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グイ―ド・フェグダ・ハイネンは朝から不機嫌だった。
愉しい目論見が外れたからである。
事の発端は昨日の事。
悪友たちとの会話の中で、とあるクラスメイトの事が槍玉に上がった。
最近何となく生意気だ、と。
それは傍から見れば理不尽な誹りに違いなかったが、グイード達にとっては全く正当な批判だった。
その男子学生ハンスは平民で、グイード達は日頃から『身の程』を教えてやっていたのだ。
それがどうも最近ハンスはそれに慣れてしまったらしく、どんな雑用を押し付けても平気な顔でこなすようになってしまっていた。
つまりは嫌がらせをしているのに平然としている――ように見えるのが腹立たしかったのである。
そこでグイードはハンスの増長を懲らしめる為一計を案じた。
立ち入りを禁じられている旧天文台の倉庫整理を押し付け、何かしら痛い目を見れば良いと思っていたのだ。
しかし明くる日である今朝、ハンスは平気な顔で授業に顔を出している。
魔道具か何かで事故に遭うと良い。
そうでなくとも命の危機に怯えたのだから、無様な不満の一つも吐けば良い。
それでグイード達は嘲笑って溜飲を下げるつもりだった。
しかしグイードがからかい半分に声を掛けて見れば、ハンスはきょとんとした顔でただこう呟いた。
「……誰だっけ、キミ」
ふざけるでもなく、嫌味でも無く。
本当にコチラの事など忘れてしまったかのような、興味の失せた呆け面。
グイードはそれを目の当たりにした瞬間、怒りで己の顔が一挙に染まり上がるのを感じた。
――卑しい平民の分際で!
衆目に晒された朝の教室でそう叫ばなかったのは、幸運な事だった。
だが醜態を晒さずに済んでも、グイードの怒りは冷めやらない。
ハンスはそんなグイードを嘲笑うでも無く、その後もずっとそんな調子だった。
悪ガキのイタズラに遭った大人の対応。
一言で言うならば、ハンスのグイード達に対する態度はそんな具合だった。
それが朝からずっと続いている。
――ふざけるなよ? これじゃ全くあべこべじゃないか。
馬鹿にするつもりが、逆に嘲笑されている。
暗澹としたグイードの意識を覚醒させたのは、本日三つ目になる講義の始まりの合図だった。
「ではこれより、魔術による飛行訓練を開始する」
カールした髭を撫でながら、担当の教員は広場でそう宣言した。
「『飛行』の魔術は魔術師の基本だね。君たちも絵本とかで空を飛ぶ魔女を見た事はあるだろう?」
冗談めかした教師の言葉に、学生たちの頬も緩む。
「しかし基本とは言っても、それは容易いという事では無い。『飛行』の魔術は奥が深いんだ」
他の学生たちと同じように大人しくそれを聞いていたグイードは、にやりと口角を釣り上げた。
教師の言う通り、『飛行』の魔術は意外と難易度が高い。
ただ地面から少し浮くというだけでも、グイードは幼い頃丸一か月の時間を必要とした。
そしてそこから更に高度を上げるごと、動き廻るごとに『飛行』の魔術の難易度は上がっていく。
まさに魔術師の腕映えが如実に顕れる魔術なのである。
それを今見せつけてやらない手は無い。
はっきりと実力の差を見せつければ、ハンスの生意気な顔を剥ぎ取れるだろう。
グイードはそう考えて、昏い愉しみの為にいつものように悪友たちと含み笑いを交わした。
「最初はあまり高く飛び過ぎないように。地面に熱烈なキスをする羽目になるからね。それじゃあ、はじめ!」
教師の合図が終わるや否や、グイードは素早く杖を振って呪文を唱える。
風精マナが練り上げられるとグイードは三階ほどの高さまで飛び上がり、悪友たちも数拍遅れてそれに続いた。
「さてと、ハンスの奴はどこだ?」
きっとあの劣等生は未だに杖を振るのに四苦八苦している事だろう。
それを嘲笑ってやれば間違いは正され、自分たちはいつものように愉悦に浸れる。
そう考えてグイード達はハンスの姿を探した。
しかしどれだけ目を走らせようとも、ハンスの姿は影一つ見えない。
それどころか、何か妙な雰囲気だった。
地面に残された学生や教師たちが、驚愕の表情でこちらを見上げている。
グイードは悪友たちと首を傾げ合った。
自分が驚くほど優秀なのは、既に分かり切っている事。
いち早く飛び上がって見せた所で、今更驚くような事では無い筈。
そして気づく。
彼らの視線が自分たちを抜けて、更に先に向けられている事に。
「……何だ?」
釣られるようにして上げたグイード達の顔は、そのまま下の人たちと同じように固まった。
いや、それよりも数段酷い。
あんぐりと大口を開けた、バカそのものの顔。
それをあのハンスが、天から見下ろしていた。
「いや、素晴らしい!」
いち早く動き出したのは、担当の教師だった。
「その発動速度、高度! 随分と魔力制御を練習したみたいだね! そして何よりその制止技術!」
その教師の指摘を聞いて、グイードは初めてハンスが空中で完全に停止していることに気が付いた。
驚愕か、それともそれ以外の感情か、グイードは思わず「ぐっ」と唸った。
空中での完全停止――その意味を知るのはこの場では教師とグイードくらいのものだ。
「『飛行』は制御が難しい。自在に飛び回るというのもそうだが、何より『停止する』という事が空中では何より難しいんだよねえ」
うんうん、と教師は満足げに頷く。
学生たちはそれを聞いて感嘆の声を上げ始める。
グイード達だけが何も言わず、口惜し気に屋根付近で静止しているハンスを忌々し気に睨み付けていた。
「うん、今年の新入生は優秀な子が多いようだね。それでは一番高く飛んだハンス君、それから二番目のグイード君! キミたちの評価には『A』を付けて置こう!」
他の生徒たちに発破を掛ける為だろうか、教師は手を打ちながらそう宣言した。
生徒たちの成績は抗議ごとに評価づけられ、『A』は五段階評価の最優である。
初めて授業で『A』認定を受けたハンスは満更でも無いようで、緩んだ頬を掻きながら徐々に高度を下げて来た。
だがグイードの心中はそんな穏やかさとはかけ離れていた。
何よりこの自分が、劣等性に次いで『二番目』という評価が気に入らない。
同じ最優評価だ、と言われてもそれはもうゴミだ。
ゴミに価値など無い。
そしてそんな屈折したグイードの自尊心は、地上に降りる為に高度を下げて来たハンスとすれ違った時に爆発した。
ハンスはグイードの事など見ていなかった。
「……クソッ! 高く飛べば良いんだろッ!」
「グ、グイード君!? あんまり高い所は危険だからッ!」
教師の制止の声も振り切り、グイードは『飛行』の魔術で更に天高く飛び上がろうとした。
高く、高く、ハンスより上であれば、軋みを上げる自尊心を救えると信じて。
しかし先ほどのハンスと同じく、屋根の高さまで上がった時に気づく。
この高さで静止など、高度な技術は自分には無いという事に。
ただ飛び上がっただけでも振り子時計のようにグイードの体は左右に振れていた。
その事実がまた、グイードの顔を羞恥と怒りの色で染める。
――もっと高く、見えないほどの高さまで上がればそれも誤魔化せるのではないか。
そんな小癪な考えがふと浮かび、グイードはそれに縋りつこうとした。
失敗すれば大怪我は必至、命も危うい無謀で無意味な試みである。
だが幸いな事に、グイードがそれに挑む事は無かった。
「グイードくんッ!?」
殆ど悲鳴のような教師の叫びが辺りに木霊する。
そして次の瞬間、ドゴンという鈍い音が広場に響いた。
振り子のように揺れていたグイードの体が、校舎の屋根にぶつかった音だ。
「ぐげっ!」
カエルが潰れたような声を上げ、グイードは滑稽な姿で天から落ちる。
そして地面に届いた時、全く同じ無様な声をもう一度上げた。
「……あー、だから言ったでしょう? 地面にキスする羽目になるって。グイード君の評価は取り消しだねえ」
呆れた教師の残酷な台詞に、グイードは絶望の表情を見せた。
両の鼻の穴から赤い水を垂れ流し、右目に大きな青いこぶを作った顔で。
その日から、グイ―ド・フェグダ・ハイネンはずっと不機嫌だった。
◆
「……やった!」
ハンス・ユーカ―は上機嫌だった。
長年の宿願がやっと叶ったからだ。
初めての授業での『A』判定。
自分の人生が大きく変わったと実感した瞬間。
人から認められて嬉しくない人間など居ない。
その喜悦を人前で見せびらかすほど、もう自分は若くは無いという自負があるが。
「……それにしてもアイツ、なんだったんだろう?」
何気なくハンスの頭に浮かぶのは、金髪のにニヤケ面。
朝から何度となく絡んできて、うっとうしい事この上なかった。
だが同時に、それを懐かしむような気持ちもあった。
「あ、そうだ。グイード!」
そんな奴も居たな、とハンスは薄暗い廊下一人納得をした。
遠い日の記憶の中には、そんなヤツもいた。
だが今のハンスはそんな輩の事は歯牙にもかけるつもりは無かった。
復讐などバカらしい。
自分はそんな事の為に何年も修行を積んできたワケでは無いのだ。
一晩の間、何十年もの修行を――。
「お師匠、ただいま戻りました!」
旧天文台、その床下にある巨大な姿見をするりと抜けながらハンスは朗らかな声を掛けた。
気心の知れた、近しい人に贈る声音である。
「……遅いわよ」
しかし薄暗い部屋の奥から響く声は不機嫌そのもの。
机の上にうず高く積まれた本の隙間から、紫焔の瞳が除く。
明け方の空のように、怪しく美しい瞳だった。
愉しい目論見が外れたからである。
事の発端は昨日の事。
悪友たちとの会話の中で、とあるクラスメイトの事が槍玉に上がった。
最近何となく生意気だ、と。
それは傍から見れば理不尽な誹りに違いなかったが、グイード達にとっては全く正当な批判だった。
その男子学生ハンスは平民で、グイード達は日頃から『身の程』を教えてやっていたのだ。
それがどうも最近ハンスはそれに慣れてしまったらしく、どんな雑用を押し付けても平気な顔でこなすようになってしまっていた。
つまりは嫌がらせをしているのに平然としている――ように見えるのが腹立たしかったのである。
そこでグイードはハンスの増長を懲らしめる為一計を案じた。
立ち入りを禁じられている旧天文台の倉庫整理を押し付け、何かしら痛い目を見れば良いと思っていたのだ。
しかし明くる日である今朝、ハンスは平気な顔で授業に顔を出している。
魔道具か何かで事故に遭うと良い。
そうでなくとも命の危機に怯えたのだから、無様な不満の一つも吐けば良い。
それでグイード達は嘲笑って溜飲を下げるつもりだった。
しかしグイードがからかい半分に声を掛けて見れば、ハンスはきょとんとした顔でただこう呟いた。
「……誰だっけ、キミ」
ふざけるでもなく、嫌味でも無く。
本当にコチラの事など忘れてしまったかのような、興味の失せた呆け面。
グイードはそれを目の当たりにした瞬間、怒りで己の顔が一挙に染まり上がるのを感じた。
――卑しい平民の分際で!
衆目に晒された朝の教室でそう叫ばなかったのは、幸運な事だった。
だが醜態を晒さずに済んでも、グイードの怒りは冷めやらない。
ハンスはそんなグイードを嘲笑うでも無く、その後もずっとそんな調子だった。
悪ガキのイタズラに遭った大人の対応。
一言で言うならば、ハンスのグイード達に対する態度はそんな具合だった。
それが朝からずっと続いている。
――ふざけるなよ? これじゃ全くあべこべじゃないか。
馬鹿にするつもりが、逆に嘲笑されている。
暗澹としたグイードの意識を覚醒させたのは、本日三つ目になる講義の始まりの合図だった。
「ではこれより、魔術による飛行訓練を開始する」
カールした髭を撫でながら、担当の教員は広場でそう宣言した。
「『飛行』の魔術は魔術師の基本だね。君たちも絵本とかで空を飛ぶ魔女を見た事はあるだろう?」
冗談めかした教師の言葉に、学生たちの頬も緩む。
「しかし基本とは言っても、それは容易いという事では無い。『飛行』の魔術は奥が深いんだ」
他の学生たちと同じように大人しくそれを聞いていたグイードは、にやりと口角を釣り上げた。
教師の言う通り、『飛行』の魔術は意外と難易度が高い。
ただ地面から少し浮くというだけでも、グイードは幼い頃丸一か月の時間を必要とした。
そしてそこから更に高度を上げるごと、動き廻るごとに『飛行』の魔術の難易度は上がっていく。
まさに魔術師の腕映えが如実に顕れる魔術なのである。
それを今見せつけてやらない手は無い。
はっきりと実力の差を見せつければ、ハンスの生意気な顔を剥ぎ取れるだろう。
グイードはそう考えて、昏い愉しみの為にいつものように悪友たちと含み笑いを交わした。
「最初はあまり高く飛び過ぎないように。地面に熱烈なキスをする羽目になるからね。それじゃあ、はじめ!」
教師の合図が終わるや否や、グイードは素早く杖を振って呪文を唱える。
風精マナが練り上げられるとグイードは三階ほどの高さまで飛び上がり、悪友たちも数拍遅れてそれに続いた。
「さてと、ハンスの奴はどこだ?」
きっとあの劣等生は未だに杖を振るのに四苦八苦している事だろう。
それを嘲笑ってやれば間違いは正され、自分たちはいつものように愉悦に浸れる。
そう考えてグイード達はハンスの姿を探した。
しかしどれだけ目を走らせようとも、ハンスの姿は影一つ見えない。
それどころか、何か妙な雰囲気だった。
地面に残された学生や教師たちが、驚愕の表情でこちらを見上げている。
グイードは悪友たちと首を傾げ合った。
自分が驚くほど優秀なのは、既に分かり切っている事。
いち早く飛び上がって見せた所で、今更驚くような事では無い筈。
そして気づく。
彼らの視線が自分たちを抜けて、更に先に向けられている事に。
「……何だ?」
釣られるようにして上げたグイード達の顔は、そのまま下の人たちと同じように固まった。
いや、それよりも数段酷い。
あんぐりと大口を開けた、バカそのものの顔。
それをあのハンスが、天から見下ろしていた。
「いや、素晴らしい!」
いち早く動き出したのは、担当の教師だった。
「その発動速度、高度! 随分と魔力制御を練習したみたいだね! そして何よりその制止技術!」
その教師の指摘を聞いて、グイードは初めてハンスが空中で完全に停止していることに気が付いた。
驚愕か、それともそれ以外の感情か、グイードは思わず「ぐっ」と唸った。
空中での完全停止――その意味を知るのはこの場では教師とグイードくらいのものだ。
「『飛行』は制御が難しい。自在に飛び回るというのもそうだが、何より『停止する』という事が空中では何より難しいんだよねえ」
うんうん、と教師は満足げに頷く。
学生たちはそれを聞いて感嘆の声を上げ始める。
グイード達だけが何も言わず、口惜し気に屋根付近で静止しているハンスを忌々し気に睨み付けていた。
「うん、今年の新入生は優秀な子が多いようだね。それでは一番高く飛んだハンス君、それから二番目のグイード君! キミたちの評価には『A』を付けて置こう!」
他の生徒たちに発破を掛ける為だろうか、教師は手を打ちながらそう宣言した。
生徒たちの成績は抗議ごとに評価づけられ、『A』は五段階評価の最優である。
初めて授業で『A』認定を受けたハンスは満更でも無いようで、緩んだ頬を掻きながら徐々に高度を下げて来た。
だがグイードの心中はそんな穏やかさとはかけ離れていた。
何よりこの自分が、劣等性に次いで『二番目』という評価が気に入らない。
同じ最優評価だ、と言われてもそれはもうゴミだ。
ゴミに価値など無い。
そしてそんな屈折したグイードの自尊心は、地上に降りる為に高度を下げて来たハンスとすれ違った時に爆発した。
ハンスはグイードの事など見ていなかった。
「……クソッ! 高く飛べば良いんだろッ!」
「グ、グイード君!? あんまり高い所は危険だからッ!」
教師の制止の声も振り切り、グイードは『飛行』の魔術で更に天高く飛び上がろうとした。
高く、高く、ハンスより上であれば、軋みを上げる自尊心を救えると信じて。
しかし先ほどのハンスと同じく、屋根の高さまで上がった時に気づく。
この高さで静止など、高度な技術は自分には無いという事に。
ただ飛び上がっただけでも振り子時計のようにグイードの体は左右に振れていた。
その事実がまた、グイードの顔を羞恥と怒りの色で染める。
――もっと高く、見えないほどの高さまで上がればそれも誤魔化せるのではないか。
そんな小癪な考えがふと浮かび、グイードはそれに縋りつこうとした。
失敗すれば大怪我は必至、命も危うい無謀で無意味な試みである。
だが幸いな事に、グイードがそれに挑む事は無かった。
「グイードくんッ!?」
殆ど悲鳴のような教師の叫びが辺りに木霊する。
そして次の瞬間、ドゴンという鈍い音が広場に響いた。
振り子のように揺れていたグイードの体が、校舎の屋根にぶつかった音だ。
「ぐげっ!」
カエルが潰れたような声を上げ、グイードは滑稽な姿で天から落ちる。
そして地面に届いた時、全く同じ無様な声をもう一度上げた。
「……あー、だから言ったでしょう? 地面にキスする羽目になるって。グイード君の評価は取り消しだねえ」
呆れた教師の残酷な台詞に、グイードは絶望の表情を見せた。
両の鼻の穴から赤い水を垂れ流し、右目に大きな青いこぶを作った顔で。
その日から、グイ―ド・フェグダ・ハイネンはずっと不機嫌だった。
◆
「……やった!」
ハンス・ユーカ―は上機嫌だった。
長年の宿願がやっと叶ったからだ。
初めての授業での『A』判定。
自分の人生が大きく変わったと実感した瞬間。
人から認められて嬉しくない人間など居ない。
その喜悦を人前で見せびらかすほど、もう自分は若くは無いという自負があるが。
「……それにしてもアイツ、なんだったんだろう?」
何気なくハンスの頭に浮かぶのは、金髪のにニヤケ面。
朝から何度となく絡んできて、うっとうしい事この上なかった。
だが同時に、それを懐かしむような気持ちもあった。
「あ、そうだ。グイード!」
そんな奴も居たな、とハンスは薄暗い廊下一人納得をした。
遠い日の記憶の中には、そんなヤツもいた。
だが今のハンスはそんな輩の事は歯牙にもかけるつもりは無かった。
復讐などバカらしい。
自分はそんな事の為に何年も修行を積んできたワケでは無いのだ。
一晩の間、何十年もの修行を――。
「お師匠、ただいま戻りました!」
旧天文台、その床下にある巨大な姿見をするりと抜けながらハンスは朗らかな声を掛けた。
気心の知れた、近しい人に贈る声音である。
「……遅いわよ」
しかし薄暗い部屋の奥から響く声は不機嫌そのもの。
机の上にうず高く積まれた本の隙間から、紫焔の瞳が除く。
明け方の空のように、怪しく美しい瞳だった。
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