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1巻
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でも、耳元で囁く声はとても鮮明で、呻き声を上げながら目を開ければ、薄明かりの部屋の中で寝間着姿の彼女が不安げに自分を覗き込んでいる。
(……ああ、これは幻覚だ)
ついさっき見た彼女の姿が脳裏に焼き付いているから、こんなものを見てしまうのだろう。
でも幻とはいえ、こんな不甲斐ない自分を彼女に見られたくない。
「……部屋に戻りなさい」
デュアロスは精一杯、優しい口調で彼女を遠ざけようとした。
けれど心の中は彼女を抱きたくて、その身体をむさぼりたくて、激しい欲望が暴れている。
なのに、彼女はムッとした顔で首を横に振った。
「嫌ですよ。もう決めたんですから、抱いてください」
(……抱いて? ……は? 今、抱いてと言ったのか?)
幻の彼女が紡いだ言葉が信じられなくて、デュアロスは目を見張った。と同時に、あまりに都合が良すぎる妄想に笑いたくなる。
でも媚薬に蝕まれた己には、もう冷静さも理性も残っていなかった。
「……自分の言っている意味がわかっているのか?」
「わかってますよ。だからデュアロスさんの部屋にいるんじゃないですか」
――もうこれ以上言わせないで。
彼女は明かりが落ちた部屋でもはっきりとわかるくらい、顔を赤らめていた。
(可愛い……愛らしい……ああ、自分のものにしたい)
この感情をデュアロスは、ずっとずっと抱えていた。
目の前にいる幻の彼女――アカネに向けて。
国が危機に瀕した際、どこからか現れた異世界の人間に救われる――ということが、よくあることなのかどうかはわからない。
だが、ここフィルセンド国は、かつて隣国と領地をめぐり小競り合いを繰り返していた。そして、圧倒的不利な状況に陥った際、突如として現れた異世界人の力を借りて、自国を護りきった歴史がある。
そのとき、異世界人の護衛を務めていたのが、デュアロスの祖先――後に竜伯爵と呼ばれる騎士だった。
ちなみに、なぜ竜伯爵というネーミングになったかといえば、異世界人がこの世界に舞い降りてきた日の空には竜の形をした雲が浮かんでいて、兵士たちが皆、異世界人のことを「竜の化身」と信じ、その側近を「竜の御遣い」と呼んでいたから……らしい。
とはいえ、後に記される文献なんて、史実にちょっと色を付けて残すのがお約束。でも、文献を書いた人も、当時の兵士たちも、異世界人すらももう生きてはいないので、そういうものだと思ってほしい。なにせ六百年も前の話なので。
ただ、一度奇跡を目にしてしまうと、二度目も期待してしまうのが人間ってものである。
そんなわけで、フィルセンド国の国王陛下は当時、異世界人の護衛を務めていた騎士に言った。
「また異世界人が来てくれるかもしれないから、そのときはちゃんと面倒見るんだよ。他国にかっさらわれるようなヘマしないでね。万が一やらかしたら、一族の皆さんそろって首ちょっきんだよ」と。
一介の騎士が、ちょっと異世界人を護衛しただけで伯爵位をもらえるなんて、大出世だね! なんて思わないでほしい。
言い換えると、子々孫々に至るまで厄介事を一手に引き受ける羽目になったのだから。
といっても、そう簡単には異世界人はやってこなかった。
ただ、エセ異世界人はわんさか湧いてきて、竜伯爵様になった元護衛騎士の末裔たちは、その対応に追われた。
どこの世界にも、中二病を患う人間はいる。一攫千金を狙う人も同じく。
「我こそは異世界人!」もしくは「うちの親族こそ異世界人」と名乗る連中の面接をし、すでに詐欺行為をしている者は牢屋に放り込み、イタい目で見られているだけの者には、軽く説教して保護者に迎えに来てもらう作業を繰り返していた。
もちろんデュアロスも、若くして爵位を継いでから竜伯爵のお仕事に励んでいる。ただ、正直言ってうんざりしていた。
特にデュアロスは歴代竜伯爵の中で、ダントツに顔がいい。
そのおかげで、中二病や詐欺師の他に、己の恋のためなら手段を選ばない女子まで増えて、毎日てんてこ舞いだった。
(くそっ。異世界人という存在が、これほど厄介なものとは……)
国の窮地を救ってくれた恩人であるから露骨に暴言は口にできないが、デュアロスの不満は日々募っていく。
そんな彼は、ストレスという水がパンパンに入った水風船状態で、いつ破裂してもおかしくない状況だった。
しかし、それはアカネと会うまでの話。
いつものように仕事を終えて帰った夕暮れ時。ラーグ邸の庭で途方に暮れた顔でしゃがみ込んでいるアカネを見た瞬間、デュアロスはこう思った。
(ご先祖様、感謝いたします)
瞬きを一つする間に現れた黒髪の女性は、ドンピシャでデュアロスの好みだった。
儚げな容姿、もの憂げな表情、派手に結いあげることをしないナチュラルな下ろし髪。
唯一、ふくらはぎを大胆に出しているスカート丈だけはいただけないというか、目のやり場に困るというか、似合ってはいるが絶対に他の誰にも見せたくないと思ったけれど、彼女は神様が己に与えてくれた贈り物だと思ってしまった。
そして誓う。この儚げな女性を何からも守ると。
実際には、アカネは突如異世界に転移して唖然としていただけなのだが、人の目というのは大変都合よくできているので、彼がそう見えたのならそれが正解なのだ。
とにかくデュアロスは、アカネを見た瞬間から心を奪われた。
つい数分前に馬車の中で「異世界人、マジ厄介」なんてぼやいていたはずなのに、そんなものは都合よくすっぱり忘れて、恐る恐るアカネに声をかけた。
「……君は……どこから来たんだい?」
正直、手の込んだエセ異世界人であってもそれでいいと思っていたのだが、アカネはデュアロスの知らない、町なのか国なのか大陸なのかわからない名称を口にした。
それからこう言った。
「あの……私、どうしたらいいんでしょうか?」
こてんと首を傾げたアカネの仕草は、デュアロスにとってどストライクだった。
(ご先祖様、恩に着ます)
デュアロスは会ったこともない初代の竜伯爵にもう一度感謝の念を送り、アカネに向かってこう切り出した。
「どうもしなくていい。私の名は、デュアロス・ラーグ。君を保護する者だ。さぁ、おいで」
笑ってしまうほどぎこちなく差し出した自分の手を、アカネはあっさりと取った。
ちなみに、アカネがデュアロスに対して淡い恋心を抱いたのも、実はこのときだった。つまり二人は知らぬ間に、ほぼ同時に恋に落ちていたのだ。
ただデュアロスは、優れた容姿を持ちながら自己評価がとても低い。己を仕事ばかりしている、つまらない人間なのだと思い込んでいる。
そのため、アカネがラーグ邸で保護され、異世界人として第二の人生を歩むことになっても、極力彼女の前に姿を現さないようにした。つまらない男だと思われ、幻滅されるのが怖かったのだ。それにデュアロスにとって、アカネとの恋は人生初めての恋でもあった。
だから片想いしている女性に対して、どう接していいのかわからなかったし、保護する立場でいる以上、あまり深く踏み込んではいけないと自制していた。
アカネの目には、デュアロスはとても多忙で、寝食もままならないように見えているが、実はそうではない。
もちろん、毎日お城でエセ異世界人の対応に追われているし、領地の管理もしなくてはならないし、騎士の称号も得ているから鍛錬を欠かすこともできない。
特にアカネを保護してからのデュアロスの鍛錬っぷりは、他の騎士がドン引きするほど鬼気迫るものだった。
騎士仲間からは「なんや、あいつ亡霊にでも取り憑かれて戦っとるのとちゃうか?」とか「あー、やっぱ竜伯爵の仕事でストレスの限界きてんだなぁ。可哀想に……」とか彼の身と心を心配する声が続出していた。
ちなみに、デュアロスから模擬戦を頼まれても、誰一人として受けて立つ者はいなかった。だって、無傷じゃすまないから。下手したら死ぬから。超、怖いから。
という彼のお仲間事情は置いておいて、とにかくデュアロスは多忙な身ではあるが、寝る暇もないほど忙しいわけではなかった。
ただ単に、アカネに近づく勇気がないゆえに遠巻きに見守っていただけで、毎夜、執事であるダリにアカネが日中どんな生活を送っていたか逐一聞いていた。
ダリだって巨大な屋敷を取り仕切る多忙な身。そんでもって少々お年を召しているから、早く寝たい。正直「そんなもん直接自分で聞けよ」と言いたいところだろう。
しかし、ダリはデュアロスが幼少の頃から彼に仕えている。言葉に出さずとも主が初めての恋にまごついていることくらい容易にわかる。だから、眠い目をこすりつつ、主の望むまま懇切丁寧に報告するという日課をこなしていた。
そんな奥手で自己評価の低いデュアロスだけれど、顔がいいので当然ながら、とても女性に人気がある。
なにせ没落知らずの特別な爵位を持ち、女遊びもしなければ、ギャンブル依存症でもなく、金遣いも健全だ。そんでもって大事なことなのでもう一度言うが、顔がいい。
ここ数年、デュアロスは本人のあずかり知らぬところで、「結婚したい男ランキング」と「娘を嫁がせたい相手ランキング」と「恋人にしたいランキング」と「どんな手段を使ってでもモノにしたい男ランキング」と「一回でいいから抱かれたい男ランキング」の一位を総なめにしていた。
しつこいようだが彼には、その自覚はない。アカネを保護してからは、より一層アカネ以外の異性に興味を持てなくなっていた。
だが、周りはそんなこと知ったこっちゃない。なぜなら竜伯爵のもとに異世界人が降り立ったという情報は公にされていないからだ。しかし国王陛下には報告義務があるので、デュアロスはごく一部の者に限りアカネの存在を伝えていた。
その中には、アカネにマウント発言をかましてくれたミゼラットも含まれていた。
ミゼラットことミゼラット・コルエは、デュアロスの遠縁にあたる二十歳の女性だ。
そして彼女の父であるニベラド・コルエは子爵位を持つ宮廷貴族であり、現在はお城にて、エセ異世界人の対応窓口となってデュアロスの補佐を務めている。
つまりミゼラットは、デュアロスから直接アカネの存在を聞いたわけではなく、父親から情報を得たのだ。
ここで「ニベラド、口軽いな」と思うかもしれないが、フィルセンド国ではまだ守秘義務の徹底がなされていないので仕方がない。
ちなみにミゼラットは、デュアロスのことを好いている。いや、好いているなんていう生温いものではない。絶対に彼の妻の地位を得たいと虎視眈々と狙っている。
狙ったところで、相手にも意思があるのだから思いどおりにいかないのが世の常なのだが、ミゼラット基準においては、ちょっとばかし違う。
なぜなら、女性に冷たい態度しかとらないデュアロスが、補佐の娘であるミゼラットとは儀礼的といえどあいさつ程度の会話をする。そこに他意は一切ないけれど、女性側はそうは受け取らない。
だからミゼラットは、己の容姿が人並み以上である自覚も加わり、なんだかんだ言ってデュアロスは自分を妻に選んでくれるものだと思っていた。いや、思い込んでいたというほうが正しい。
その自信はどこから来るのかと問いただしたいが、片想いしている最中、意中の相手は脳内に限って都合よく動いてくれるもの。
とはいえ、なかなか縮まらないデュアロスとの距離に、少々焦れてもいた。
そんなわけでミゼラットは、デュアロスが異世界人を保護したと父親から聞くや否や、あまり良くない頭を働かせてこんな策を練った。
名付けて「異世界人を利用して、デュアロスとの距離を一気に詰めちゃおう作戦」である。
何のひねりもないダサいネーミングであるが、これはミゼラットが考えたもので、彼女は「自分スゴイ!」と思っているので、そっとしておいてあげてほしい。
そんなわけでこのダサい名称の作戦は、誰にも突っ込みを入れられぬまま、始動することになった。
とっかかりとして、まずミゼラットはデュアロスにこう切り出した。
「もしよろしければ、わたくしが異世界の女性のお話し相手になりましょうか?(訳:異世界人の面を拝んで、人の男に手を出さぬよう釘を刺しておこう)」と。
その申し出に、デュアロスはかなり悩んだ。しかし、ミゼラットの次の言葉でつい頷いてしまった。
「ご安心ください。もし仮に内緒話をしたとしても、デュアロス様にきちんと、すべて、ありのままにお伝えさせていただきますわ」
アカネはラーグ邸に保護されてから、いつも笑顔だった。不満を訴えることなく、楽しそうに過ごしている。
しかしデュアロスは気づいていた。時折、アカネの目が赤いことに。隠れて泣いていることは明らかでありながら、それにアカネは触れてほしくないようだった。
だが年齢が近い女性同士なら、誰にも言えずにいる悩みや不安を打ち明けるのではないか、と思ってしまったのだった。
デュアロスをあっさり懐柔したミゼラットは、この時点で「やっぱり彼はわたくしのことを特別扱いしてくれているのね。うふふのふ」と都合よく解釈していた。
あとは異世界人に彼は私の男だからとしっかり釘を刺しておけばオッケー。でもって、念のためデュアロスには異世界人は男嫌いだと伝えておけば万事オッケー、ちょろいちょろい、とも思っていた。
しかしながら、デュアロスが特別扱いしているのはアカネだけであり、異性として見ているのもアカネだけ。
こう言っては失礼だが、ミゼラットはその他大勢のうちの一人であり、贔屓目で見ても都合よく動いてくれた補佐の娘という立ち位置でしかなかった。
その温度差に気づけないまま、ご都合主義のミゼラットはアカネの話し相手としてラーグ邸を訪問した。
結論から言うと、ミゼラットの思惑どおりアカネは彼女のマウント発言を信じ、デュアロスへの恋心は決して叶わぬものであると思い込んだ。
ミゼラットの計画は成功したかに見えた。でもただ一つだけ、決定的な誤算があった。
何の気なしにデュアロスの前でアカネの名前を口に出した途端、彼の表情がデレッデレになったのだ。
もちろんデュアロスはイケメンだ。スケベ爺のように鼻の下を伸ばすことも、はぁはぁと変なタイミングで息を荒くすることもない。だが、手の甲で口元を隠してはにかんでいる。よく見ればちょっと耳が赤い。
これが何を意味するのかわからないほど、ミゼラットはおバカではなかった。
そして自分を含めた貴族令嬢たちが〈氷の伯爵様〉と密かに呼び、勝手にいつか自分の前だけでデレてくれる姿を妄想し毎晩うっとりしていた、あのデュアロスの心をあっという間に奪ってしまったアカネを心底憎んだ。
「異世界人だからって何よ、いい気になって! わたくしがどれほど長い時間、デュアロス様をお慕いしているかわかっているの⁉」
あまりの悔しさにミゼラットはそんなことを叫びつつ、ハンカチを歯で噛み締めた。
アカネからすれば「んなもん、知らんわ」状態であるが、恋に狂った女に何を言っても通じない。
ちなみにミゼラットは、「どんな手段を使ってでもモノにしたい男ランキング」に一票投じた女性である。
その情熱というか、独りよがりの想いというか、狂気は並大抵のものではなかった。だから諦めることを知らないミゼラットは、禁じ手を使った――とある秋の夜、デュアロスに媚薬を飲ませたのだ。
【異世界人のアカネ様の件で、急ぎお伝えしたいことがございます。大っぴらにお伝えできる内容ではございませんので、どうかお手数ですが、夜更けにわたくしの屋敷に足をお運びください】
こんな内容の手紙でデュアロスが食いつくかどうか、ミゼラットは自分でしたためながらも半信半疑だった。
ただ、もしデュアロスが手紙を受け取っても自分のもとに来なければ、彼にとってアカネはその程度の存在なのだ。
逆に来てしまったなら、もう媚薬を飲ませて既成事実を作り、責任を取って結婚してもらう。
どちらにしても、ミゼラットにとって得るものはある。
手段を選ばずに意中の男を手に入れようとしている女にしては、少々こすい考えだと思うが、今回もまた彼女の中だけで完結してしまっているので、突っ込みを入れる者は誰もいない。
そんなロンリー激ヤバ思考に溺れるミゼラットだが、実のところ、この計画を実行するまでに半年近く時間を要した。
なぜそんなに時間を費やしたかというと、強力な媚薬を手に入れるのが困難だったためだ。
彼女は危険思想の持ち主ではあるが、一応子爵令嬢である。街の裏路地――特に娼婦街の近くに入れば、怪しげな薬を扱う店はごまんとあるが、そこに行く口実も手段もなかった。意外に人目を気にするタイプなのだ。
それに、一回や二回アカネと会って、彼女から信頼された、秘密を打ち明けられたとデュアロスに伝えたところで、疑われることは間違いない。だからミゼラットは慎重に慎重を重ね、時期を待った。
随分気が長いと思われるかもしれないが、ミゼラットがデュアロスに片想いをしている期間は十年近い。
しかも、一回こっきりしか使えない奥の手を使うとなれば、慎重にならざるを得なかった。
ミゼラットとて焦る気持ちは日に日に強くなっていく。だがぐっと堪えて待ち続け、持てるすべてを使って超強力な媚薬を手に入れたのを機に、計画を実行することにした。
決行日は秋晴れのいい天気だった。彼に抱かれるには、もってこいの日和だ。
手紙は報告書っぽい雰囲気を演出するため敢えて簡素な白い封筒を選び厳重に封をした後、何食わぬ顔で職場に向かう父に託した。
そこそこ仕事人間の父親が、上司宛の手紙を盗み読みすることはまずないだろうと判断して。
父を見送ったあと、ミゼラットはとても忙しかった。
今日のためにこっそり入手した夜の教本という名のエロ本を隅々まで読み、袋とじに記載されていた〝彼の心を鷲掴みにできる喘ぎ声〟なるものをベッドにもぐって、こっそり練習した。
それから夕方になると早めにお風呂に入り、全身を磨き上げた。
なお、その日ミゼラットは夕食を抜いた。彼女は胃下垂なので食後にお腹がぽっこり出てしまうから。
そんな誰一人得にならない涙ぐましい努力をしていれば、いつの間にか夜の帳が下りて、深夜と呼ばれる時間になった。
デュアロスが夜更けにミゼラットのもとを訪ねるのは、無論お忍びである。しかしながら彼女は子爵家のお嬢様なので、屋敷の中には協力者がいる。
手段を選ばず意中の男を手に入れようとしているミゼラットにとって、使用人の弱みの一つや二つ握って自分の手足として動かすことなどお茶の子さいさいなのだ。
――というわけで、デュアロスは青ざめるメイドの案内で、こっそりミゼラットの部屋に通された。
到着して早々にお茶をすすめられ、疑いもせずにそれを飲んだ。まさかその中に媚薬が入っていることなど知らずに。
媚薬が効き始めるのは、十数分後。その間、デュアロスを部屋から出さなければミゼラットの勝ち確定である。
足止め用に部屋の鍵は締めた。時間稼ぎの与太話も、それなりに用意してある。
それに、部屋着に近いドレスの下には大胆なデザインの下着を着込んでいるし、ベッドには初心者のための補助的なアイテムだって準備万端だ。
保険として〝異性をその気にさせるキャンドル(ハードタイプ)〟だってマッチ一つで点火できる。
(抜かりはないわ。だって、わたくしやればできる子だし)
そんなことを心の中で呟き、ミゼラットは淑女としても、人間としても、どうよ? と思うような荒い息を吐きつつ、デュアロスの様子をじっと探った。
しかし、彼の表情は動かない。そろそろ薬の効き目で目が潤んできてもいいのに、宝石みたいな紫眼は冴え冴えとしている。まるで、よく切れる刃物のようだ。
あれ? とミゼラットが首を傾げるのは当然のこと。そのリアクションを待っていたかのように、デュアロスは猫のごとく目を細めて口を開いた。
「随分、変わった味のお茶を出してくれてありがとう、ミゼラット嬢。しかしながら、私にはこういうものは効かない」
一切性的な匂いを感じさせないデュアロスの言葉で、ミゼラットは半年近い時間を費やした計画が音を立てて崩れていくのを感じた。
策は徒労に終わった。加えて彼女はデュアロスからの信頼も失った。
しかしながら、ミゼラットは諦めが悪かった。いや、もう後がないと開き直った。
古今東西、ヤケクソ根性を丸出しにした人間というのは厄介で手に負えない。例に漏れずミゼラットもそうで、彼女はおもむろに己の服を脱ぎ出した。
怒り心頭なのかもしれないデュアロスだって、所詮は男だ。ナニは付いている。
だからドレスの下に仕込んでいる淫乱下着を目にしたら、きっともう一人の彼が反応してくれるはず。だって、下半身は別の生き物らしいから。
要は、ベッドになだれ込んで既成事実を作れば、作戦は成功。ウェルカム、ラーグ伯爵夫人。そしてグッバイ異世界人!
そんな決意でもって下着姿で大胆なポーズを決めたミゼラットに返ってきたのは、こんな言葉だった。
「汚いものを見せるな」
ソファから立ち上がったデュアロスは、下着姿のまま狼狽えるミゼラットを押しのけるようにして、ドアノブに手をかけた。
「え? ……デュアロス様……今なんと――」
「失礼する」
短く言い捨て、ドアノブに手をかけた瞬間、顔を顰めた。
扉には鍵がかかっていたのだ。しかも簡単に外すことができないよう、ロック部分には小細工がしてあった。
「これで私を閉じ込めたつもりか? 随分、舐められたもんだな」
独り言にしてはトゲがありすぎる言葉をデュアロスが吐いたと同時に、バキッと破壊音が響いた。
デュアロスが、扉を蹴っ飛ばしたのだ。
その勢いはすさまじく、たった一度の衝撃で扉はいとも簡単に開いた。とばっちりで被害にあった蝶番が、なんでぇーと言いたげに悲しげに揺れている。
しかしデュアロスは、扉を破壊したことを詫びることなく、またミゼラットに向け言葉をかけることもせず、さっさとコルエ邸を後にしたのだった。
(……くそっ、なんて強力な薬なんだ)
帰宅途中の馬車の中で、デュアロスは脂汗をかきながら必死に呻き声を抑えていた。
ミゼラットの前では「んなもん、効くか」と言い捨てたけれど、それははったりである。
でも、もうやせ我慢も限界だった。心臓が今にも壊れてしまいそうなほど暴れ狂っている。
お茶と共に摂取したのは、間違いなく媚薬だ。しかも、毒にはある程度慣らしている己の身体が、ここまで苦痛を覚えるということは、かなり強力なもの。
今すぐにでも溢れてくる欲望を吐き出したくて、仕方がない。
しかしデュアロスには、惚れた女がいる。たとえ片想いで、相手には保護者としか見られていなくても、デュアロスはその女性がいる世界で、手短に済ますことができる娼婦街に足を向ける気はなかった。
(耐えるしかない。……いや、耐えてみせる)
(……ああ、これは幻覚だ)
ついさっき見た彼女の姿が脳裏に焼き付いているから、こんなものを見てしまうのだろう。
でも幻とはいえ、こんな不甲斐ない自分を彼女に見られたくない。
「……部屋に戻りなさい」
デュアロスは精一杯、優しい口調で彼女を遠ざけようとした。
けれど心の中は彼女を抱きたくて、その身体をむさぼりたくて、激しい欲望が暴れている。
なのに、彼女はムッとした顔で首を横に振った。
「嫌ですよ。もう決めたんですから、抱いてください」
(……抱いて? ……は? 今、抱いてと言ったのか?)
幻の彼女が紡いだ言葉が信じられなくて、デュアロスは目を見張った。と同時に、あまりに都合が良すぎる妄想に笑いたくなる。
でも媚薬に蝕まれた己には、もう冷静さも理性も残っていなかった。
「……自分の言っている意味がわかっているのか?」
「わかってますよ。だからデュアロスさんの部屋にいるんじゃないですか」
――もうこれ以上言わせないで。
彼女は明かりが落ちた部屋でもはっきりとわかるくらい、顔を赤らめていた。
(可愛い……愛らしい……ああ、自分のものにしたい)
この感情をデュアロスは、ずっとずっと抱えていた。
目の前にいる幻の彼女――アカネに向けて。
国が危機に瀕した際、どこからか現れた異世界の人間に救われる――ということが、よくあることなのかどうかはわからない。
だが、ここフィルセンド国は、かつて隣国と領地をめぐり小競り合いを繰り返していた。そして、圧倒的不利な状況に陥った際、突如として現れた異世界人の力を借りて、自国を護りきった歴史がある。
そのとき、異世界人の護衛を務めていたのが、デュアロスの祖先――後に竜伯爵と呼ばれる騎士だった。
ちなみに、なぜ竜伯爵というネーミングになったかといえば、異世界人がこの世界に舞い降りてきた日の空には竜の形をした雲が浮かんでいて、兵士たちが皆、異世界人のことを「竜の化身」と信じ、その側近を「竜の御遣い」と呼んでいたから……らしい。
とはいえ、後に記される文献なんて、史実にちょっと色を付けて残すのがお約束。でも、文献を書いた人も、当時の兵士たちも、異世界人すらももう生きてはいないので、そういうものだと思ってほしい。なにせ六百年も前の話なので。
ただ、一度奇跡を目にしてしまうと、二度目も期待してしまうのが人間ってものである。
そんなわけで、フィルセンド国の国王陛下は当時、異世界人の護衛を務めていた騎士に言った。
「また異世界人が来てくれるかもしれないから、そのときはちゃんと面倒見るんだよ。他国にかっさらわれるようなヘマしないでね。万が一やらかしたら、一族の皆さんそろって首ちょっきんだよ」と。
一介の騎士が、ちょっと異世界人を護衛しただけで伯爵位をもらえるなんて、大出世だね! なんて思わないでほしい。
言い換えると、子々孫々に至るまで厄介事を一手に引き受ける羽目になったのだから。
といっても、そう簡単には異世界人はやってこなかった。
ただ、エセ異世界人はわんさか湧いてきて、竜伯爵様になった元護衛騎士の末裔たちは、その対応に追われた。
どこの世界にも、中二病を患う人間はいる。一攫千金を狙う人も同じく。
「我こそは異世界人!」もしくは「うちの親族こそ異世界人」と名乗る連中の面接をし、すでに詐欺行為をしている者は牢屋に放り込み、イタい目で見られているだけの者には、軽く説教して保護者に迎えに来てもらう作業を繰り返していた。
もちろんデュアロスも、若くして爵位を継いでから竜伯爵のお仕事に励んでいる。ただ、正直言ってうんざりしていた。
特にデュアロスは歴代竜伯爵の中で、ダントツに顔がいい。
そのおかげで、中二病や詐欺師の他に、己の恋のためなら手段を選ばない女子まで増えて、毎日てんてこ舞いだった。
(くそっ。異世界人という存在が、これほど厄介なものとは……)
国の窮地を救ってくれた恩人であるから露骨に暴言は口にできないが、デュアロスの不満は日々募っていく。
そんな彼は、ストレスという水がパンパンに入った水風船状態で、いつ破裂してもおかしくない状況だった。
しかし、それはアカネと会うまでの話。
いつものように仕事を終えて帰った夕暮れ時。ラーグ邸の庭で途方に暮れた顔でしゃがみ込んでいるアカネを見た瞬間、デュアロスはこう思った。
(ご先祖様、感謝いたします)
瞬きを一つする間に現れた黒髪の女性は、ドンピシャでデュアロスの好みだった。
儚げな容姿、もの憂げな表情、派手に結いあげることをしないナチュラルな下ろし髪。
唯一、ふくらはぎを大胆に出しているスカート丈だけはいただけないというか、目のやり場に困るというか、似合ってはいるが絶対に他の誰にも見せたくないと思ったけれど、彼女は神様が己に与えてくれた贈り物だと思ってしまった。
そして誓う。この儚げな女性を何からも守ると。
実際には、アカネは突如異世界に転移して唖然としていただけなのだが、人の目というのは大変都合よくできているので、彼がそう見えたのならそれが正解なのだ。
とにかくデュアロスは、アカネを見た瞬間から心を奪われた。
つい数分前に馬車の中で「異世界人、マジ厄介」なんてぼやいていたはずなのに、そんなものは都合よくすっぱり忘れて、恐る恐るアカネに声をかけた。
「……君は……どこから来たんだい?」
正直、手の込んだエセ異世界人であってもそれでいいと思っていたのだが、アカネはデュアロスの知らない、町なのか国なのか大陸なのかわからない名称を口にした。
それからこう言った。
「あの……私、どうしたらいいんでしょうか?」
こてんと首を傾げたアカネの仕草は、デュアロスにとってどストライクだった。
(ご先祖様、恩に着ます)
デュアロスは会ったこともない初代の竜伯爵にもう一度感謝の念を送り、アカネに向かってこう切り出した。
「どうもしなくていい。私の名は、デュアロス・ラーグ。君を保護する者だ。さぁ、おいで」
笑ってしまうほどぎこちなく差し出した自分の手を、アカネはあっさりと取った。
ちなみに、アカネがデュアロスに対して淡い恋心を抱いたのも、実はこのときだった。つまり二人は知らぬ間に、ほぼ同時に恋に落ちていたのだ。
ただデュアロスは、優れた容姿を持ちながら自己評価がとても低い。己を仕事ばかりしている、つまらない人間なのだと思い込んでいる。
そのため、アカネがラーグ邸で保護され、異世界人として第二の人生を歩むことになっても、極力彼女の前に姿を現さないようにした。つまらない男だと思われ、幻滅されるのが怖かったのだ。それにデュアロスにとって、アカネとの恋は人生初めての恋でもあった。
だから片想いしている女性に対して、どう接していいのかわからなかったし、保護する立場でいる以上、あまり深く踏み込んではいけないと自制していた。
アカネの目には、デュアロスはとても多忙で、寝食もままならないように見えているが、実はそうではない。
もちろん、毎日お城でエセ異世界人の対応に追われているし、領地の管理もしなくてはならないし、騎士の称号も得ているから鍛錬を欠かすこともできない。
特にアカネを保護してからのデュアロスの鍛錬っぷりは、他の騎士がドン引きするほど鬼気迫るものだった。
騎士仲間からは「なんや、あいつ亡霊にでも取り憑かれて戦っとるのとちゃうか?」とか「あー、やっぱ竜伯爵の仕事でストレスの限界きてんだなぁ。可哀想に……」とか彼の身と心を心配する声が続出していた。
ちなみに、デュアロスから模擬戦を頼まれても、誰一人として受けて立つ者はいなかった。だって、無傷じゃすまないから。下手したら死ぬから。超、怖いから。
という彼のお仲間事情は置いておいて、とにかくデュアロスは多忙な身ではあるが、寝る暇もないほど忙しいわけではなかった。
ただ単に、アカネに近づく勇気がないゆえに遠巻きに見守っていただけで、毎夜、執事であるダリにアカネが日中どんな生活を送っていたか逐一聞いていた。
ダリだって巨大な屋敷を取り仕切る多忙な身。そんでもって少々お年を召しているから、早く寝たい。正直「そんなもん直接自分で聞けよ」と言いたいところだろう。
しかし、ダリはデュアロスが幼少の頃から彼に仕えている。言葉に出さずとも主が初めての恋にまごついていることくらい容易にわかる。だから、眠い目をこすりつつ、主の望むまま懇切丁寧に報告するという日課をこなしていた。
そんな奥手で自己評価の低いデュアロスだけれど、顔がいいので当然ながら、とても女性に人気がある。
なにせ没落知らずの特別な爵位を持ち、女遊びもしなければ、ギャンブル依存症でもなく、金遣いも健全だ。そんでもって大事なことなのでもう一度言うが、顔がいい。
ここ数年、デュアロスは本人のあずかり知らぬところで、「結婚したい男ランキング」と「娘を嫁がせたい相手ランキング」と「恋人にしたいランキング」と「どんな手段を使ってでもモノにしたい男ランキング」と「一回でいいから抱かれたい男ランキング」の一位を総なめにしていた。
しつこいようだが彼には、その自覚はない。アカネを保護してからは、より一層アカネ以外の異性に興味を持てなくなっていた。
だが、周りはそんなこと知ったこっちゃない。なぜなら竜伯爵のもとに異世界人が降り立ったという情報は公にされていないからだ。しかし国王陛下には報告義務があるので、デュアロスはごく一部の者に限りアカネの存在を伝えていた。
その中には、アカネにマウント発言をかましてくれたミゼラットも含まれていた。
ミゼラットことミゼラット・コルエは、デュアロスの遠縁にあたる二十歳の女性だ。
そして彼女の父であるニベラド・コルエは子爵位を持つ宮廷貴族であり、現在はお城にて、エセ異世界人の対応窓口となってデュアロスの補佐を務めている。
つまりミゼラットは、デュアロスから直接アカネの存在を聞いたわけではなく、父親から情報を得たのだ。
ここで「ニベラド、口軽いな」と思うかもしれないが、フィルセンド国ではまだ守秘義務の徹底がなされていないので仕方がない。
ちなみにミゼラットは、デュアロスのことを好いている。いや、好いているなんていう生温いものではない。絶対に彼の妻の地位を得たいと虎視眈々と狙っている。
狙ったところで、相手にも意思があるのだから思いどおりにいかないのが世の常なのだが、ミゼラット基準においては、ちょっとばかし違う。
なぜなら、女性に冷たい態度しかとらないデュアロスが、補佐の娘であるミゼラットとは儀礼的といえどあいさつ程度の会話をする。そこに他意は一切ないけれど、女性側はそうは受け取らない。
だからミゼラットは、己の容姿が人並み以上である自覚も加わり、なんだかんだ言ってデュアロスは自分を妻に選んでくれるものだと思っていた。いや、思い込んでいたというほうが正しい。
その自信はどこから来るのかと問いただしたいが、片想いしている最中、意中の相手は脳内に限って都合よく動いてくれるもの。
とはいえ、なかなか縮まらないデュアロスとの距離に、少々焦れてもいた。
そんなわけでミゼラットは、デュアロスが異世界人を保護したと父親から聞くや否や、あまり良くない頭を働かせてこんな策を練った。
名付けて「異世界人を利用して、デュアロスとの距離を一気に詰めちゃおう作戦」である。
何のひねりもないダサいネーミングであるが、これはミゼラットが考えたもので、彼女は「自分スゴイ!」と思っているので、そっとしておいてあげてほしい。
そんなわけでこのダサい名称の作戦は、誰にも突っ込みを入れられぬまま、始動することになった。
とっかかりとして、まずミゼラットはデュアロスにこう切り出した。
「もしよろしければ、わたくしが異世界の女性のお話し相手になりましょうか?(訳:異世界人の面を拝んで、人の男に手を出さぬよう釘を刺しておこう)」と。
その申し出に、デュアロスはかなり悩んだ。しかし、ミゼラットの次の言葉でつい頷いてしまった。
「ご安心ください。もし仮に内緒話をしたとしても、デュアロス様にきちんと、すべて、ありのままにお伝えさせていただきますわ」
アカネはラーグ邸に保護されてから、いつも笑顔だった。不満を訴えることなく、楽しそうに過ごしている。
しかしデュアロスは気づいていた。時折、アカネの目が赤いことに。隠れて泣いていることは明らかでありながら、それにアカネは触れてほしくないようだった。
だが年齢が近い女性同士なら、誰にも言えずにいる悩みや不安を打ち明けるのではないか、と思ってしまったのだった。
デュアロスをあっさり懐柔したミゼラットは、この時点で「やっぱり彼はわたくしのことを特別扱いしてくれているのね。うふふのふ」と都合よく解釈していた。
あとは異世界人に彼は私の男だからとしっかり釘を刺しておけばオッケー。でもって、念のためデュアロスには異世界人は男嫌いだと伝えておけば万事オッケー、ちょろいちょろい、とも思っていた。
しかしながら、デュアロスが特別扱いしているのはアカネだけであり、異性として見ているのもアカネだけ。
こう言っては失礼だが、ミゼラットはその他大勢のうちの一人であり、贔屓目で見ても都合よく動いてくれた補佐の娘という立ち位置でしかなかった。
その温度差に気づけないまま、ご都合主義のミゼラットはアカネの話し相手としてラーグ邸を訪問した。
結論から言うと、ミゼラットの思惑どおりアカネは彼女のマウント発言を信じ、デュアロスへの恋心は決して叶わぬものであると思い込んだ。
ミゼラットの計画は成功したかに見えた。でもただ一つだけ、決定的な誤算があった。
何の気なしにデュアロスの前でアカネの名前を口に出した途端、彼の表情がデレッデレになったのだ。
もちろんデュアロスはイケメンだ。スケベ爺のように鼻の下を伸ばすことも、はぁはぁと変なタイミングで息を荒くすることもない。だが、手の甲で口元を隠してはにかんでいる。よく見ればちょっと耳が赤い。
これが何を意味するのかわからないほど、ミゼラットはおバカではなかった。
そして自分を含めた貴族令嬢たちが〈氷の伯爵様〉と密かに呼び、勝手にいつか自分の前だけでデレてくれる姿を妄想し毎晩うっとりしていた、あのデュアロスの心をあっという間に奪ってしまったアカネを心底憎んだ。
「異世界人だからって何よ、いい気になって! わたくしがどれほど長い時間、デュアロス様をお慕いしているかわかっているの⁉」
あまりの悔しさにミゼラットはそんなことを叫びつつ、ハンカチを歯で噛み締めた。
アカネからすれば「んなもん、知らんわ」状態であるが、恋に狂った女に何を言っても通じない。
ちなみにミゼラットは、「どんな手段を使ってでもモノにしたい男ランキング」に一票投じた女性である。
その情熱というか、独りよがりの想いというか、狂気は並大抵のものではなかった。だから諦めることを知らないミゼラットは、禁じ手を使った――とある秋の夜、デュアロスに媚薬を飲ませたのだ。
【異世界人のアカネ様の件で、急ぎお伝えしたいことがございます。大っぴらにお伝えできる内容ではございませんので、どうかお手数ですが、夜更けにわたくしの屋敷に足をお運びください】
こんな内容の手紙でデュアロスが食いつくかどうか、ミゼラットは自分でしたためながらも半信半疑だった。
ただ、もしデュアロスが手紙を受け取っても自分のもとに来なければ、彼にとってアカネはその程度の存在なのだ。
逆に来てしまったなら、もう媚薬を飲ませて既成事実を作り、責任を取って結婚してもらう。
どちらにしても、ミゼラットにとって得るものはある。
手段を選ばずに意中の男を手に入れようとしている女にしては、少々こすい考えだと思うが、今回もまた彼女の中だけで完結してしまっているので、突っ込みを入れる者は誰もいない。
そんなロンリー激ヤバ思考に溺れるミゼラットだが、実のところ、この計画を実行するまでに半年近く時間を要した。
なぜそんなに時間を費やしたかというと、強力な媚薬を手に入れるのが困難だったためだ。
彼女は危険思想の持ち主ではあるが、一応子爵令嬢である。街の裏路地――特に娼婦街の近くに入れば、怪しげな薬を扱う店はごまんとあるが、そこに行く口実も手段もなかった。意外に人目を気にするタイプなのだ。
それに、一回や二回アカネと会って、彼女から信頼された、秘密を打ち明けられたとデュアロスに伝えたところで、疑われることは間違いない。だからミゼラットは慎重に慎重を重ね、時期を待った。
随分気が長いと思われるかもしれないが、ミゼラットがデュアロスに片想いをしている期間は十年近い。
しかも、一回こっきりしか使えない奥の手を使うとなれば、慎重にならざるを得なかった。
ミゼラットとて焦る気持ちは日に日に強くなっていく。だがぐっと堪えて待ち続け、持てるすべてを使って超強力な媚薬を手に入れたのを機に、計画を実行することにした。
決行日は秋晴れのいい天気だった。彼に抱かれるには、もってこいの日和だ。
手紙は報告書っぽい雰囲気を演出するため敢えて簡素な白い封筒を選び厳重に封をした後、何食わぬ顔で職場に向かう父に託した。
そこそこ仕事人間の父親が、上司宛の手紙を盗み読みすることはまずないだろうと判断して。
父を見送ったあと、ミゼラットはとても忙しかった。
今日のためにこっそり入手した夜の教本という名のエロ本を隅々まで読み、袋とじに記載されていた〝彼の心を鷲掴みにできる喘ぎ声〟なるものをベッドにもぐって、こっそり練習した。
それから夕方になると早めにお風呂に入り、全身を磨き上げた。
なお、その日ミゼラットは夕食を抜いた。彼女は胃下垂なので食後にお腹がぽっこり出てしまうから。
そんな誰一人得にならない涙ぐましい努力をしていれば、いつの間にか夜の帳が下りて、深夜と呼ばれる時間になった。
デュアロスが夜更けにミゼラットのもとを訪ねるのは、無論お忍びである。しかしながら彼女は子爵家のお嬢様なので、屋敷の中には協力者がいる。
手段を選ばず意中の男を手に入れようとしているミゼラットにとって、使用人の弱みの一つや二つ握って自分の手足として動かすことなどお茶の子さいさいなのだ。
――というわけで、デュアロスは青ざめるメイドの案内で、こっそりミゼラットの部屋に通された。
到着して早々にお茶をすすめられ、疑いもせずにそれを飲んだ。まさかその中に媚薬が入っていることなど知らずに。
媚薬が効き始めるのは、十数分後。その間、デュアロスを部屋から出さなければミゼラットの勝ち確定である。
足止め用に部屋の鍵は締めた。時間稼ぎの与太話も、それなりに用意してある。
それに、部屋着に近いドレスの下には大胆なデザインの下着を着込んでいるし、ベッドには初心者のための補助的なアイテムだって準備万端だ。
保険として〝異性をその気にさせるキャンドル(ハードタイプ)〟だってマッチ一つで点火できる。
(抜かりはないわ。だって、わたくしやればできる子だし)
そんなことを心の中で呟き、ミゼラットは淑女としても、人間としても、どうよ? と思うような荒い息を吐きつつ、デュアロスの様子をじっと探った。
しかし、彼の表情は動かない。そろそろ薬の効き目で目が潤んできてもいいのに、宝石みたいな紫眼は冴え冴えとしている。まるで、よく切れる刃物のようだ。
あれ? とミゼラットが首を傾げるのは当然のこと。そのリアクションを待っていたかのように、デュアロスは猫のごとく目を細めて口を開いた。
「随分、変わった味のお茶を出してくれてありがとう、ミゼラット嬢。しかしながら、私にはこういうものは効かない」
一切性的な匂いを感じさせないデュアロスの言葉で、ミゼラットは半年近い時間を費やした計画が音を立てて崩れていくのを感じた。
策は徒労に終わった。加えて彼女はデュアロスからの信頼も失った。
しかしながら、ミゼラットは諦めが悪かった。いや、もう後がないと開き直った。
古今東西、ヤケクソ根性を丸出しにした人間というのは厄介で手に負えない。例に漏れずミゼラットもそうで、彼女はおもむろに己の服を脱ぎ出した。
怒り心頭なのかもしれないデュアロスだって、所詮は男だ。ナニは付いている。
だからドレスの下に仕込んでいる淫乱下着を目にしたら、きっともう一人の彼が反応してくれるはず。だって、下半身は別の生き物らしいから。
要は、ベッドになだれ込んで既成事実を作れば、作戦は成功。ウェルカム、ラーグ伯爵夫人。そしてグッバイ異世界人!
そんな決意でもって下着姿で大胆なポーズを決めたミゼラットに返ってきたのは、こんな言葉だった。
「汚いものを見せるな」
ソファから立ち上がったデュアロスは、下着姿のまま狼狽えるミゼラットを押しのけるようにして、ドアノブに手をかけた。
「え? ……デュアロス様……今なんと――」
「失礼する」
短く言い捨て、ドアノブに手をかけた瞬間、顔を顰めた。
扉には鍵がかかっていたのだ。しかも簡単に外すことができないよう、ロック部分には小細工がしてあった。
「これで私を閉じ込めたつもりか? 随分、舐められたもんだな」
独り言にしてはトゲがありすぎる言葉をデュアロスが吐いたと同時に、バキッと破壊音が響いた。
デュアロスが、扉を蹴っ飛ばしたのだ。
その勢いはすさまじく、たった一度の衝撃で扉はいとも簡単に開いた。とばっちりで被害にあった蝶番が、なんでぇーと言いたげに悲しげに揺れている。
しかしデュアロスは、扉を破壊したことを詫びることなく、またミゼラットに向け言葉をかけることもせず、さっさとコルエ邸を後にしたのだった。
(……くそっ、なんて強力な薬なんだ)
帰宅途中の馬車の中で、デュアロスは脂汗をかきながら必死に呻き声を抑えていた。
ミゼラットの前では「んなもん、効くか」と言い捨てたけれど、それははったりである。
でも、もうやせ我慢も限界だった。心臓が今にも壊れてしまいそうなほど暴れ狂っている。
お茶と共に摂取したのは、間違いなく媚薬だ。しかも、毒にはある程度慣らしている己の身体が、ここまで苦痛を覚えるということは、かなり強力なもの。
今すぐにでも溢れてくる欲望を吐き出したくて、仕方がない。
しかしデュアロスには、惚れた女がいる。たとえ片想いで、相手には保護者としか見られていなくても、デュアロスはその女性がいる世界で、手短に済ますことができる娼婦街に足を向ける気はなかった。
(耐えるしかない。……いや、耐えてみせる)
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