僕の初恋を返せ

鹿音二号

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それは、予想もしていなかった失敗だった。

デイルは、間諜である。
自分で言うのもなんだが、これほど間諜という役割に適している人間もいないだろう。
まず、目立たない。平凡な見た目だし、能力だって平均的。
麦わらのような髪をズボラに少し長くして、目の色は赤みがかった茶色。背は高くもなければ低くもない。成長期が遅かったため、17,8歳と見られるだろう外見にしてはまだひょろりとしていた。年齢は、実のところ自分でも知らない。捨て子だったので。
本国はそんな身寄りのない子供を集めて、敵国に送る間諜を育成した。物心ついたときから間諜になるための訓練を受けた、エキスパートである。
それなりに、活躍はしていると思う。

その間諜デイルは半年ほど前から、敵国ドリザンド王国に潜入している。
当初は、その騎士団の雑用の予定だった。ところが、幸運にも、ひょんなことから王太子の副官の従者という立場になったのだ。
予想外の重役である。
ドリザンドにはすでに数名、本国からの間諜は潜り込んでいた。けれど、ここまで国の中心に食い込んだのはデイルが初めてだ。
これは大仕事になるぞ、と恐れ半分。
だが、実際は、こんなにいい職場に恵まれて良いものかと悩む日々。

「うん、ご苦労」

デイルは今、王太子殿下の前にいる。
ドリザンド王国の王太子、グレオル・ディオス・ロタニンズ。
彼は、ともかくかっこいい。
精悍で整った顔。黒目黒髪という珍しい色だが、ロタニンズ家の特徴である。だが、現在直系の王にその嫡子6人の兄弟の中でも、彼は一等美しい。濡れたような黒髪、光を弾く濃く黒い瞳は星空のようだ。顎や鼻の線はすっとしていて、眉の稜線も形がいい。
身体つきも、男から見ても惚れ惚れするような造りだった。根っからの武闘派らしく、幼少の頃から鍛えたその腕は騎士団の隊長を任されるほどだという。厚い胸板、引き締まった肩から腕にかけてのライン。腰は、残念ながら王子の服が長衣なので、あまり目立たない。だが、裾から時折のぞく脚は、どっしりと筋肉の太さがわかる脚線美。
だが、容姿ばかりじゃなく能力も上等だった。
彼の父、国王クリストファーも名君として名高いが、グレオル王太子も次期国王として周囲からの信頼は厚い。

デイルも、詳しいことはよく分からないが、王子と対面しているとこれは傑物だなと確信した。
判断力がある。けれど自分のそればかりに頼らず周囲の意見も聞く。慎重な方ではないが、大胆さでカバーする。

けれども、そんな王太子を、あれは抜けがひどい、と酷評しているのがデイルの仮の上官、レイリー・メイルズである。グレオル王太子は油断しているととんでもないミスをして、周囲に迷惑をかけまくるのだと。けれど、それでも何とかなっているのは、やはり王子だからだろう。
能力があり、人望もあり、そして、明るく鷹揚な性格で、よく笑う。

(うん、惚れる)

今もデイルがお使いに来て、書類を渡しただけなのに、グレオルは満面の笑みでデイルを労ってくれた。
執務室の、豪奢だが実用的な机に座り、明るく笑う王太子が眩しい。

「ありがとう。これがないとまた財務の方からどやされるところだった」

声もいい。深くゆったりとした低い声。聞き惚れる。
グレオル王太子はデイルの憧れそのものだった。
男だったらこうありたかった。そんな羨望と、諦めと、それを上回る憧れ。
グレオル教があったら入りたい。
チンケな自国の宗教に無理やり入信させられているデイルの改宗の希望だ。
そもそも敵国の王子に何を思っているのやら、色々アウトラインを超えている気がするが、もちろん仕事――本来の――はちゃんとする。
いくら敵たる王子に憧れていようとも、潜入先があまりにも居心地が良くて、ずっとこのままでありたいと思っても。
デイルは国を裏切れない。

「はは、レイリー様はおかんむりでしたけどね」

少しわざとらしく表情を緩めながら、軽口。
仮の上官のレイリーは王太子と違って厳格で、頑固。やや皮肉屋でもあって表情はいつも固い。
それに、王太子とは長年の付き合いらしく、主従であるはずなのに王子に容赦がない。仲がいいのはたしかだろうけれど。

「すまんな、だが俺との仲だ、諦めてもらおう」

くつくつと笑うグレオルの、少しいたずらげな笑みもいい。
一瞬見惚れて、緩みそうになった緊張を、はっと保たせた。危ない。

「では、失礼いたします」
「ああ」

一礼したデイルを、目を細めて見つめたグレオル。
それに笑みで返して、デイルは踵を返す。
王太子の執務室を出ると、もうすっかり赤くなったお日様の光に目を焼かれた。

「うっ眩しい」

廊下は大きな窓が並んで、まだ日が落ちきっていない今なら、ロウソクがなくてもとても明るい。
もうそろそろ業務の定刻だ。健全な国政をしているこの国で、残業はあまり推奨されていない。
けれどまあ、この王族の住まう王宮では、定刻はあってないようなものだ。
いつものように静かな廊下を歩いて、デイルはレイリーの執務室に戻った。王太子のそれからあまり離れていないのは、もちろんレイリーが王太子の副官だからだろう。

「戻りました」
「ええ」

レイリーは備え付けのソファーに腰掛けていた。
おや、と思う。執務机ではないのは珍しい。来客があればもちろんソファーだが、一人で座っているレイリーというのはデイルはあまり見たことがなかった。
レイリー・メイルズ。候爵子息で、王太子の腹心の部下。主従でもある。
グレオルも美しいが、レイリーもまた美男子だ。ただし、こちらはどちらかというと美しさに特化している。女性的というわけではないが……性格のせいか、はたまた銀の長髪の青瞳という冷たい色合いのせいか、怜悧な刃物のような印象。すっと細い顎や白い肌も相まって、絵画から抜け出した美神のような。
お硬い性格だが、意外と人情には厚い。能力は王子の副官であるだけあって、かなり高い、いや、完璧に近い。
この王太子主従を見ていると、天は二物、いや、三物くらいは与えるのだなと呆れながら思う。

「デイル。話があります」
「はい?僕ですか?」
「ええ、こちらに」

薄い表情のレイリーに反対側のソファーを手で示されて、首を傾げながらデイルは座った。上等な布張りで、座るときはいつもどきどきする。

「デイル、貴方が私の副官になって半年でしたか」
「はい、それくらいだったかと」
「元は、城の外郭の鍛冶屋の丁稚だったとか」
「ああ、そうですね」

そういう設定だ。

「それが、騎士団に出入りを許され、とある下級騎士に従者として召し上げられる予定だった――と」
「はい、よくしていただいた騎士様に、光栄にもお声がけいただいて……」

照れたように頭をかくデイル。
だが、胸の内では、じわりと不安がにじみ出ていた。

(なぜ今さら僕の話を?)

嫌な予感がする。

「孤児だったというのは聞いていますが、修道院にいたのですか?」
「えっと、はい、ロディス修道院っていう……」

これはドリザンド王国の南部の修道院だ。
ほそぼそと領主が運営する、救済院も兼ねたもので、王都からは遠い。つまり、そうそうバレる嘘ではないのだ……まあ、デイルがあやしければ、当然調べられるようなものではあるが。

「そうですか」

レイリーは頷いた。

(なぜ、そんなことを聞く?)

口に出してしまいそうになって、ぐっと飲みこむ。顔は、困ったような笑みを浮かべて、胸はどきどきとうるさい。
じわりと、嫌な汗が背中に浮く。
果たして、レイリーは、こう言った。

「それが全部偽の経歴だと知っています」
「……」

表情は、保てた。
けれど、体がこわばって、ぴくりと動いたのは止められなかった。

「どうして、そんなことをおっしゃるのですか?」

習い性で、できる限りの時間稼ぎを。
無意味だとわかっている。だが、次の手を考えなければならない。
情報だ、情報が欲しい。
レイリーからどれだけ聞き出せるか……いや、

(無理だろうな)

早々に諦めた。
どうせ、すでにある程度知られているだろう。
でなければ、中心に食い込んだ、一番の監視対象のデイルに干渉しない。
すでに、崖っぷちだった。

「どうして?」

レイリーはふと、考えるような仕草をする。

(尻尾出した間諜に嫌味か)

焦燥と、諦念。わずかな恐怖もあってだんだんと荒んでくるデイルに、表情が保てるはずもない。
せめてもの抵抗でただひたすらに待つ。なにか、次の手を。現状で詰みだと分かっているが、考えずにいられない。
逃げられないのは分かっていた。この執務室の前に、常駐する近衛兵士が立っていた。そしてその気配は、今や数倍になってドアの前に立っている。
レイリーは、彼にしてはのんびりと、続けた。

「貴方に協力をお願いしたい。カディラル国のデイル」
「……協力?」
「はい。ぜひ、貴方をこちら側に引き込みたい」
「……」

何を言っているのだ、この人は。
ただの間諜に過ぎないデイルを引き込んで、いったいなんのメリットがあるのだ。
敵なのだ、殺すか、情報を引き出すためなら拷問にかけたほうが早い。
疑いの気持ちのほうが大きい。
いきなり仲間に、なんていうのは現実味がない。
なぜレイリーのような切れ者がそんな馬鹿なことを言い出すのか、理解ができないからなおさら。
じっとして、デイルは何も言わなかった。
黙秘。これを貫けば時間稼ぎにはなるだろう――

「……仕方がない。時間がない」

レイリーは立ち上がった。
彼が、ぱんっ、と手を叩くとドアから兵士がなだれ込んでくる。
それに紛れて、レイリーの従者が、顔を強張らせながらレイリーに近づいて何かを渡す。

「大人しくしてください。怪我はさせたくない」

レイリーのその言葉に、咄嗟に逃げ出そうとしたデイルを、左右から兵士が肩を押さえて腕を取られた。

「……っ」

緊張で汗が噴き出る。
まずい、これは、よくない。
レイリーは従者から渡されたそれ――小瓶と布を手に、デイルに近付いてきた。

「こんなことはしたくなかったのですが……本当に貴方は優秀だったようだ」
「……っ」

目の前で、彼は小瓶を傾けて、中の液体を布にこぼす。
香りがした。
甘いようだが、鼻に抜けるつんとした匂いは、薬物を幼い頃から嗅ぎ分け、ときに服用したデイルには最大級の危機感を煽った。
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