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8. SNS奇談 ~#裏アカ~
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先日、夫が急死した。
葬儀を終え、初七日を迎えて、つつがなく納骨も済ませた。
遺族である私と娘に、ようやく元の日常が訪れそうな頃、
夫が使っていたスマホを、何気なく手に取った時のことだった。
「これって……?」
ツイッターのアイコンをタップすると、そのホーム画面が開いた。
それは夫の知られざる本音を綴ったものーーいわゆる『鍵つきの裏アカ』だった。
『妻に対しての不満が積もる日々』
『あの女、出かける時にいってらっしゃいも言わない。こっちは仕事に行くってのに。誰のおかげでメシが食えると思ってるんだ』
『家に帰りたくない』
『ただでさえ疲れているのに。あんな女の顔を見るなんて、地獄だ』
こんな愚痴が、ほぼ毎日、いくつも投稿されていた。
妻の私から見て、夫はごく普通の家庭人だった。可もなく不可もない、家事の手伝いを頼めば渋々でもやってくれるけど、言わないと決してやらない、そんな少し鈍感で人並みに親切な夫だった。
会社勤めのサラリーマンの夫と、パートタイマーの妻の私、そして高校生の娘ーー私たち家族三人は、それなりにうまく『家庭』を築いていた。
そう思っていた、のに。
ガタガタと震える手で、スクロールする。
夫は、私だけでなく娘への不満もつぶやいていた。
『娘も最近、妻に似てきた。俺をバカにしてくる』
『小さい頃は、あんなにパパ大好きってまとわりついてきたのに。今は近寄ろうともしない』
『それどころか顔を合わせただけで、あからさまに嫌な顔をしてくる』
『娘なんか育てるんじゃなかった』
最低だ。最悪だ。
家庭を持ったのは人生最大の後悔だと、夫はひたすらツイートしていた。
『結婚なんかするんじゃなかった』
『俺は不幸だ』
『あんな妻と娘に苛まれて、毎日毎日胃がねじ切れそうだ』
『どこかへ行きたい。消えてしまいたい』
『ふと失踪したくなった』
『そうなれば妻と娘は路頭に迷うだろうが、構うものか』
『あんな女と』
『結婚なんか』
『するんじゃなかった!!』
それらの文字の羅列が、眼前で閃光のように弾け、チカチカと明滅し、脳に深く刻み込まれてゆく。
夫の私たちへの憎しみがつらなって、私の首元に巻きつく。ぎゅううっと絞め上げられて息が苦しくなる――。
「……お母さん?」
幻の息苦しさに喘いでいると、後ろから声がかかった。
娘の愛梨だった。今日から登校なのだが、もう帰ってきたらしい。
私はとっさにスマホの画面を伏せた。母としての本能がそうさせたのだ。
「早かったわね」
「うん……ちょっとね、気分悪くなっちゃって」
この数日で、娘は格段に痩せてしまった。ふっくらとしていた頬――夫はその頬を指先でツンツンするのが大好きだった――の肉が削げ落ちて、痛ましさに胸が痛んだ。
愛梨はぺたんと私の隣に座り込んだ。私はスマホを決して見せまいと、握る手を固くする。
「お母さん」
「なぁに?」
「お、お父さん、てさ……」
ギクリとした。まさか、見られた?
すぐにそれはありえないと打ち消す。
愛梨は泣きそうな顔で、続けた。
「幸せ、だったのかな……?」
不安に揺れる瞳で、恐れに震える声で、愛梨は私に尋ねた。
「なにバカなこと言ってるのよ……」
「だってあたし、お父さんにひどいこといっぱい言ったよ……!?」
制服のスカートを握りしめ、愛梨が痛みを吐露した。
「あたし、お父さんのこと嫌いだった。ううん、嫌いじゃなかった。でもムカついてた。お父さんが遣ること成すこと全部ムカついて、時には『おはよう』とか『おやすみ』にだってイライラした。
お父さん、何もしてないのに。でもあたしはどうしてもムカつくのを抑えられなかったの!」
それは私にも覚えがある感覚だった。
私もこの年の頃、実の父が憎くて煩わしくてたまらなかった。
それは『思春期』という言葉では片づけられないほど、強烈な嫌悪感だった。
「だから、いっぱいひどいこと言っちゃったの。『嫌い』とか『消えろ』とか、……『死んじゃえ』とか。なのに、なのに……」
愛梨の、夫にどこか似ている目元が悲痛そうに歪む。
「お父さん、死んじゃう時、あたしたちに『ありがとう』って言った……!!」
――「ありがとう」
突然の交通事故で、何の前触れもなく風前の灯となった夫の命。けれど神の情けか、別れを告げるわずかな時間があった。
夫は確かにそう言ったのだ。絶えかけた呼吸の中、最後の力を振り絞って、声帯を震わせて。
――「ありがとう」
憎んでいたはずの、私たち家族に。
「……違うわ……」
私の双眸から、すぅ、と涙が流れた。
その否定は愛梨にではなく、私自身に向けたものだった。
「お父さんは、……幸せだったのよ。愛梨のひどい言葉も、単なる憎まれ口だってちゃんと分かっていたわ。言われた時は確かに傷ついたとしても、少し時間が経てば、愛梨のこと許してたわよ……」
夫が私たちへの本音を綴った、『裏アカ』。
けれどこれに近いことを、私もしていた。
実家の両親、パート先の主婦仲間、学生時代の友達を相手に、家族の目の届かないところで、私も夫への、娘への愚痴をこぼしていた。
『結婚なんてするんじゃなかった』
『あんな男とは別れたい』
『娘がひどい』
『家族の誰も私の気持ちを分かってくれない』
――『家族なんて、もう捨てたい』
何度もそう愚痴った。
本心ではなかった。否、確かにその時は本心だったのだろうが、『すべて』では決して無い。
私の中にある、喜怒哀楽の四種類だけではない、たくさんの複雑な感情。それらが合わさって言わせたのだ。
一面だった。心という膨大な宇宙の中にある、単なる一部分でしかなかったのだ。
家族を愛おしむ気持ちの裏側に、常にそれは在る。それはどうしても無くならない。
だから愚痴ることで、心の安寧を図っていたのだ。
これからも『家族』を続けていたかったから。
夫と私の違いは、それが文字として残るか否か。
ただ、それだけだ……。
「ほんと……? お父さん、幸せだった?」
「当たり前でしょ」
私は愛梨を抱き寄せた。愛梨は声を上げて幼子のように泣き出した。
私も、タガを外して、思いっきり泣いた。
たとえ夫の醜い本音が文字として残っていたとしても、彼が末期に残した言葉――「ありがとう」こそが真実なのだと、
私は、そう信じたかった。
葬儀を終え、初七日を迎えて、つつがなく納骨も済ませた。
遺族である私と娘に、ようやく元の日常が訪れそうな頃、
夫が使っていたスマホを、何気なく手に取った時のことだった。
「これって……?」
ツイッターのアイコンをタップすると、そのホーム画面が開いた。
それは夫の知られざる本音を綴ったものーーいわゆる『鍵つきの裏アカ』だった。
『妻に対しての不満が積もる日々』
『あの女、出かける時にいってらっしゃいも言わない。こっちは仕事に行くってのに。誰のおかげでメシが食えると思ってるんだ』
『家に帰りたくない』
『ただでさえ疲れているのに。あんな女の顔を見るなんて、地獄だ』
こんな愚痴が、ほぼ毎日、いくつも投稿されていた。
妻の私から見て、夫はごく普通の家庭人だった。可もなく不可もない、家事の手伝いを頼めば渋々でもやってくれるけど、言わないと決してやらない、そんな少し鈍感で人並みに親切な夫だった。
会社勤めのサラリーマンの夫と、パートタイマーの妻の私、そして高校生の娘ーー私たち家族三人は、それなりにうまく『家庭』を築いていた。
そう思っていた、のに。
ガタガタと震える手で、スクロールする。
夫は、私だけでなく娘への不満もつぶやいていた。
『娘も最近、妻に似てきた。俺をバカにしてくる』
『小さい頃は、あんなにパパ大好きってまとわりついてきたのに。今は近寄ろうともしない』
『それどころか顔を合わせただけで、あからさまに嫌な顔をしてくる』
『娘なんか育てるんじゃなかった』
最低だ。最悪だ。
家庭を持ったのは人生最大の後悔だと、夫はひたすらツイートしていた。
『結婚なんかするんじゃなかった』
『俺は不幸だ』
『あんな妻と娘に苛まれて、毎日毎日胃がねじ切れそうだ』
『どこかへ行きたい。消えてしまいたい』
『ふと失踪したくなった』
『そうなれば妻と娘は路頭に迷うだろうが、構うものか』
『あんな女と』
『結婚なんか』
『するんじゃなかった!!』
それらの文字の羅列が、眼前で閃光のように弾け、チカチカと明滅し、脳に深く刻み込まれてゆく。
夫の私たちへの憎しみがつらなって、私の首元に巻きつく。ぎゅううっと絞め上げられて息が苦しくなる――。
「……お母さん?」
幻の息苦しさに喘いでいると、後ろから声がかかった。
娘の愛梨だった。今日から登校なのだが、もう帰ってきたらしい。
私はとっさにスマホの画面を伏せた。母としての本能がそうさせたのだ。
「早かったわね」
「うん……ちょっとね、気分悪くなっちゃって」
この数日で、娘は格段に痩せてしまった。ふっくらとしていた頬――夫はその頬を指先でツンツンするのが大好きだった――の肉が削げ落ちて、痛ましさに胸が痛んだ。
愛梨はぺたんと私の隣に座り込んだ。私はスマホを決して見せまいと、握る手を固くする。
「お母さん」
「なぁに?」
「お、お父さん、てさ……」
ギクリとした。まさか、見られた?
すぐにそれはありえないと打ち消す。
愛梨は泣きそうな顔で、続けた。
「幸せ、だったのかな……?」
不安に揺れる瞳で、恐れに震える声で、愛梨は私に尋ねた。
「なにバカなこと言ってるのよ……」
「だってあたし、お父さんにひどいこといっぱい言ったよ……!?」
制服のスカートを握りしめ、愛梨が痛みを吐露した。
「あたし、お父さんのこと嫌いだった。ううん、嫌いじゃなかった。でもムカついてた。お父さんが遣ること成すこと全部ムカついて、時には『おはよう』とか『おやすみ』にだってイライラした。
お父さん、何もしてないのに。でもあたしはどうしてもムカつくのを抑えられなかったの!」
それは私にも覚えがある感覚だった。
私もこの年の頃、実の父が憎くて煩わしくてたまらなかった。
それは『思春期』という言葉では片づけられないほど、強烈な嫌悪感だった。
「だから、いっぱいひどいこと言っちゃったの。『嫌い』とか『消えろ』とか、……『死んじゃえ』とか。なのに、なのに……」
愛梨の、夫にどこか似ている目元が悲痛そうに歪む。
「お父さん、死んじゃう時、あたしたちに『ありがとう』って言った……!!」
――「ありがとう」
突然の交通事故で、何の前触れもなく風前の灯となった夫の命。けれど神の情けか、別れを告げるわずかな時間があった。
夫は確かにそう言ったのだ。絶えかけた呼吸の中、最後の力を振り絞って、声帯を震わせて。
――「ありがとう」
憎んでいたはずの、私たち家族に。
「……違うわ……」
私の双眸から、すぅ、と涙が流れた。
その否定は愛梨にではなく、私自身に向けたものだった。
「お父さんは、……幸せだったのよ。愛梨のひどい言葉も、単なる憎まれ口だってちゃんと分かっていたわ。言われた時は確かに傷ついたとしても、少し時間が経てば、愛梨のこと許してたわよ……」
夫が私たちへの本音を綴った、『裏アカ』。
けれどこれに近いことを、私もしていた。
実家の両親、パート先の主婦仲間、学生時代の友達を相手に、家族の目の届かないところで、私も夫への、娘への愚痴をこぼしていた。
『結婚なんてするんじゃなかった』
『あんな男とは別れたい』
『娘がひどい』
『家族の誰も私の気持ちを分かってくれない』
――『家族なんて、もう捨てたい』
何度もそう愚痴った。
本心ではなかった。否、確かにその時は本心だったのだろうが、『すべて』では決して無い。
私の中にある、喜怒哀楽の四種類だけではない、たくさんの複雑な感情。それらが合わさって言わせたのだ。
一面だった。心という膨大な宇宙の中にある、単なる一部分でしかなかったのだ。
家族を愛おしむ気持ちの裏側に、常にそれは在る。それはどうしても無くならない。
だから愚痴ることで、心の安寧を図っていたのだ。
これからも『家族』を続けていたかったから。
夫と私の違いは、それが文字として残るか否か。
ただ、それだけだ……。
「ほんと……? お父さん、幸せだった?」
「当たり前でしょ」
私は愛梨を抱き寄せた。愛梨は声を上げて幼子のように泣き出した。
私も、タガを外して、思いっきり泣いた。
たとえ夫の醜い本音が文字として残っていたとしても、彼が末期に残した言葉――「ありがとう」こそが真実なのだと、
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