俺と両想いにならないと出られない部屋

小熊井つん

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8.絆創膏

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「あー、クソ。あっちい」
今日は急遽、資料室で過去の書類整理をする仕事を任されていた。
普段あまり人の出入りがないこの部屋はどこもかしこも埃っぽく、エアコンも大昔のものを使っているせいで全く効かない。
おまけにいくつか蛍光灯が切れているせいで電気を点けていても室内は薄暗く、陰鬱な雰囲気に包まれていた。

こんな場所で1人で作業をしていたらきっと数分でため息が溢れていたことだろう。

だが、隣には同僚であり意中の相手である桜庭がいる。
しかも、2人きり。
こんな状況、この上なく幸せな時間だ。 

「あー、暑い」
「桜庭~お前、さっきからそればっか」
「しかたねーじゃん事実なんだから」
この部屋で作業を始めてから2時間。
桜庭はクリアファイルでパタパタと顔を扇ぎながらぶつぶつと文句を垂れていた。
風に乗ってシャンプーのようないい香りが運ばれてくる。
汗をかいているのに、こんなに爽やかで清潔感のある匂いを漂わせているなんて、どれだけ好感度を上げれば気が済むのだ。
そんな桜庭につられて、自分も首筋にじんわりと滲んだ汗を手の甲で拭う。

まだ6月に入ったばかりだといのに、今日はやけに蒸し暑く、空調の整備されていない部屋で作業をするのは正直キツい。
上司が俺たちを指名した理由がなんとなくわかった気がした。

書類ファイルがぎっしりと詰められた段ボールをスチールラックから下ろし、中身を年度別に分類して収納ボックスへと移し替えていくという地味な作業は予想以上に体力を消耗する。

「誰だよこんなめちゃくちゃに突っ込んだやつは」とぼやく桜庭の気持ちもよくわかる。

「んー、これで半分ってとこか」
桜庭はスチールラックの前にしゃがみ込み、1番下の段に置かれていたダンボールを引っ張り出そうとしていた。
「桜庭~、なんか飲み物でも買ってこようか」

少し休憩しようと立ち上がり、桜庭の側へ移動しようとしたその時だった。
1番上段に乱雑に積まれていたダンボールがバランスを失い桜庭の頭上に落ちてきた。

「桜庭!」
俺は咄嵯に駆け寄り、桜庭を庇うようにして覆い被さる。
強い衝撃に備えて身を固くしたが、やってきたのは頭に何かが当たったような小さな痛みとだけだった。
恐る恐る目を開けてみると、そこには驚いたように目を見開く桜庭の顔があった。

「……あれ?」
「悪い、山吹。大丈夫か?」
「俺はなんとも……あ、なーんだ。空き箱だったのか」
落下してきたダンボールに視線を移すと、それはただの空き箱だった。
もしあの中にファイルがぎっしり詰まっていたらそれなりの重さになっていたはずだ。
そんなものが頭に直撃していたらと想像するとゾッとする。

「桜庭に怪我なくて良かっ……」
言いかけたところで、桜庭の手が俺の頭に伸びてきて、そのまま髪を撫でるように優しく触れられる。
「え、なに」
「埃ついてたから」

そう言って俺の髪からぱらぱらと落ちた白い粉を見て桜庭は申し訳なさそうに笑った。
落下してきたダンボールに積もっていた埃をそのまま浴びてしまったのかもしれない。
しかし、そんなことはどうでもいい。
俺の頭の中は桜庭に頭を触られているという事実でいっぱいだった。

「あ、ありがとう」
「礼を言うのはこっちだよ。ほんとにどこも痛く無いか?」
「うん、俺はぜんぜん……」
「あ、肩にもついてる」

頭の次はパタパタと俺の肩を払う桜庭を見てハッとする。
床にしゃがみ込んで小さくなっている桜庭に俺が覆いかぶさっているこの状況。
しかも、桜庭は俺の事をじっと見つめながら俺の髪や肩に触れている。
密着してこそいないが、とんでもなく近い距離にお互いが存在している。

どうしよう。今の俺、絶対汗臭いぞ。
俺は緊張で心臓が破裂しそうになるのを必死に抑えつつ、なるべく平静を装って口を開いた。
「さ、さんきゅ!もう平気だから」

彼の上から退こうと、自分の肩をポンポン叩きながら立ち上がろうとした瞬間。
桜庭に腕を強く掴まれ、再び床へと引き戻された。
「え、」

突然の出来事に頭が真っ白になる。
動揺して何も言えないでいる俺とは対照的に、桜庭は真剣な眼差しを俺に向けていた。
「……桜庭?ど、どうしたの」
鏡を見なくても顔が熱っているのがわかる。
この部屋が薄暗かったことはまだ救いか。

「その顔の傷、どうしたんだ」
「顔?」
俺は桜庭にそう言われて反射的に自分の頬に手を当てた。
そこには絆創膏が貼られている。
昨夜、髭剃り中にカミソリで切ってしまった時にできた傷だ。

「あー、これ?髭剃ってたらうっかり」
それがどうかしたのか、と目で訴えかけると桜庭は俺の顔の傷をじっと見つめたまま何も喋らなくなってしまった。

「あの、桜庭?」
沈黙に耐えられず俺が声をかけると、桜庭はハッとしたように「ごめん」とだけ呟いて立ち上がった。
俺もつられて立ち上がろうとするが、桜庭はこちらに背を向けたまま動かない。

「……出られない部屋」

ぽつり、と呟かれた言葉に思わず体が固まった。
桜庭が何を言っているのか一瞬わからなかったが、その言葉の意味を理解すると同時に俺は自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。

「今の言葉に聞き覚えがないか?」
桜庭の問いかけに俺は言葉を詰まらせる。
「……なん、でそれ」
「やっぱりな」
桜庭はこちらに背を向けたまま、静かにそう答えた。
「山吹も昨日見たんだな。いや、多分昨日だけじゃ無いよな」

ばくばくと心臓の音が大きくなる。
どうして桜庭が例の夢を知っているんだ?
『山吹も』って言い方から察するに、桜庭もあの奇妙な夢を見たという事か?

「じゃあ、もしかして桜庭もあの夢……」
俺が言い終わる前に、桜庭はこちらを振り返った。
その表情は険しく、怒りとも悲しみともつかないような感情が渦巻いているように見えた。
「ああ。夢の中のお前も今と同じ場所に絆創膏貼ってたろ。だから、まさか……って」

俺がカミソリで頬を切ったのは昨日の帰宅後。
つまり、昨夜の時点では「俺が怪我をした」という事実を桜庭が知る術はなかったという事だ。
にも関わらず夢に出てきた俺は頬に絆創膏を貼り付けていた。
そして、今日出勤した俺の顔にも同じ位置に絆創膏が貼られていた。
それを確認して桜庭は全てを察したというわけだ。

“桜庭と俺は同じ夢を共有している”?

その仮説が正しければ、今まで例の夢に現れた桜庭は全て本物ということになる。
『山吹がいつも話しかけてくれて嬉しい』というあの言葉も、脱出条件を満たすために行ったスキンシップの数々も、全て。

それが分かったところで、このおかしな状況をどう説明すればいいのかはわからないのだが。
桜庭も同じように考えたのだろう。
しばらく悩んだ末、口を開いたのは桜庭の方だった。

「正直、俺もまだ信じらんねーよ。こんなオカルトじみた話。しかもあんなふざけた夢……」
桜庭は眉間にシワを寄せてため息をつく。
「山吹はこの夢の原因とか知ってんの?」
「まさか!知ってたらもっと早くに相談してるよ」
正直にそう言うと、桜庭は少し間を空けた後「だよな」とだけ呟いた。

桜庭は長い長いため息をつくと、なにかを覚悟したように右手を差し出した。
「だから、これからよろしく頼むわ」
「おー……って、えっ!?」
「あの夢、脱出条件をクリアしないと目が覚めないっぽいじゃん。だから、協力してくれないか」

クリアしないと目が覚めない。
言われてみれば思い当たる節がいくつかある。
1番目の「手を繋がないと出られない部屋」は脱出条件を無視し続けたら結局遅刻ギリギリに目が覚めた。
確かこの日は桜庭も同じく遅刻しかけていたはずだ。
3度目の「相手を寝かしつけないと出られない部屋」では電車の中で爆睡してしまって終点まで運ばれた。

つまり、脱出に手間取った場合、仕事や用事に遅刻したり最悪無断欠勤するハメになる。
それを回避するためにも協力体制をとるのは賛成だ。
もしかしたら俺が考えているよりも遥かに厄介な状況に陥っているのかもしれない。

「……分かった。これからよろしくな」
俺は差し出された桜庭の右手をぎゅっと握り返す。

こうして俺と桜庭の奇妙な協力関係が始まったのだった。
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