沈みゆく恋 ~ 触れ合えば逃げていく者へ ~

小原ききょう(TOブックス大賞受賞)

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瓦解の足音

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◆瓦解の足音

「言うまでもなく、人生は崩壊の過程である!」
 三回生の佐伯先輩がいきなり言った。
 場所はいつもの部室。
 この時間は、佐伯先輩と僕たちがよく顔を合わす。僕たちというのは、夏目漱石を愛読している小山と、ドストエフスキー好きでミリタリー好きの中垣だ。
 僕は結構このメンバーが好きだ。男子の中で女性が一人、ということもあるし、佐伯先輩は明るく包容力がある。
 そんな佐伯先輩は、これまでそんなに部室にいることは無かったが、四回生の男子に振られてからは、時間を持て余すようになって後輩たちと駄弁るようになった。あくまでも推測だが。

 普段は雑談のメンバーだが、今日は珍しく皆が本を読んで過ごしていた。 
 僕は九条さんに借りっぱなしになっていた「精神分裂病の少女の手記」を読み、小山は夏目漱石の「それから」を開き、中垣はドストエフキーの「未成年」を読了したらしく、今度は同じくドストエフスキーの「虐げられた人々」を読んでいる。もう五回目だそうだ。
 佐伯先輩はブックカバーをしているので、何を読んでいるかは不明だ。
 小山が「佐伯先輩は何を読んでいるんですか?」と訊ねると、佐伯先輩はブックカバーを外し「井上靖さんの『あすなろ物語』よ」とカバーを見せた。
 やはり佐伯先輩はイメージ通りの人だ。キルケゴールの「死に至る病」でなくて良かった。
 読書なら、図書館で読めばいい、と思うところだが、僕や部員にとっての図書館は自主学習をするところ、もしくはお目当ての本を探すところで、読書の場所ではないようだ。
 中垣曰く、「この部室は、読書の為の部室だよ」だ。
 ちょっと違う気もするが、概ねそういうことだ。
 更に突っ込んで聞くと、更に中垣曰く、「図書館の閲覧室は、カップルでいちゃついているのが多いから読書に集中できない」
 それは一理ある。確かにそうだ。それに比べて部室でいちゃついてる人はいないし、そんな男女もいない。

 その中、沈黙に耐えられなくなったのか、突然、佐伯先輩がパタリと本を閉じ、「人生は崩壊の過程だ」と言ったのだ。
「佐伯先輩、急にどうしたんですか?」僕が訊くと、
 佐伯先輩は、「この言葉、いいわよねえ」と言って、「これは、フィッツジェラルドのエッセイの冒頭の文よ」と続けた。
「佐伯先輩は、井上靖の『あすなろ物語』を読んでいたんじゃないんですか?」
 小山が言うと、佐伯先輩は「ちょっと読むのに疲れちゃったのよぉ。それで気分転換にフィッツジェラルドの言葉を叫びたくなったのよ」と言った。
「気分転換で叫ばれたりしたら、静かな読書のいい迷惑ですよ」小山は言った。
「井上靖で疲れていたりしたら、ドストエフスキーなんて読めませんよ」中垣がきつい言葉を吐いた。
 すると、佐伯先輩は、「そんなことを言わないでよ。先輩だって、傷つくわよぉ」と笑った後、
「この言葉ね、実は吉原さんの好きな言葉なのよ」と言った。
 二回生の吉原奈津子さんとは、先日、珈琲館に一緒に行った。
 普段、話すことのなかった人だが、話せば面白いし、言葉の端々に意味有りげなことが含まれている気がした。

「言うまでもなく、人生は崩壊の過程である!」
 佐伯先輩は再度繰り返し言った。すると小山が、
「人生が崩壊の過程って、そんなことを言っちゃったら、身も蓋もないじゃないですか。僕たちは未来に向かって歩んでいるんですから」と言った。
「でも、その通りだろ」中垣が突っ込んだ。「僕たちは、多かれ少なかれ、死に向かって生きているんだよ」
「そうよねえ、私のお肌も、20歳を超えたあたりから、張りがなくなってきているのよねえ。まさしく『崩壊の過程』よねえ」
 お肌の崩壊?
「佐伯先輩、フィッツジェラルドの言葉って、そういう意味なんですかあ?」小山が言った。
「違うに決まっているだろ!」中垣が突っ込んだ。

 そんな掛け合いの中、佐伯先輩は話を振り戻すように、
「どんな名言にもねえ、名言たらしめる要素がくっついているものなのよ」と言った。
「例えば?」と僕が言った。
「この言葉では、『言うまでもなく』かな?」佐伯先輩はそう言った。
「言うまでもなく」・・
 その語気の強さは、崩壊した人生を目の当たりに見たフィッツジェラルドの実体験があるからだろうか。
 僕は話のついでに、
「この前、吉原先輩と本について少し話したんですけど・・」と切り出した。
 すると、小山が「吉原先輩が下級生と話すなんて珍しいね」と言った。
「たまたまだよ。この前、部室に来たら、吉原先輩しかいなかったんだ。二人とも、二時限目も休講だったから、二人で喫茶店に行ったんだ」僕はそう説明した。
「北原、お前、あの吉原先輩と二人きりなんて、何て贅沢な奴なんだ」中垣が怒り口調で言った。
「あれ、中垣くんは女性には興味がなかったんじゃなかったけ?」
「そうだよ、矛盾だ!」小山が後に続いた。

 すると中垣は平気な顔で「吉原先輩は別格です」と言った。ここに佐伯先輩という素敵な女性がいるにも関わらず。
「ちょっと、中垣くん。それって、ちょっと酷くない?」
 確かに佐伯先輩に失礼だ。
 それを悪いとも思わないのが、中垣だ。僕に向かって「俺、今、変なことを言ったか?」と眉をしかめている。
 いつものことだ。小山が中垣に「言葉というのはねえ・・」と説いている。
「なるほど、口は災いの元・・ということだな!」中垣は勝手に変な理解をしたようだ。
 その様子を見て佐伯先輩は、
「みんな面白いわねぇ」と笑った。
 下級生にひどいことを言われても、さらっと受け流すのが佐伯先輩の良い所なのかもしれない。

 皆が笑い終えると、佐伯先輩が、「それで吉原さんとは、何か面白い話をしたの?」と感心を寄せた。
「いえ、特には」と返した後、
「吉原先輩に好きな作家名を訊いたら、自殺した作家の名前ばかり上げたんですよ」と言った。僕が太宰治等の名前を上げると、
「あら、そうだったかしら?」佐伯先輩は首をひねった。
「えっ、違うんですか?」
「吉原さんは・・」佐伯先輩は一呼吸つき、「さっき話に出たフィッツジェラルトとか、ヘミングウェイ、サリンジャーなんかの西洋文学が好きだったと思ったけど、この前も、フローベールの『ボヴァリー夫人』を読んでいたわよ」と言った。
「人の好みは変わりますからね」小山が話を締めた。

「最近、伊藤を見ないですね」と僕が言った。
「さっきから、部室が静かだと思ったら、伊藤がいないからだ」中垣が言った。
 一回生の伊藤は、いたって普通の学生だ。どうして文芸部に入ったのか、と思ったくらいだ。
「あの子、辞めちゃったのよ。昨日、部長に退部届を出したらしいわ」佐伯先輩が残念そうに言った。
「早っ! それに俺たちに黙って辞めたのかよ」中垣が言った。
「伊藤くんは、あまり文学に興味が無かったんじゃないかな」小山が静かに言った。
「伊藤は、辞めてから、他の部に入部に入るとか、言ってました?」僕が訊いた。
 僕の質問に佐伯先輩は「部長が言うには、旅行同好会らしいわ」と言った。
「全然、毛色が違うじゃないか」中垣が言うと、小山が「最初から、そっちに行っとけばよかったのに」と言った。
 更に中垣は伊藤のことを、
「あいつ、彼女がいるくせに、女の子目当てだったんだろう。それで、入ってみたら、女子の数が圧倒的に少なくて、ガッカリしたんじゃないか?」と言った。
「それって、不純な動機よねえ」佐伯先輩が言った。

 その話の中、中垣が「あっ」と何か思い出したような顔で、
「そういや、この前、北原の彼女を見かけたぜ」と切り出した。
「だから、三崎さんは彼女じゃないって・・」と僕が言おうとすると中垣は、
「お前の彼女、キャンパス内を、男と歩いていたぜ」と言った。
「そりゃ、彼女も誰かと歩いたりするだろう。僕と歩いたこともあるし」と小山が言った。
「そうよ、私だって、男の人と歩くなんてことしょっちゅうよ」佐伯先輩が笑った。
 二人の言う通りだ。何の不思議もない。
 中垣の言葉を聞き流そうとすると、
「いや、そんな感じではなかったぞ」
 中垣は皆の言葉を全否定するように強く言った。
 同時に僕の心が揺らいだ。
「俺には、二人が恋人同士に見えたよ」
 中垣はそう言った。
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