解消すべく、部屋の書架に並んだ背表紙に目を走らせた。
 三崎涼子が自分で言った「変わり者」という言葉で、ある少女の顔がふと浮かんだからだ。
 その顔は、この部屋にあったような気がした。だとすれば写真だ。
 自分のアルバムや雑誌の写真などではない。おそらく本だ。それも文庫本じゃない。単行本だ。と思いながら探すと、すぐに見つかった。
 手に取ったのは、
「分裂病の少女の手記―心理療法による分裂病の回復過程」という心理学の本だ。
 表紙が、ある少女の顔写真になっている。
 間違いない。この少女の顔だ。僕は三崎涼子との会話の中で、この少女の顔がふと浮かんだのだ。 
 これは、同じ文芸部員の九条さんという女の子から借りている本だ。

 本の内容は、ルネと呼ばれる少女が、精神分裂病にかかり、著者であるセシュエーの献身的な精神療法によって快復にいたる過程を、ルネ自身が回復後、回想的に記録したものだ。
 確か九条さんは心理学に興味を持っていて、「この本、面白いよ」と言って貸してくれたのだ。九条さんは本を貸すのが好きなのか、「返すのはいつでもいいから」と言って、他にも遠藤周作の「沈黙」やサガンの「悲しみよ、こんにちは」とかも貸してくれた。
「悲しみよ、こんにちは」は読んで九条さんに返したが、この本は、難しそうなので後回しになっていた。
問題は、その本の表紙だ。
 表紙になっている「ルネ」という少女。
 三崎涼子と似ている・・その顔立ちではない。ルネは異国の少女で、三崎涼子は日本人だ。
 その顔が訴えかけるものが似ているのだ。
 そして、ルネと少女は・・鉄格子の中にいる。鉄格子の鉄棒に指を絡ませ、悲しそうな表情をしている。
 自分の境遇、或いは心を悲しんでいるのだろうか?
「早く私を解放して・・」そう言っているような気がした。

 そこまで思いを馳せらせると、「気のせいだ」と僕は心の中で言った。
 あんなに輝くような三崎涼子と、この少女が似ているわけがないじゃないか。
 それに、顔のイメージ以外は、三崎涼子とは何の共通点もないではない。
 対立する心が交錯する中、僕は本を読み始めた。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

小学生をもう一度

廣瀬純七
青春
大学生の松岡翔太が小学生の女の子の松岡翔子になって二度目の人生を始める話

不思議な夏休み

廣瀬純七
青春
夏休みの初日に体が入れ替わった四人の高校生の男女が経験した不思議な話

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

プール終わり、自分のバッグにクラスメイトのパンツが入っていたらどうする?

九拾七
青春
プールの授業が午前中のときは水着を着こんでいく。 で、パンツを持っていくのを忘れる。 というのはよくある笑い話。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...