5分読書

鳥谷綾斗(とやあやと)

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8. SNS奇談 ~#裏アカ~

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 先日、夫が急死した。
 葬儀を終え、初七日を迎えて、つつがなく納骨も済ませた。
 遺族である私と娘に、ようやく元の日常が訪れそうな頃、
 夫が使っていたスマホを、何気なく手に取った時のことだった。

「これって……?」

 ツイッターのアイコンをタップすると、そのホーム画面が開いた。
 それは夫の知られざる本音を綴ったものーーいわゆる『鍵つきの裏アカ』だった。

『妻に対しての不満が積もる日々』
『あの女、出かける時にいってらっしゃいも言わない。こっちは仕事に行くってのに。誰のおかげでメシが食えると思ってるんだ』
『家に帰りたくない』
『ただでさえ疲れているのに。あんな女の顔を見るなんて、地獄だ』

 こんな愚痴が、ほぼ毎日、いくつも投稿されていた。

 妻の私から見て、夫はごく普通の家庭人だった。可もなく不可もない、家事の手伝いを頼めば渋々でもやってくれるけど、言わないと決してやらない、そんな少し鈍感で人並みに親切な夫だった。
 会社勤めのサラリーマンの夫と、パートタイマーの妻の私、そして高校生の娘ーー私たち家族三人は、それなりにうまく『家庭』を築いていた。
 そう思っていた、のに。

 ガタガタと震える手で、スクロールする。
 夫は、私だけでなく娘への不満もつぶやいていた。

『娘も最近、妻に似てきた。俺をバカにしてくる』
『小さい頃は、あんなにパパ大好きってまとわりついてきたのに。今は近寄ろうともしない』
『それどころか顔を合わせただけで、あからさまに嫌な顔をしてくる』
『娘なんか育てるんじゃなかった』

 最低だ。最悪だ。
 家庭を持ったのは人生最大の後悔だと、夫はひたすらツイートしていた。

『結婚なんかするんじゃなかった』
『俺は不幸だ』
『あんな妻と娘に苛まれて、毎日毎日胃がねじ切れそうだ』
『どこかへ行きたい。消えてしまいたい』
『ふと失踪したくなった』
『そうなれば妻と娘は路頭に迷うだろうが、構うものか』

『あんな女と』

『結婚なんか』

『するんじゃなかった!!』


 それらの文字の羅列が、眼前で閃光のように弾け、チカチカと明滅し、脳に深く刻み込まれてゆく。
 夫の私たちへの憎しみがつらなって、私の首元に巻きつく。ぎゅううっと絞め上げられて息が苦しくなる――。

「……お母さん?」

 幻の息苦しさに喘いでいると、後ろから声がかかった。
 娘の愛梨あいりだった。今日から登校なのだが、もう帰ってきたらしい。
 私はとっさにスマホの画面を伏せた。母としての本能がそうさせたのだ。

「早かったわね」
「うん……ちょっとね、気分悪くなっちゃって」

 この数日で、娘は格段に痩せてしまった。ふっくらとしていた頬――夫はその頬を指先でツンツンするのが大好きだった――の肉が削げ落ちて、痛ましさに胸が痛んだ。
 愛梨はぺたんと私の隣に座り込んだ。私はスマホを決して見せまいと、握る手を固くする。

「お母さん」
「なぁに?」
「お、お父さん、てさ……」

 ギクリとした。まさか、見られた?
 すぐにそれはありえないと打ち消す。
 愛梨は泣きそうな顔で、続けた。

「幸せ、だったのかな……?」

 不安に揺れる瞳で、恐れに震える声で、愛梨は私に尋ねた。


「なにバカなこと言ってるのよ……」
「だってあたし、お父さんにひどいこといっぱい言ったよ……!?」
 制服のスカートを握りしめ、愛梨が痛みを吐露した。
「あたし、お父さんのこと嫌いだった。ううん、嫌いじゃなかった。でもムカついてた。お父さんが遣ること成すこと全部ムカついて、時には『おはよう』とか『おやすみ』にだってイライラした。
 お父さん、何もしてないのに。でもあたしはどうしてもムカつくのを抑えられなかったの!」

 それは私にも覚えがある感覚だった。
 私もこの年の頃、実の父が憎くて煩わしくてたまらなかった。
 それは『思春期』という言葉では片づけられないほど、強烈な嫌悪感だった。

「だから、いっぱいひどいこと言っちゃったの。『嫌い』とか『消えろ』とか、……『死んじゃえ』とか。なのに、なのに……」

 愛梨の、夫にどこか似ている目元が悲痛そうに歪む。

「お父さん、死んじゃう時、あたしたちに『ありがとう』って言った……!!」


 ――「ありがとう」

 突然の交通事故で、何の前触れもなく風前の灯となった夫の命。けれど神の情けか、別れを告げるわずかな時間があった。
 夫は確かにそう言ったのだ。絶えかけた呼吸の中、最後の力を振り絞って、声帯を震わせて。

 ――「ありがとう」

 憎んでいたはずの、私たち家族に。

「……違うわ……」

 私の双眸から、すぅ、と涙が流れた。
 その否定は愛梨にではなく、私自身に向けたものだった。

「お父さんは、……幸せだったのよ。愛梨のひどい言葉も、単なる憎まれ口だってちゃんと分かっていたわ。言われた時は確かに傷ついたとしても、少し時間が経てば、愛梨のこと許してたわよ……」

 夫が私たちへの本音を綴った、『裏アカ』。
 けれどこれに近いことを、私もしていた。
 実家の両親、パート先の主婦仲間、学生時代の友達を相手に、家族の目の届かないところで、私も夫への、娘への愚痴をこぼしていた。

『結婚なんてするんじゃなかった』
『あんな男とは別れたい』
『娘がひどい』
『家族の誰も私の気持ちを分かってくれない』

 ――『家族なんて、もう捨てたい』


 何度もそう愚痴った。
 本心ではなかった。否、確かにその時は本心だったのだろうが、『すべて』では決して無い。
 私の中にある、喜怒哀楽の四種類だけではない、たくさんの複雑な感情。それらが合わさって言わせたのだ。
 一面だった。心という膨大な宇宙の中にある、単なる一部分でしかなかったのだ。
 家族を愛おしむ気持ちの裏側に、常にそれは在る。それはどうしても無くならない。
 だから愚痴ることで、心の安寧を図っていたのだ。
 これからも『家族』を続けていたかったから。

 夫と私の違いは、それが文字として残るか否か。
 ただ、それだけだ……。

「ほんと……? お父さん、幸せだった?」
「当たり前でしょ」

 私は愛梨を抱き寄せた。愛梨は声を上げて幼子のように泣き出した。
 私も、タガを外して、思いっきり泣いた。

 たとえ夫の醜い本音が文字として残っていたとしても、彼が末期に残した言葉――「ありがとう」こそが真実なのだと、

 私は、そう信じたかった。
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