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7.相手を癒さないと出られない部屋

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「いてて……」
帰宅から1時間後。
洗面所の鏡の前で俺は眉間にシワを寄せていた。
ぼんやりしながら髭を剃っていたら頬を切ってしまったらしい。
垂れてきた血が洗面台の上に数滴落ちる。
傷自体はさほど深くはなさそうだが、場所が場所なだけに目立ちそうだ。

今日は桜庭と幸せな時間を過ごせたことだし、これくらいの痛みは我慢しよう。
そう思いながら絆創膏を貼り、寝室へと向かう。
明日も仕事だ。そろそろ寝ないと。

ぼふっと仰向けにベッドに倒れ込み、天井を眺めながら今日のことを振り返る。
先日見た夢はいわゆる正夢と呼ばれるものだったのだろうか。
夢の中で話していた『スコビル』という店は、たしかに実在していた。
そして、桜庭が辛いもの好きだという設定もなぜか一致していた。
これはただの偶然なのか、それとも……。

夢は記憶の整理とも聞いたことがあるし、もしかしたら無意識のうちに見聞きした情報を元に俺の脳が作り出した世界なのかもしれない。
なんてことを考えているうちに段々と瞼が重くなってきた。

「…………ふわぁ」
こうなってしまえば睡魔に抗うことは難しい。

また桜庭と一緒に食事できるといいな。
微睡みの中でそんな願いを込めながら、俺は静かに瞼を閉じた。

***

「ん……」
それから何時間経っただろうか。
部屋の明るさを感じて目を覚ます。
天井にはカーテンのような薄い布地が垂れ下がっており、ここが自室ではないことを一瞬で理解した。

「あの部屋だ……!」
勢いよく起きあがろうと体に力を入れた瞬間、左隣に眠る桜庭の姿を捉えた俺は静かに身を起こした。

そして部屋の中をゆっくりと見渡す。
やはり部屋の中には扉とホワイトボード、そしてこの豪華なベッド以外見当たらない。
それどころか窓すら無く、照明器具すらないのに部屋全体が明るい。
俺は部屋の様子を観察しながら自分の服を確認した。

今まで意識した事は無かったが、どうやら寝る時に着ていた服装がそのまま反映されるらしい。
俺は上下セットのスウェット、桜庭は紺色のパジャマを身に着けている。

「……また、この夢か」
背後から聞こえてきた低い声の方へ視線を向けると、桜庭が起き上がってぼんやりこちらを見ていた。
「あ、桜庭。おはよ」
「おはよー…って、その顔どうした?」

桜庭は俺の頬に貼られた絆創膏を見て不思議そうな顔をした。
「髭剃ってたらカミソリで切っちゃって」
「マジかぁ。どんまい」

大きなあくびをしながら励ましの言葉を口にする桜庭の姿に、頬の痛みが和らいでいく気がした。
「全然心がこもってないなぁ」
「酒が入ってて眠いんだよ、こっちは……ふわぁ」
桜庭はそう言うとベッドの上で体操座りをしながら膝の上に顎を乗せた。
その仕草が妙に幼くて思わず笑みが溢れる。

「……今日は現実のお前と飯食いに行ったんだ。前から気になってた激辛料理の店」
ぽつりと呟いた桜庭の言葉に俺はどきりとした。
「へぇ。どうだった?」
「んー、すげー美味かった。話も尽きなかったし。また2人で行けたら楽しいだろうなって思ったよ」
「そ、そりゃ良かった」
「あ、でも」
桜庭は何かを思い出したように言葉を止めた。
「ほんとは辛いもんそんなに強くないだろお前。頑張ってるっぽかったけど、ヒイヒイ言ってたもん」

くつくつと笑いながら話す桜庭に俺の心臓はどくんと跳ねた。
「また誘っても迷惑じゃねえかな」
独り言のように零された言葉は、俺の耳にはっきりと届いていた。

「俺、職場で仲良いやつ少ないからさ。山吹がいつも話しかけてくれて嬉しいんだ」
本人にはこんなこと言えないけど、と付け足して桜庭は照れくさそうに笑った。
今日の桜庭はいつにも増して饒舌だ。
普段はあまり聞くことのない桜庭の本心を垣間見た気がして、俺はさらにドキドキと胸を高鳴らせた。
これも全て俺の妄想だと思うと一気に虚しさが押し寄せてくるが、今は目の前の桜庭の言葉を一言一句聞き逃さないようにじっと耳を傾けようとした瞬間。

桜庭が「あっ!」と大きな声を上げた。
反射的に桜庭の方を見ると、彼は扉の上に設置されているホワイトボードを指差している。

【相手を癒さないと出られない部屋】

そこには例の如く角ばった文字でそう書かれていた。
「癒すって……随分ざっくりした命令だな」
今までは「手を繋ぐ」「寝かしつける」といった直接的な指示だったのに対し、今回の条件はかなり抽象的だ。
正直、俺からしたら桜庭とこうして一緒に居られること自体が既に癒しになっているのだが、果たしてこれはクリア条件を満たしている事になるのだろうか。

ちらりと桜庭の方を伺うと、彼は案の定険しい顔をしていた。
先ほどまでの柔らかな雰囲気はどこへやら。
馬鹿馬鹿しい、なんで俺がそんな事しなきゃなんないんだ、そんな表情だ。
ここは俺がひと肌脱ぐしかないのかもしれない。

「桜庭、マッサージでもしようか?」
「は?」
俺の提案に、案の定桜庭は怪しむような目つきでこちらを見た。
しかしすぐに「そっか、そういうのでいいのか」と小さく呟く。

「そ、そうそう!この部屋、なんにもないから出来ることも限られてるし?定番すぎるけど、やっぱマッサージが1番いいかなーって」
決して下心があるわけではない、ということを全力でアピールすると桜庭はこくりと小さくうなづいた。

「じゃあ頼む」
桜庭はそう言ってベッドにうつ伏せになった。
どうやら俺は夢の住人として信頼を勝ち取ることが出来たようだ。

「失礼しまーす」
俺は桜庭の身体を跨ぎながら、膝立ちになりゆっくりとその背に手を伸ばす。
「痛かったら言ってくれよ」
「ん」

最初は軽く、それから徐々に力を込めていく。
想像していたよりも筋肉質な背中に驚きつつ、言われた通り力を加減しながら親指を押し込んでいった。

「結構凝ってんなぁ」
「もっと強くても平気」
「これくらい?」
「あ゛~効く」
「おっさんかよ」
桜庭の口から漏れる間抜けな声に笑いながら俺は桜庭の身体を解していく。

ああ、幸せだ。
マッサージされているのは桜庭の方なのに、何故か自分が癒されていくのを感じる。

「山吹、まじで上手いな」
先ほどまでの仏頂面はどこへやら、すっかりリラックスした様子の桜庭が振り返りざまに微笑んだ。
「だろ?実はちょっと自信あったんだよ」
「なんなら毎日してくれてもいいぞ」
「あはは、高いぞ~」
珍しく冗談を言う桜庭の口調からはいつもの刺々しさが消えていて、それが妙に嬉しかった。
それからしばらく続けていると桜庭の口から気持ち良さそうな吐息が漏れ始めた。

「ん……」
「……ふぅー…」
「はあ、」
静かな空間に響く衣擦れの音と時折聞こえる桜庭の声がなんだかいけないことをしているような気分にさせる。
鼻にかかるような甘い吐息が鼓膜を震わせる度に心臓の音が速くなっていく。
俺は自分の頬が熱を帯びていくのを感じて慌てて首を振った。

いつまで続ければよいのだろうかと扉の方に視線を移した瞬間、「ガチャリ」と金属音が聞こえた。
音の発生源は間違いなく扉の鍵穴からだ。

「あ、終わったみたい」
俺の言葉を聞いた桜庭が肩を回しながら起き上がった。
「おー、軽い!ありがとな」
「なら良かったよ」
桜庭は本当に満足してくれたようで、心なしか顔色も良くなっている気がした。

「てか、この脱出条件どっちか片方だけでよかったんだな。どうやったら山吹を癒せるか悩んでたから助かったわ」
「ま、まぁ前回の寝かしつけの部屋もそうだったしな」
「ああ。確かに」

まさか、本当に桜庭の体に触れた事で癒されたという判定になってしまったのか?
だとしたら我ながらちょろすぎる。
そんな俺の内心の葛藤など知る由もなく、桜庭は呑気に欠伸をしながら扉へと向かっていった。

「今度の休み、整体行くかな~」なんて独り言を呟いている桜庭に続いて俺もベッドを降りる。
ドアノブに手をかけた桜庭がこちらを振り返り「じゃあな」と手を振った。
俺もそれに応えようと右手を持ち上げようとしたところで意識が途切れた。
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