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1巻

1-3

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 この状態で好いた女性がいる自分の屋敷に戻ることは、とても危険な行為だとわかっている。唯一の救いは、今が夜更けであること。
 だから静かに自室に戻って、薬の効能が切れるまで一人じっと耐えれば、何も問題ない。

(そうか……私がこれまで騎士として鍛錬たんれんを積み重ねてきたのは、きっとこのときのためなのだ。なんかちょっと違う気もするけれど、きっとそうなのだ。そうに違いない。そうであってほしい)

 残念なほど支離滅裂しりめつれつな思考になっているが、デュアロスはそんな自分に気づいていない。
 とにかく暴れ回る欲望を抑えてラーグ邸に戻り、自室に駆け込めば問題ないと思っていた。
 なのにあと少しで自室というところで、絶賛片想い中の相手とバッタリ出会うなど、今の彼は想像すらしていなかった。


 馬車が玄関に横付けされると同時に、ひづめの音を聞きつけた執事のダリが出迎える。
 そして、デュアロスのいつにない様子に大体の状況を察し、腕っぷしのいい使用人を呼ぶと、物音を立てず慎重にあるじを部屋に運ぶよう命じた。
 しかし誤算があった。腕っぷしがいい使用人は体育会系であり、揃いも揃って地声がでかかった。

「若様、大丈夫っすか⁉」
「お願いです、若様! どうか死なないでくださいっ。お願いします‼」
「若様、さぁ俺にもっと体重を預けてください‼」

 使用人たちは皆デュアロスをしたっているし、苦悶の表情を浮かべる彼を心から心配している。
 ただただ、心配する気持ちと声量がイコールになってしまっただけで、悪気はこれっぽっちもない。
 だが身体中に媚薬びやくが回っている状態で、同性に触れられるのは心底気持ち悪い。加えて静かに運べと言われた命令をガン無視。うるさいったら、ありゃしない。
 しかも媚薬びやくのせいで喉の渇きが抑えられず、つい下唇をめたら、あろうことか使用人の一人がゴクリと唾を呑んだ。やめろ。
 思わずギロリとにらめば、彼らは間違った方向にテンションを上げ、また叫び出す。もはやそれは獣の咆哮ほうこうに近い。

(お前たち、別に雪山で遭難したわけじゃないのに、そこまで声を荒らげる必要があるのか⁉)

 理性なんてほとんど残っていないデュアロスであるが、それでも歯を食いしばり、苛立いらだちをぐっと抑えて歩く。右足と左足を二秒以内に交互に出さないと死ぬという暗示をおのれにかけて、ひたすら歩く。歩く。
 それは使用人の気持ちも理解できるから……というのもあるが、ここで自分が「黙れ」と一喝すれば、さわぎはより大きくなることが目に見えていたからである。
 デュアロスはこんな無様な姿を、アカネにさらしたくはなかった。
 ただでさえ仕事人間で面白みのない男に、みっともない姿が加われば、最悪「こんな気持ち悪い男の屋敷になんかいたくない」などと言われてしまうだろう。
 それがなにより怖かった。
 アカネの口からつむがれる「気持ち悪い」という言葉は、どんな毒より強力で、どんな剣より切れ味抜群に違いない。
 なのに……それなのに、薄暗い廊下から寝間着ねまき姿の彼女がひょっこり顔を出してきた。
 しかもトコトコと小走りに近づいてきたかと思ったら、こう言った。

「ど、ど、ど、ど、どうしたんしゅか⁉」

 よくわからない言葉を叫びながら自分をのぞき込んだアカネを見て、デュアロスはこう思った。

寝間着ねまき姿初めて見た。たまらなく、可愛い)

 一瞬、我を忘れてアカネを食い入るように見つめてしまったが、すぐに冷や汗が出た。しっかりと身体に異変が起こったのがわかったから。
 アカネはショールすら羽織はおっておらず、胸元がわずかにゆるんだ寝間着ねまき姿で目の前に立っている。
 きっとさわぎを聞きつけて、ベッドから起き出してきたのだろう。胸の下まである髪は乱れており、媚薬びやくを飲んでしまった自分にはあまりに刺激が強い。
 そのため、もう一人の自分が「え? 何? 呼んだ?」とむくりと起き出してしまっている。

(くそっ。お前なんかお呼びじゃない。引っ込んでいろ! ハウスだ、ハウス‼)

 全力で自分の分身を叱咤しったするが、こんなときに限って分身は反抗期のようで、ここにいたいと主張する。
 デュアロスは死にたくなった。
 今、目の前にいるアカネは、ただただ自分の身体を心配してくれている。
 それなのに不埒ふらち妄想もうそうを抱いて身体が反応したなど、あってはならないことだ。万死ばんしに値する。
 万が一、この醜態しゅうたいが彼女に知られてしまったら、間違いなく自分は生きていけない。いや自決する。
 そこまで追い詰められたデュアロスであるが、精一杯虚勢きょせいを張って「大丈夫」とアカネに笑みを返す。ちっとも大丈夫ではないけれど。
 しかし、アカネはそれでは納得できないようで、こともあろうに執事のダリにどうしたんだと詰め寄る始末。
 デュアロスは額に違う意味の汗を浮かべながら、すぐさまダリに視線だけで「何も答えるな。上手うま誤魔化ごまかせ」と命ずる。
 しかし、普段なら言葉で言わずとも自分の意図を汲み取ってくれる執事は、アカネに向けて言った。「若様は、何者かに強い媚薬びやくを飲まされました」と。
 薄暗い廊下で、アカネが小さく息を呑む気配が伝わってくる。
 次いで「え? なんで?」と妙に冷静な呟きを聞いて……デュアロスは、社会的に死ぬとはこういうことかと身をもって知ってしまった。
 項垂うなだれるデュアロスを隠すように、使用人たちがさっと前に立つ。
 こんなに心が打ちひしがれているというのに、もう一人の自分だけはなぜか元気いっぱいで、 デュアロスはできることなら言うことをちっとも聞いてくれない分身を、力の限り張り倒してやりたかった。
 とはいえ、反抗期のもう一人の自分をどうすればいいのか頭を悩ませたところで、媚薬びやくが全身に行き渡っている今の自分では、まともな答えに辿たどり着けるわけがない。
 最悪、最も言ってはならないことを口にしてしまう恐れがある。いや、彼女を抱きたいという意思が声になり、今にも喉からあふれそうだ。
 そんな汚い言葉を、アカネに聞かせるわけにはいかない。それを匂わせる言葉を一言でも吐いてしまえば、終わりだ。
 だからデュアロスは、じっとこちらの様子をうかがっているアカネに、精一杯の虚勢きょせいを張る。

「アカネ……夜中にさわがしくして……すまない。わ、私は大丈夫だから……も、もう休むんだ」

 今、これを見ていた神様から「あ、お前、嘘ついたね。はい地獄行き」と沙汰を下されても文句は言えない。
 ちっとも大丈夫ではないし、部屋に戻ってもほしくない。傍にいてほしいし、この激痛に近いうずきをなんとかしてほしい。
 そう切望しているが、おのれつむいだ言葉は別のもの。貴族の家に生まれ厳しい教育を受け、騎士として心身をきたえて、それでもおのれの分身を抑えられないデュアロスができるこれが最後で最大級のアカネへの配慮だった。
 なのに、アカネはこの場から動かない。しかもまた、ダリに向かってとんでもないことを尋ねたのだ。

「どうやったらヌケるんですか?」
(なんてあけすけなことを言ってくれるんだ⁉)

 媚薬びやくに解毒剤はない。楽になるための方法は一つしかない。
 しかしその方法は千差万別だ。男と女の数だけ、やり方はある。ただそれを端的に聞かれた側は、正直言ってたまったもんではない。
 それなのにえてやり方を尋ねるということは……と、デュアロスがここまで考えた瞬間、彼は絶望のふちに立たされた。

(ま、ま、まさか……アカネは、私のことを仕事人間のつまらない男と思っているだけではなく、通常の方法では満足できない、とんでもない変態だと思っているのか⁉)

 言っておくがアカネは純粋に解毒方法を尋ねただけ。
 異世界生活を始めて半年、さすがに夜の営みに関する情報共有などしていないし、元の世界でも媚薬びやくとは無縁の生活を送っていたのだ。
 だが、使用人たちもダリも、アカネの問うた意味を大いに勘違いし、えも言われぬ微妙な空気が廊下に充満する。
 その空気に、デュアロスは耐えられなかった。

「……行くぞ」

 よく言えたと自分をめつつ、デュアロスは使用人たちをうながすと、ふらつく足を叱咤しったして再び歩き出す。
 もう一人の自分が「えー」と不満の声を上げるが無視する。こっちだって辛いんだ。色んな意味で。
 逃げるように部屋に一歩足を踏み入れると同時に、使用人たちを追い出し鍵をかけた。次いで、崩れるようにベッドに倒れる。

(……くそっ。寝間着ねまき姿を見たせいで、余計に苦しい、辛い。……でも可愛かった)

 うつ伏せの姿勢でデュアロスは、ぎゅっとシーツを握り呻き声を殺す。
 これからは孤独な闘いになるであろうと覚悟を決めたデュアロスだが、その数分後、ひょっこり姿を現したアカネを見て、その覚悟は一瞬で崩れ去ることになった。


   †


(……結局、誘惑に勝てずに彼女を抱いてしまった)

 ラーグ邸の執務室にいるデュアロスは一人、あの晩のことを思い出していた。
 そんな彼は、執務机に両肘を立て、指を組んだ両手に額を当てている。その様は、苦悶しているようにしか見えない。
 だがしかし、頭の中は随分ずいぶんとハレンチな内容で埋めつくされていた。
 言っておくが、彼はむっつりスケベではない。多分。
 だが、そんな彼の頭がピンク一色になってしまうほど、あの晩は、デュアロスにとってセンセーショナルな出来事だったのだ。


 アカネから抱いていいと言質げんちをもらったとはいえ、デュアロスは彼女を娼婦扱いする気はなかった。アカネ自身にも、そんな気持ちで抱かれてほしくなかった。
 だからまず、彼女に触れるだけの口づけを落とした。
 フィルセンド国では、娼婦に口づけをするのはご法度はっとである。
 逆に言えば、口づけを受け入れてくれた時点で、アカネのことを娼婦ではなく一人の女性として抱いていいといえる。
 結果として、アカネは口づけを受け入れてくれた。嬉しさのあまり、ついディープなヤツをしても彼女はちゃんと受け入れてくれた。もう、そこからは変態と思われないように必死だった。
 デュアロスは女性を抱くのは初めてではない。でも「じゃあ、いつ抱いたの?」と聞いてはいけない。……夜の営みにおいて、男性は女性をリードしないといけないのだ。いつか出会う運命の人のために練習は必要になる。
 そしてあの晩こそが、デュアロスにとって「いつか出会う運命の人」との初めてだったのだ。
 そんなわけで、彼は自分の持てるすべてを使って、アカネの身体を隅々まで愛した。
 がっつきたい気持ちを必死に抑え、変態と思われたくない一心で、スマートにかつスタイリッシュにアカネをベッドの中でリードした。
 その最中、アカネはこれ以上ないほど可愛らしかった。
 はにかみながらも、反応が良く、頭がおかしくなりそうなほど甘い声を出す。死ぬときを選べるなら、今がいいと思えるほど、デュアロスにとって最高の時間だった。
 ただそんな夢のような最中、ちょっと気になることが一つだけあった。
 長い長い前置きをしてから『いざ』となったとき、アカネが「コレ使って!」と、どこに仕込ませていたのかわからないが謎のびんを押し付けてきたのだ。
 二拍おいてびんの中身が何かわかった。初めての女性をいたわるマストアイテムだ。
 どうしてアカネがそんなものを持っているのか疑問に思ったが、媚薬びやくにおかされていた自分は深く考えなかった。
 けれど、この言葉だけは今でも鮮明に覚えている。

「ごめんなさいデュアロスさん。私ね、

 びんを押し付けた際にアカネが言った台詞せりふは、作り物めいたものではなかった。本気でこの後すぐに味わうであろう痛みにおびえたからこそ口にしたものだった。

(……つまりアカネは、誰かとまで経験していたということか)

 デュアロスは、自分があの夜のために練習してきたことなどちゃっかり棚に上げて、ぐっと眉間みけんしわを寄せた。
 なんだと、お前だってしてんじゃん! という厳しい批判はどうか待ってほしい。
 ここフィルセンド国の女性は、結婚するまでは純潔をまもり、とついだ相手に捧げるのが良識であり、大衆倫理なのだ。また貴族の男女に至っては、十歳も過ぎれば素手で手を握り合うことすらはしたないことだと教えられる。
 デュアロスは貴族の家に生まれ、嫡男ちゃくなんとして厳しい教育を受けてきた。だから、アカネが異世界人だとわかっていても、どうしたっておのれの固定観念を捨てることができない。
 しかし、デュアロスはあの晩、そんな気持ちにふたをして生まれて初めて心からいとしいと思える女性を抱いた。
 本来ならどんな強力な媚薬びやくとて、一度イタすことができれば少しは気持ちが落ち着くもの。
 しかしながらデュアロスは、一度イタしても落ち着くどころか飢えた狼のように、アカネを求めてしまった。
 華奢きゃしゃな身体をうつ伏せにして染み一つない背中に口づけを落とし、腰をつかんだ。また、より密着したいという欲望からアカネをおのれひざに乗せた。
 他にも、くったりと横向きに寝そべったアカネに寄り添うように自分の身体を横たえると、そのままの姿勢でむさぼった。
 媚薬びやくの効能はとっくに切れていたはずなのに、何度アカネを求めても飢えがとまらなかった。
 あの晩の自分は、何かに急き立てられていた。いや、ずっとずっと我慢していた心のたががはずれてしまっていた。
 愛する人と肌を合わせる喜びは想像以上のものだった。控えめに言って、ものすごく良かった。身も心も満たされるとはこういうことかと、言葉ではなく直接身体で理解した。
 そんなわけでデュアロスは、明け方近くまでアカネを求め、求め、求め続け、ようやっと眠りについた。もちろん、しっかり彼女を自分の腕の中に抱き込んで。


 夜が明けて、小鳥がチュンチュン鳴く声で目が覚めたデュアロスは愕然がくぜんとした。
 明るい部屋の中、二人の衣類は床に散らばり、あろうことか中身が空になったびんが転がっていた。
 しかも自分の腕の中で眠るアカネの身体には、昨晩愛し尽くしたあかしとして、腕に、うなじに、胸元に……薄紅うすべに色のアザが散っていたのだ。

(最悪だ! ここまで野獣と化していたとは)

 媚薬びやくが完全に抜けた彼が直面したのは、軽蔑けいべつすべきおのれの姿だった。
 容赦ない現実に打ちのめされたデュアロスは、なかば無意識にアカネからそっと腕を離すと、上半身を起こして項垂うなだれた。
 身体を動かした際に、シーツの隙間すきまから見えた染みが痛々しい。どうしたって「なんてことをしてくれたんだ!」と自分をののしっているように見えてしまう。

(……もう終わりだ。節操の欠片かけらもなく彼女を抱いてしまったのだ。完璧に自分はアカネに嫌われてしまった)

 昨晩のアレコレが無駄に色鮮やかに思い出され、デュアロスは情けなさのあまり、ぐっとこぶしを握りしめた。
 さぞや辛かったであろう。痛かったであろう。逃げることもできず、怖かったであろう。
 アカネが受けた痛みは、男である自分では一生味わうことができないもの。そのため、どうしたって想像の範囲でしかわからない。
 そんな現実に打ちのめされたデュアロスは、今すぐにでも死んでしまいたいと切望する。
 けれど、ここでスピスピ眠っていたアカネがもぞっと動いた。次いで、ぼんやりと目を開ける。

「……あー、デュアロスさん、おはようございます」

 枕に半分顔をうずめてふにゃりと笑うアカネを見て、デュアロスは「この可愛らしさは、悩殺レベルだ」と、胸をキュンとさせる。と同時に、そんな自分をやっぱり殺したくなった。
 そんなデュアロスの苦悩などちっとも気づいていないアカネは、ふわぁーとあくびをして、再び口を開いた。

「あの……今日は朝ごはん、いらないです。眠いんで……」
「ああ、わかった」

 デュアロスが反射的に返事をしたときには、アカネはもうスピスピと寝息を立てていた。
 その寝顔はとても無邪気であどけなく、昨晩の苦痛を微塵みじんも感じさせないものだ。

(……は? 私に言いたいのは、朝食のことだけなのか? ……は?)

 デュアロスは乱れた毛布をアカネにかけ直しながら、何度も首をひねった。てっきり目覚めるや否や、罵詈雑言ばりぞうごんを浴びせられると覚悟していたというのに。
 起きてからデュアロスをずっと悩ませていたのは、びんを差し出すと共に告げられた「私ね、ここからは初めてなんだ」というアカネの台詞せりふ
 ここフィルセンド国の貴族たちは、物心がついた頃には、男女が触れ合うことははしたないと教えられる。だが、何事も例外がある。たとえば、近い将来結婚すると決めた男女――つまり婚約者同士の場合は、ある程度の触れ合いが許される。
 すなわち、アカネの「私ね、ここからは初めてなんだ」という台詞せりふは、アカネには既に婚約者がいたということだ。それなのにデュアロスはアカネの身体をむさぼった。しかも一度ならず、一晩に何度も。アカネには結婚を約束した相手がいたのに。
 そんなことを悶々と考えていたから、まさか食事の話をぶっこまれるとは思いもよらなかったし、秒で二度寝されるなど考えもしなかった。
 昨日から続く予測不能な展開に、デュアロスはここ数年経験したことがないほど混乱している。
 だがしかし、心地よい寝息を立てているアカネを揺り起こす真似などできるわけもなく――結局、デュアロスは気配を消して、そっと身支度を整え、仕事へと向かった。
 もちろんダリに朝食の件を伝えることは、忘れずに。
 言っておくが、デュアロスは、この媚薬びやくの一件から目をらしたくて逃げたわけではない。
 一人の男として早々にやるべきことがあったから、城に向かったのである。


 デュアロスは固い決意を持って王城に向かった。
 いや、いつも仕事で来てんじゃんとお思いかもしれない。確かにそのとおりである。しかしながら、本日デュアロスが王城に向かうのは、仕事など二の次、三の次。いの一番で国王陛下に謁見えっけんするためである。理由はもちろん、異世界人であるアカネを妻にする許可を得るため。
 媚薬びやくの効能でもう一人の自分が元気一杯であろうとも、アカネの寝間着ねまき姿に悶絶しようとも、デュアロスはこれまで女性に対して誰よりも潔癖けっぺきであった。
 竜伯爵という名はお飾りではない。爵位を持つ男がおのれの意思でもってアカネに触れた。それすなわち、自分の伴侶にするという覚悟の上だった。
 だが結婚の許可を得る際に、その身をもって自分を救ってくれたアカネに対して責任を取るため、などとは言いたくない。デュアロス自身がアカネを妻にできることにこれ以上ないほどの喜びを覚えているのだから。
 ただ、アカネは異世界人である。
 オシャレとスウィーツとスマホの無課金ゲームをこよなく愛するごくごく普通の女性ではあるが、デュアロスにとっては女神であり、美しさの象徴であり、可愛いの権化ごんげであり、また国王陛下からすれば、六百年ぶりにこの世界に舞い降りてくれた尊き存在なのである。
 同時にこの国のご事情として、国王陛下の息子――殿下と呼ばれる者が独身生活を謳歌おうかしており、ここ最近の国王陛下の悩みは息子の妻を誰にするかということで。
 そんな状態で、まるで図ったかのように異世界人(しかも年頃の女性)が舞い降りてしまったら、これぞまさしく息子の嫁に! となるのは無理からぬ話だった。
 だからこそデュアロスは取るものも取りえず、国王陛下のもとに向かった。既成事実を遠回しに伝え、今後一切、アカネを次期王妃になどと思わせないために。
 もちろん、王妃候補に手をつけたのだ。不敬罪と判断されても致し方ない。差し出せるものは、爵位だろうが領地だろうがすべて差し出すつもりだった。ただ、アカネだけは譲れない。

(最悪すべてを捨てて国外逃亡も辞さない)

 揺れる馬車の中、思いつめたデュアロスは、そんなことまで考えていた。


 いつもどおりの場所で馬車を降りると、はやる気持ちからデュアロスは駆け足で城内へ向かおうとする。
 だが駆け出してすぐ、ざっと人影が現れたかと思ったら、行く手を阻むように自分の足に絡みついてきた。

此度こたびのこと、ミゼラットから聞き出しました。まことに申し訳ございませんでした‼ 我が娘に、なにとぞ慈悲を‼」

 条件反射で振り払おうとしたが、悲痛な声を上げたのが見覚えのある人物であることに気づき、デュアロスは間一髪でりを押しとどめた。
 デュアロスの行く手をさえぎったのは、ミゼラットの父であるニベラド・コルエであった。
 彼がみっともなくすがりつくのも無理はない。昨晩、デュアロスが扉を蹴破けやぶった破壊音はすさまじく、コルエ邸の隅々まで届いてしまった。既に就寝中だったニベラドのもとにも、もちろん。
 その結果、ニベラドは夜襲を受けたと勘違いし、まずはいとしい娘が無事かどうかを確認しにミゼラットの部屋に飛び込んだ。
 その結果、淫乱極まりない下着を身に着けて呆然としている娘を見てしまった。そういうとき、父親がどんな表情になるかはご想像にお任せする。
 ただ、ミゼラットから無理矢理に事の詳細を聞いたニベラドは、本気で心臓が止まるかと思った。色んな意味で。
 その後、中年に差しかかった身体にむちを打って、彼は夜中にラーグ邸へと謝罪に向かったが、けんもほろろに追い返され、夜通し王城にてデュアロスの到着を待っていたのである。
 しかしながらデュアロスはとても急いでいた。この一件の発端となったミゼラットの存在をすっかり忘れてしまうほどに。
 だから娘の不始末を詫びる補佐に対して、怒鳴りつけることも、どう落とし前をつけるのか? とおどすこともせず「お前に一任する」と言い捨てて、ニベラドの腕を振りほどき王城内へと消えていった。
 その結果、ミゼラットは、王都郊外の修道院で行儀見習いという名の謹慎をすることになる。
 そのまま修道女になるかどうかは今後の展開次第、また猪突猛進ちょとつもうしんな彼女の性格が穏やかになるかどうかは、まさに神頼みであった。


 軽いアクシデントはあったものの、デュアロスは無事王城に足を踏み入れた。
 何事だとさわぐ官僚の一人をひっ捕まえて強引に謁見えっけんの手配をさせ、あくびをみ殺す国王陛下に「彼女の魅力に我慢ができず、ついに手を出してしまった。既成事実を事後報告するのは、大変遺憾いかんではあるが、どうかアカネとの結婚を認めてほしい」と訴えた。
 真面目で堅物、女性に対して異常なほど潔癖けっぺきであったデュアロスが、下半身の暴走により婚前交渉をした。
 この事実を耳に入れたときの国王陛下の顔は見ものだった。きっと末代まで語り継がれるであろう、間抜けな顔だった。
 しかし、その三秒後、国王陛下は額に手を当て天を仰ぐと「こりゃあ、参った!」と言って大爆笑した。
 国王陛下は、それ以上何も聞かなかった。ひたすら笑いをこらえながら、大臣を呼びつけ、国王陛下直筆の婚約証明書を発行して、デュアロスに手渡した。
 ついでに「君も男だったんだな」と余計な一言も付け加えて。


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