オム・ファタールと無いものねだり

狗空堂

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2.龍の髭を狙って毟れ!

鶏に埋もれるな

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 旧図書館は相変わらず薄暗い。夕方のこの時間でこの暗さなら、夜更けや冬の時期の灯りはどうしているのだろうか。
 重い扉を押して入りふかふかの絨毯の上を歩いて行けば、奥から話し声がした。居るのか、そこに。
 いつかと同じように行儀悪く背の低い本棚に腰かける大男。それに対面してこちらに背を向けているのは、きっと鶴永だろう。

「いつまで待たせる気なん?」
「もうそろそろ——、ああほら、おいでなさった」
 俺と目が合ったトンビがにやりと笑ってこちらを指さす。鶴永がゆっくりと振り返った。

 鋭く釣りあがった双眸、不機嫌に下がった薄い唇、泣き黒子。先日トンビに見せてもらった写真と相違なかった。

「……こんにちは、初めまして」
「ああなんや、あのアバズレんとこの番犬クンやないの」
 ハッと鼻で笑われる。あからさまな挑発にピキリと青筋が立った。誰がアバズレだって?
「すみません、よく聞き取れなくて。俺の大事な主人のことを、今、なんておっしゃいました?」
「スマンスマン、難しい言葉は分からんよなァ。尻軽、ビッチって言うんたんよ。今日はお守せんでええの?」
「…………」
 狐のような目を細めてにっこりと笑う鶴永。

「ワンちゃんも大変やなァ。ご主人が誰彼構わず咥え込むんやもん。……ああいや、前野はそうやって大きくなってきたんやっけ? 堪忍なァ、鳳凰院には到底真似できんで、感心してもうて」

 物凄い鬱憤が溜まっていたのだろう、篤志ディスが留まるところを知らない。コイツ、よくもこの俺の前で篤志のことを悪く言えたな。命が惜しくないのか?
 ふつふつと沸騰し始める脳と臓腑を必死で押さえつけて口を開く。落ち着け、俺は喧嘩をしに来たんじゃない。あくまで取引をしに来たんだ。

「……そんなアバズレの尻を追いかけてるボスに仕える犬は、もっと可哀想ですね」
「……ッ! 違う、あんなん一時の気の迷いや! 将成様があんなんに現抜かすわけ、」
「そう、一時の気の迷い、興味本位、珍しい生き物を観察しているだけ。鳳凰院先輩は他の発情期の雄共とは違う。そうですよね」
 掴みかかって来た腕を逆に捕まえてそう言えば、鶴永は明らかに動揺する。


「だからそんな鳳凰院先輩の目を覚ます為に、取引——しませんか?」





 話が長くなりそうだから、とトンビに椅子をすすめられて、鶴永と長机を挟む形で椅子に座った。カチャリ、と目の前にティーカップが置かれる。見上げれば、にやにやとしたトンビが「召し上がれ」と囁いてきた。

「どっから出してきたんだ……」
「お客様をもてなすにはある程度のモンが必要だろ? 電気ケトルは便利だよなぁ」
「学校のモンを私物化するな」
「『旧』図書館だぜ? 誰も使ってないんだ、そう目くじら立てるなよ」

 こいつ、もしかしてここに住んでるんじゃないのか。じとりと睨んだ後、気を取り直して鶴永に向き直る。鶴永は差し出されたカップを眉を寄せて端に避けていた。まあそうなるわな。

「で、取引って?」
「鳳凰院先輩と龍宮先輩が親睦会に参加するのはご存じですか」
「当たり前やろ。そのせいでうちは大荒れや」

 はあ、とため息を吐く鶴永の目の下には薄っすらとクマがある。大方風紀委員会の中でも意見が分かれていて揉めまくっているのだろう。
 少数精鋭の生徒会と違って、各クラスに二人ずつ居る風紀委員会は組織としての規模がデカすぎる。まとめ上げるだけでも一苦労だろう。

「俺たちは、二人に篤志が捕まらないように作戦を立ててます。先に捕まえられないかとも考えているところです」
「豚も巻き込んでコソコソ何かやっとると思ったら、なんやそないアホらしい作戦立てとったん? 生徒会の王様ならまだしも、将成様から逃げ切るなんて誰も出来んやろ」
「そうですね、俺達じゃ太刀打ちできない。でも——アンタは違うだろ」
「あ?」
 鶴永の柳眉がつり上がる。これは先日トンビから買い取った情報。あの男は信用できないが、あの男の情報は信用できる。

「剣道部副部長も熟していて、四月に行われた体力測定の結果も全校で鳳凰院先輩に次いで二位のアンタなら、本気出せば食らい付けるはずだ」

 学年が上がってすぐに行われた体力測定。全校生徒内で一位は鳳凰院、二位が鶴永、三位が龍宮。あの二人に対抗できるとすれば、きっとコイツしか居ない。


「聞いたぜ、あの人自身は超実力主義。鳳凰院に仕える一族の中でも最低ランクの家の出だったアンタを、見初めて傍仕えに引っ張り上げたのはあの人らしいな。だからアンタはあの人に並々ならぬ恩義を感じてる」

 鶴永は鳳凰院一族に代々使える使用人の一族で、その中でも最下層の地位だったらしい。江戸時代から続く大財閥の鳳凰院には、血筋によるランク付けという因習が色濃く残っている。鶴永など、本来であれば鳳凰院の御前に出る事さえ許されない身分なのだという。まったく反吐が出そうな話だ。
 だが、鳳凰院将成は違った。幼い鶴永の身体能力と賢さを見抜き、周囲の反対を押し切って傍仕えに召し上げた。そりゃあ確かに崇拝もするだろう。

「だから、言う程実力のない篤志が簡単に気に入られているのが我慢ならない。『俺の方が使えるのに』、『俺の方が貴方のことを理解しているのに』。そう思うのは当たり前だ」
 だけど鶴永は忠実な家臣だから、絶対である主に対して何かを進言することなどしない。どれ程不快でも、どれ程不満があろうとも、口の中に血の味を滲ませながら黙って頭を垂れ続ける。そんなものは奴隷と同じだ。

「……よくもまあ、そんなに知っとるね。キッショいなァ、お前」
「おいおい、そんな事言ってやるなよ。可愛い努力じゃあないか」
「……お前、売ったな」
 ギロリとより一層眼光を鋭くさせてトンビを睨む。肩を竦めるだけの男に、心底軽蔑したような声音で吐き棄てた。

「ハッ、身内の情報も売るなんて、本当に金にがめつい卑しい奴やな。母親にソックリや」
「嬉しいねぇ、父親に似なくて」
「…………えっ?」
 ポロリと出てきた情報に思わず声を上げてしまう。身内。もしや——と思って二人の顔を交互に見るが、全くと言って似ていなかった。

「アホ、やめろやその目。広義の意味でや。こんなのと血が繋がっとるなんて、考えただけでも反吐が出る」
「こ、広義の意味って」
「おっと、その情報はお高いぜ? いくら出す?」
「……要らねぇ」
「そうか、残念」
 トンビのことを知ったところで何の得にもなるまい。ちょっと気にはなるけど。

 鶴永が咳払いをして俺に向き直る。俺も背を正して男の目を見る。さあ、気を取り直して商談の続きだ。

「で、番犬クンは何して欲しいのん? 将成様を捕まえろって? あほらし」
「そうです」
「…………は?」
 ぽかんと口を開けて間抜けな声を出す鶴永と、その後ろで口を押さえて必死で笑いを堪えているトンビ。そんなに面白い事だろうか。

「だから、アンタが鳳凰院先輩を捕まえて下さい。親睦会で」
「ア……ホ、やろ、おま、仮にも主人やぞ? 俺が将成様を捕まえるなんてそんな恐れ多い事、」
「それ。そんなんだから飽きられるんじゃないですか」
「……あ゛?」

 ピキリ、と青筋が立つ幻聴が聞こえた。多分これは鶴永の地雷原だ。そこを、あえて、踏む。なんならブレイクダンスもコサックダンスもする勢いで。現実でそんなの出来たことは無いが、まあ脳内イメージである。


「ここしばらく鳳凰院先輩を観察していました。あの人は超合理主義者だ。『使える』と思った人間には必ず声をかけて手に入れようとする。現に篤志や猪狩たちも、風紀委員に何度も勧誘されています」
 よく言えば分け隔てなく、悪く言えば見境なく。人を家柄や人柄ではなく有用性で判断するその一貫した生き様は、いっそ惚れ惚れする程見事だ。

「あの人は常に使える人間を求めている。アンタはあの人を崇拝しすぎて、無意識にブレーキをかけてるんじゃないですか。『自分があの人より上にあってはいけない』と」
「何を、」
「体力測定のデータ、見ました。いくつかの項目で不自然に記録が落ちている。アンタ、やろうと思えば鳳凰院先輩の記録を抜けた種目があったでしょ。なのに変な考えで手を抜いた。あの人にはそれが分かった。だからアンタに興味を失った。自分に遠慮して手加減するような人間は必要ない、と」

 これらは全部、データから見た憶測だ。どこまでが正解でどこからが勘違いかは分からない。だが、鶴永の動揺っぷりを見る限り、的を外してはなさそうだ。まだど真ん中を射貫いても無いが。

「だからここで証明しないと。篤志よりも自分がずっと優秀で、鳳凰院の役に立てるって」
「……たかがガキのお遊びやろ、そんなんで何が証明される」
「『たかがガキのお遊び』だから、ですよ。例えここでアンタが反旗を翻しても、『学校行事に真剣に取り組みました』で片付けられる。合法的に主人に歯向かえるってわけだ。学園を卒業したら、そんなチャンスは殆ど回ってこないだろう。そしたらアンタは一生『そこそこ便利でそこそこ使える、数居る従者の内の一人』で終わりだ。鳳凰院先輩は三年生。アンタがアンタ自身の価値を証明できるのは、今年が最後なんじゃないのか」

 だん、と机に手をついて身を乗り出す。ずっと隣に居た大切な相手が、自分じゃない誰かに信頼を置いている姿を見るのは悔しい。俺だって篤志が鹿屋や猪狩を頼っているのを見ると、歯がゆい気持ちでいっぱいになる。
 俺の方が長く篤志と一緒に居るのに、俺の方が篤志に信頼されているのに。そういう悔しさを、知っている。

「篤志と戦いたいんだったら、なりふり構ってる暇なんて無いぜ。うちの主は、あれで居て強敵だ」
 鶴永の視線が僅かに揺らめく。迷っている。そうだろう。
 家柄にガチガチに縛られたコイツにとって、学生としてある意味対等で居られるのはあと少ししかない。この学園の敷地を出れば、もうただの主従に戻ってしまう。


「……あほか。帰らせてもらうわ」
「ッ、待ってますから! その気になったらいつでも声かけてください! 俺、一年B組の後田宗介ですよ!」
 立ち上がって去っていく背中に向かってそう叫ぶが、その長い足が止まることは無かった。遠くで重たいドアが閉まる音がする。商談が、終わった。

 蒔ける種はありったけ蒔いた。それがどう咲くか、そもそも根腐れして枯れるのか、それは誰にも分からない。後は鶴永の精神性に全て託された。




「せっかく淹れたのに、勿体ないな」
 トンビがニヤニヤと笑いながら俺の対面に座って、全くの手付かずで冷めきった紅茶に口を付ける。勿論俺だって一口も口を付けていなかった。何が入ってるか分かったもんじゃない。

「今のは『検討しますので少々お時間をください』の意だな。あの調子じゃあすぐに連絡を寄越すだろうよ」
「翻訳家か?」
「なんやかんや分かりやすい男だぜ、アレは」
 随分と気安い口ぶりだった。上手くいったのだろうか。自分の手元の赤い水面を見つめる。

 鶴永と俺の立場は割と似ている。最悪な環境から救い出してもらった奴同士。同じ立場に居る人間として、俺が絶対に他人から言われたくないであろう言葉をあえて言った。

 俺は、篤志にとって代替可能な存在になんてなりたくない。アイツだって同じはずだ。だってアイツが鳳凰院を見る時の目は、少年がヒーローを見つめる眼差しと一緒。家柄に縛られて仕方なく従っている、なんて関係じゃないことは明白だ。
 ならば、誰だって。憧れの人には認められて褒められたいものだろう。

「それにしてもお前、本当に面白いな。あの鶴永を仲間に引き入れようだなんて、内部生が聞いたら卒倒するぜ」
「使えるモンは使う。手段なんて選んでたら、あの人たらしは守り切れない」
 ふ、と紅茶の水面に影が落ちる。顔を上げると、目を細めたトンビが覆いかぶさるようにして見下ろしていた。音もなく忍び寄ってくる奴だな。

 ずるりと喉仏を撫でて、そして唇に触れた。少しかさついた指の腹がふにふにと唇の感触を確かめるようになぞる。ぞわり、と鳥肌が立って振り払った。キショい。なんだ急に。


「俺は面白いモンが好きだ。どうせこの世界はカスみたいなもんなんだから、せめて面白くなくちゃ生きてる意味がないだろう?」
「それは個人の意見だろ」
「そう、俺個人の意見。だから俺は個人的に、お前が面白いから気に入った。次もうんとお安くしてやるから、何かあったら一番に俺を頼れ」
「素性も明かしてない奴が何を……」

 そこまで言ってはたと思い至る。先程鶴永はこいつに対して敬語を使っていなかった。風紀委員会は『委員会の品位を下げない為』と礼節に関しては徹底していると聞いた。そんな委員会の№2が、先輩に対してタメ口というのも考えにくい話だ。

「鶴永がタメ口ってことは、アンタ二年か?」
「さあな。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。シュレディンガーのトンビ、ってな」
「語感が良くないな」

 気に入っただの頼れだのと言っておきながら、自己紹介をする気は全くないらしい。まあ同じ校舎で生活している以上、いつか素性は判明するだろう。…………ちゃんとこの学園に在籍していれば、の話ではあるが。





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