沈みゆく恋 ~ 触れ合えば逃げていく者へ ~

小原ききょう(TOブックス大賞受賞)

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それが愛

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◆それが愛

「吉原さんも絵を見るんですか?」
 もしそうなら、色々と教えてもらいたい。
「昔はよく見たわね」
 まだ大学生なのに「昔」と言った。一体いつのことだ?
「好きな画家とかいるんですか?」
 僕が訊ねると、
「誰が一番好きかと言われたら、ゴッホかな」
「ゴッホ・・」
「フィンセント・ファン・ゴッホ・・日本の美を愛した画家よ」吉原さんは強く言った。
「そうなんですか」
「他に、モネ、セザンヌ、ゴーギャンとかも好きよ」
 それぞれに有名な絵は知っている。例えば、ゴッホだったら、「ひまわり」モネは、「水連」「日傘を差す女」とか・・けれど、それ以上は知らなかった。
 吉原さんはその後、
「画家も小説家も、『誰が一番好き』とかじゃないわね」と言って微笑んだ。
「どういう意味ですか?」
「だって、好きな画家の作品の中でも気に入らない作品はあるし。小説家だってそうでしょ。好きな作品に出会って、他の小説を読もうとすると、自分の求めているものと違うことってあるじゃない?」
「それはあるかもです」

 心当たりはある。川端康成の「古都」を読んで、次に「舞姫」を読むと、その落差を感じたりする。決して「舞姫」がダメなのではなく、自分と合わないっていうことが。
 吉原さんは続けて、
「身近な人間に置き換えると、こういうことよ」と前置きして。
「嫌いな所、又は苦手な所をひっくるめて、その人を好きになるっていうこと、それがつまり『愛』なのよ」と言った。
「ああ、あれですね。『あばたもえくぼ』っていうやつですね」
「そうそう。ちょっと違う気がするけれど、近いわね」
「嫌いな箇所も受け入れる・・っていうことですか?」と僕は訊いた。
 すると吉原先輩は、「そうだけど」と言って、
「それって、良いことなのかしらね」と疑問を呈した。

「えっ」と僕が訊き直そうとすると、「何でもないわ」と返した。
 吉原先輩は話を変えるように、
「物事は、置き換えをしてみると、色々と浮かび上がってくるし、創作のネタになるわよ」と言った。
「置き換え・・ですか」
「例えば、さっきの美術館を置き換えましょうか」
「『美術館が無くても生きていける』っていう言葉ですよね」
「美術館を自分の好きな人に置き換えて言ってみるとか」
 吉原さんはそう前置きしてこう言った。
「私は、あなたがいなくても生きていくことができるけれど、この世界にあなたがいないと、生きている意味がない」
 そこまで言って吉原さんは「ね、上手く繋がるでしょ」と微笑んだ。そして、こう言った。
「少なくとも私は、あなたのいない世界では生きていこうとは思わない」
 その口調に感情が籠っている気がして、ドキリとした。
 まるで、吉原奈津子という女性がこの世界から消えてしまうような気がしたからだ。

 会話に間が空くと、僕は話を変えるべく、
「どんな本を読んでいるんですか?」と、絵画から文芸部らしい話に移した。
 その問いに返ってきた作家名は、三島由紀夫に川端康成、太宰治や芥川龍之介という具合に署名な小説家の名前が並んだ。
「みんな、自殺した作家ですね」と僕は前置きして「先輩、ワザとそんな作家を選んだでしょ」と言った。
 吉原さんは、「たまたまよ。一般的な作家を言ってみただけ」と言って、
「あと、小説家じゃないけど、高野悦子の『二十歳の原点』という本は何度も読んだわね。あの本はお勧めよ」
「その人、知っています。学生運動に関わった人で、鉄道自殺を・・」そこまで言って言い淀んだ。
 ああ、また自殺した人だ。
 僕が指摘すると、吉原さんは「そう言えばそうね。たまたまを超えているわね」と笑って、
「みんな、いなくなっちゃったね」
 吉原さんは小さく言って、また窓の外を流れる川に目を移した。

 その時、文芸部員のドストエフスキー好きの中垣が言っていた言葉を思い出していた。 
「恋に破れて、自殺する人間は心が弱いんだよ」
作家や普通の人が皆、恋に破れて命を捨てたとは限らないが、目の前の吉原さんを見ていると、僕は自然とこんな言葉が出た。
「自ら死ぬ人のことをどう思いますか?」
 すぐに返事が返ってきた。
「綺麗だと思うわ」
 その後、吉原さんはこう続けた。
「恋が原因だとするなら、その瞬間、その人は、相手の人のことだけを想っているのよ。仮に恨んでいる場合でも、他の事は一切頭にないと思うわ」
「他の事が頭にないって・・」
「純粋だということよ」吉原さんはそう言った。
「そんなものでしょうか?」
 僕は小さく言った後、図書館で読んだ画集の中に書いてあったことを思い出した。
 ファン・ゴッホ・・彼も自害している。
 僕がそのことを言うと、吉原さんは「そうね」と言って、
「彼の絵は最初、暗かったのよ。でも次第に明るい色彩になっていった」と話を逸らすように言った。
 死が近づくにつれ、色彩が明るくなっていったのだろうか。
 そんなことを考えながら、さっき部室で吉原さんが読んでいた小説を思い出していた。
 キルケゴールの「死に至る病」の中の言葉。
「死に至る病とは絶望のことである・・」

 大学に戻りながら吉原さんは、「暗い話ばかりして、ごめんなさいね」と謝って、
「これで、私が部の中で、暗くて浮いているのが分かったでしょう?」と言った。
「全然、暗くなんてなかったですよ。楽しかったです」
 僕はそう言って、
「でも、おかしいですよね、暗いと『浮く』なんて。それが旅行研究会とかだったら、分かる気もするけど、僕たちは文芸部ですよ。本来、本を読む行為って、自分のに浸るものじゃないんですか? 読書は基本は暗いですよ。明るい読書なんてないですよ」と言った。
 吉原先輩は、「明るい読書」という言葉に少し笑って、
「普通はそう思うけどね、私の場合はちょっと違うのよ」
 吉原先輩がそう言った時、大学に着いた。
 別れ際、吉原先輩ともっと話がしたい、そう思っていた。
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