沈みゆく恋 ~ 触れ合えば逃げていく者へ ~

小原ききょう(TOブックス大賞受賞)

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吉原奈津子

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◆吉原奈津子

 朝、校内に入ると、まず向かうのが掲示板だ。
 掲示板には、講義の休講の案内が貼られてある。
 たくさんある中から、一時限目の講義が休講になっていないか、目を走らせる。その後の講義も調べる。
 ああ、一時限目が休講だ。急いで来て損をした気になる。更に言えば二時限も空いているから、昼まで暇になる。学費を返して欲しいくらいだ。

 掲示板を見上げている人は何も僕だけではない。
「ああ、またあの先生、休講だぜ」とか、
「一時間以上の時間潰し、何しよう・・」とそれぞれ言っている。
 休講で時間が空いた人は、生協の喫茶室、もしくは、学生会館のラウンジで時間を潰したり、図書館で自主学習をしたりする。
 僕の場合は、部室に直行だ。
 急な休講で行き場を失うと、僕はいつも部室に直行する。
 部室では、僕と同じように休講、もしくは講義をさぼっている部員がだべっているだろうから、時間潰しにはもってこいだ。

 だがその日の部室はいつもと違った。
 部室には灯りが点いていなかった。
 長細い部屋の窓から差し込む光だけで本を読んでいる人がいるだけだった。
 それは「吉原さん」という二回生の女性だ。
 僕と目が合うと、コクリと頷き、再び手元の文庫本に目を戻した。 
 何だか、女性と二人きりは気まずいな、と思った。
 しかも上級生だ。一対一で話したことがないし、読書会でもあまりしゃべらない人だ。
 天真爛漫を絵に描いたような佐伯先輩とは対照的だ。

 せめて、「北原くんも休講なの?」とか訊いてくれたら、「そうなんですよ、あの先生、休講が多くて困りますよ」とか言って挨拶代わりになるのに。
 そんなことを思いつつ、重い鞄を長椅子に置いて、
「電気を点けていいですか?」と言った。
「どうぞ」短い返事が返ってきた。部屋の蛍光灯を点けると、ドア側に近い椅子に座った。そして、同じように文庫本を取り出した。
 二人の距離はかなり離れている。
 吉原さんは、長テーブルの奥の方で、僕はドア側。つまり端と端だ。

 窓の外から、吹奏楽部の楽器の音や、女性コーラスの声が流れ込んでくる。
 その喧騒が、逆に部室の静かさを浮かび上がらせている。
 誰か入って来ないかなぁ・・同じように休講になった部員が来ないかな。
 この沈黙が耐えられない。いっそ部室から出ようかな、と思ったりもした。

 本を読みながら、そんなことばかり考えているので、本の内容が全然頭に入って来ない。
 よりによって持参した文庫本も遠藤周作の「沈黙」だ。女性部員の九条さんのお勧めで読んでいるが、僕には少し難しい。題名の「沈黙」はこの部屋の沈黙の意味とはかけ離れているが。

 僕は吉原先輩の横顔をチラチラと盗み見しながら、
 三崎涼子に初めて出会った生協の本屋さんでのことを思い出していた。
 あの時、三崎さんを讃えていた男子学生たちがこう言っていた。
「ミサキさんより、ヨシワラさんの方が上だろ」
 あの時の「ヨシワラ」というのは、今ここにいる吉原奈津子さんのことだったのだろうか?
 仮にそうであったとしても全然おかしくない。
 吉原さんは、部内でもそう言われている。
 ただ・・難を言えば、ひたすら暗いのだ。暗いと言っても陰湿な暗さではなく、良く言えば、「大人」なのかもしれない。
 まあ、明るい文学少女も考え物だが、佐伯先輩のような明るい女性とどうしても比べてしまう。

 ようやく「沈黙」を一ページ捲ると同時に、
 吉原さんは文庫本をパタンと閉じた。
 そして、僕の方を向いて、
「ねえ、北原くん・・」と声をかけた。
「は、はいっ!」
 僕は、テレビで見た兵隊のような返事をしてしまった。
 僕が吉原先輩と向き合うと、
「その本、『沈黙』・・面白い?」吉原先輩はそう訊いた。
 僕は文庫本にカバーを付けない主義なので、読んでいる本が丸分かりなのだ。
「今の所・・そうでもありません」
 僕は実直な会社の部下のように応えた。
 すると吉原さんは少し笑みを浮かべ、
「私の本も面白くないの」と言って、さりげなく文庫本の表紙を見せた。
 それは岩波文庫のキルケゴールの「死に至る病」だった。哲学書だ。
 哲学書は読書会では扱われないことになっているが、吉原さん曰く、部長に勧められたとのことだ。
「それ、どんな本なんですか?」
 それほど興味は無かったが話の流れ上、訊いた。
 すると吉原さんは再び本を開き、
「『死に至る病』とは絶望のことである・・」と言った。
 絶望・・
 人はどんな時に、そんな究極の感情に陥るのだろう。その本を読めば分かるのだろうか。
 吉原さんは、断片的に、キルケゴールの言葉を並べた後、
「お互いの本が面白くないし、ここで読書を続けるのも体に悪そうね」と言った。
 吉原さんの言った「体に悪い」というのは、「空気が悪い」ということだ。
 ここは煙草の匂いが染みついている。窓を開けても、臭いは抜けない。

「私、二時限目も予定が無いのよ」
 と吉原さんが言うと、
「同じです」と僕は部下のように言った。
「それなら、少しお茶でもしようか?」
「は、はい!」
 改めて吉原先輩の顔を見ると、その美しさに驚く。高い鼻、エキゾチックな瞳。まるで異国の人みたいだ。

 顔を見られていることに気づいたのか、吉原先輩は、
「北原くん・・」と呼びかけ、
「別に断ってもかまわないのよ」と言った。
「断る理由なんてありません」と僕が言うと、吉原さんは、
「もしかして、北原くんって・・NOが言えないタイプ?」と言って微笑んだ。
 吉原さんの言う通りかもしれない。

 僕たちは喫茶店に場所を移した。
 てっきり、佐伯先輩の時と同じように、階下のラウンジで缶コーヒータイムかと思っていたが、まるっきし違った。
 吉原先輩に連れて行ってもらったのは、大学から駅に向かう途中にある店だった。
 川沿いにあるその店は、珈琲専門の店で、コーヒー一杯が、学食の倍以上もする。
 その店名もズバリ「珈琲館」という名称だ。
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