〚完結〛アポカリプスまで宜しく

狗空堂

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04:ふたりぼっち、春は未だ来ず

春宵レジスタンス 3

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 どれくらいの時間、そうしていただろう。


 静まり返った春の夜の中、モゾモゾと体を動かしてゆっくりと起き上がる。衣擦れの音と、固まった関節がパキパキと鳴って解れていく音ががらんどうのリビングに響いた。

 額から流れる落ちる血はいつの間にか止まっていた。触ると固まった血の欠片がパラパラと音もなく落ちていく。背中と腹と、それから額がじくじくと熱を持っている。このままだとひどい青痣になるだろう。

 明々後日から学校だ。どうやって誤魔化そう、なんて思いながら腹の中に抱えていた宝物を見下ろす。

 酷い有様だった。
 綺麗なレリーフが彫られていた天板はところどころ欠けていて、角には黒く固まった血液が付着している。蓋はもうちゃんと閉まらない。開けても明呉を慰めるような穏やかな音楽はならない。

 這いつくばって、少し遠くに放り出されている引き出しを手に取り元に戻そうとする。だが、度重なる衝撃のせいで引き出し自体が歪んでしまったのか、上手く中に収めることが出来なかった。


「…………」

 壊されてしまった。否、自分で壊したのだ。あの日、調子に乗らずに断ればよかったのだ。

 この男の特別になれるかもしれないと少しだけでも期待してしまったから、壊されるかも、と言いながらも受け取った。あの瞬間、自分が選ばれたと錯覚して舞い上がらなければよかった。
 そうすれば、きっと渡來の宝物はあの部屋でつやつやと輝いていたに違いない。自分が、こんな家に連れて帰ってきてしまったから。

 なんでいつも壊されてしまうんだろう。いつも壊してしまうんだろう。
 結局自分もあの男と同じなのだ。どこまでも自分の事しか考えていなくて、自分は他と違うんだと、それを言い訳にして怠けて生きている。

 男が言い放つ言葉たちはどれも正論で、きっとそれらは明呉から跳ね返ってあの男自身さえも貫いている。
 あの男もきっと妻となる女と出会った時、特別になれたと舞い上がったのだ。自分は欠けている人間だというのに身の程を知らずに手に入れようとして、結局今こうなっている。同じ血が流れているから、同じ轍を踏んでいる。

 ぞっとする。何十年後かには、明呉が誰かに汚く唾を撒き散らして罵倒を浴びせているかもしれない。

 結局血は争えない。蛙の子は蛙で、白鳥になれるのは白鳥の子だけ。正真正銘の醜いアヒルの子は、大空を飛ぶことも出来ず地面で喧しく鳴くだけだ。

 ――だから、もう、良いかなって。

 どれだけ言い訳したって、この箱庭から、そして血という呪いから逃れられないというのなら。
 もう、全部が全部どうでもいいかもしれない。

 心の中でぷつりと何かが壊れた明呉は、フラフラと立ち上がって、それでも確固たる足取りでキッチンへと向かった。

 そうして、そのまま薄暗い廊下を歩いて、息を殺しながら父親の寝室へと向かう。明呉が足を踏み締めるたびに床板がギシギシと音を立てて唸った。

 部屋のドアを開ける。少しだけ開いたカーテンの隙間から覗く空は薄墨色の雲で覆われていた。春は全ての色がぼんやりしている。

 男はもうすっかり夢の中だった。首までしっかりと布団に埋もれて、汚い鼾をかいて現実から逃げるように寝ている。
 眉間に皺が寄っている。夢の中でさえも誰にも愛されない可哀想な獣に、生きている価値があるだろうか。

 少しだけ開いたカーテンの隙間から覗く薄墨色の雲が風に流され、その合間から少しだけ顔を覗かせた月が、部屋の中を照らした。


 照らした。


 明呉が手に持っている包丁を、照らした。


 ギラギラと光る刃先は明呉の思考回路を鋭利に研いでいく。

 楽にしてやらなきゃ。楽になりたい。楽にさせてくれ。これ以上壊されないために。これ以上壊さないために。


「は、っは、ハッ、…………、」
 胸の前で両手で握りしめた包丁が今更ながらにガタガタと震えだす。

 このままこれを振り上げて、布団を通り抜けて生温い肉の塊に突き刺して。叫ぶ前に枕を押し付けて声を殺そう。きっと大暴れするから初手を間違えないように、真ん中を、よく狙って。

 これが発覚したとして、皆はどう思うだろうか。学校の奴らはどうだろう。眉を顰めるけど誰だって明呉の心配はしないだろう。
 適当な着色をされてゴシップとしてファーストフードのように味わわれて、ある程度味がしなくなったら捨てられて忘れ去られていくだろう。彼らに何の思い入れも無いから別にいい。


 ごくり、と唾液を飲み込んで一歩踏み出す。仰向けに眠る男の心臓の位置を、乾きそうな目でじっと見つめる。


 でも、と浮かんだのは、店長を始めとした喫茶店に集う人々だった。明呉の人生で出逢った尊敬できる大人たち。彼らはきっと明呉の名をニュースで見て心を痛めるだろう。
 自分たちにもっと何か出来ることがあったんじゃないか、と自分を責めてしまうかもしれない。

 ごめんなさい、違うんです。結局これはもう全部自分のせいで、上手く出来なかったから自分で後始末をするだけなんです。

 貴方たちはこの瞬間を遅らせてくれたんです。貴方たちのおかげで、俺はこの歳まで、この獣と同じ檻で生きて来れました。

 ごめんなさい、ごめんなさい、どうか気にしないで。


 震えが収まらない腕を、それでも何とか持ち上げる。逆手に持った包丁の柄が、手に浮いた汗のせいで滑り落ちてしまいそうだった。自分の荒い息は全て鼾にかき消されている。

 今、今なら――。



『ね、来年はさ、あそこで見ない?』
『ちゃんとお祭りに行こう、二人で。きっとここよりも眺めは悪いし、人もいっぱいで鬱陶しいだろうけど。俺は、明呉と二人でまた花火が見たいな』

 脳の奥でカチン、とガラス同士がぶつかる音がした。遠い記憶の彼方で腹の底を震わせるような轟音が鳴り響く。
 ぶわり、と視界を埋め尽くしたのは、濃紺の空に浮かぶ息を呑むほど巨大な金色の花火。

『ね、約束』

 遠くで――渡來が笑った。子供みたいに。楽しそうに。
 明呉の為だけに、笑った。


「あ、ぁ、あ…………!」


 途端にぶるぶると震えだした腕から包丁が滑り落ち、ゴン、と鈍い音をしてカーペットの上に落ちた。

 約束が、果たせていない。
 この期に及んで何をと自分でも思うが、それでも、あの茹だる様な夏の夜に交わされた約束が楔となって、獣に成ろうとする明呉の首根っこを引っ掴んで引き戻した。

「は、ぁ、ッ、」
 その場にへたり込んだ明呉は、自分の両手を見つめながらわなわなと震えた。ガチガチと歯の根が合わず震えるせいで、癒着しかけていた唇の皮が切れてまた血が滲んでいく。
 
 今、自分は何をしようと。

 自分の中に流れている抗えない呪いを突きつけられて、明呉は過呼吸気味になりながらも、包丁を引っ掴んで逃げるように寝室を後にした。



「わ、たら、」
 渡來。わたらい。渡來の声が聴きたい。
 あの柔らかで穏やかな声で名前を呼ばれたい。どうしたのって優しく聞いて、大丈夫だよって擽るような囁き声で自分を許して欲しい。

 嘘、嘘だ、許さないで。お前の大切なものを壊してしまった俺を許さないで。なんでもいいから、俺の名前を呼んで俺を叱って、俺を俺に戻して。



 めちゃくちゃになって溶け出してしまいそうな思考回路を必死で取り繕いながら、明呉は逃げるようにリビングへと駆け出す。壊されてしまった残骸をかき集めるために。




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