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23.キスしないと出られない部屋
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あの居酒屋での一件以来、桜庭との間に微妙な距離ができていた。
具体的にどこがどう変わったのかと問われれば返答に困るのだが、以前のような気安い態度や軽口が減ったという事だけは確かだ。
俺は自宅のベッドで寝転がりながら、小さくため息をついた。
俺が何か気に障ることをしてしまったのかもしれない。
だとしたら謝りたいし、理由も知りたかった。
元々気難しい性格の桜庭のことだ。
俺には想像もつかない複雑な事情があるのかもしれない。
「……もしかして俺の気持ちがバレた……とか?」
だとしたら非常にマズい状況だ。
俺だってこんな感情を持つべきではないことは理解している。
だから今まで隠してきたつもりだった。
けれど。無自覚のうちに好意が漏れ出してしまっていたのだとしたら……。
「はー……」
前の職場を辞めざるを得なくなった理由を思い出し、俺は自嘲気味な笑みを浮かべた。
同性愛者であることがバレてもいじめを受ける事はなかったが、俺にとっては同情や的外れなアドバイスの方が苦痛だった。
どういう仕組みなのかはいまだに分からないが、最近あの夢を見なくなったのは俺にとっては好都合だった。
桜庭が俺を避けている理由が分からない以上、無闇やたらに接触するのは危険だ。
次にあの部屋に行った時にどんな指令が下されるか分かったものではないし。
そもそも「告白しないと出られない部屋」か最後だった、という可能性もなくは無いのだ。
あの奇妙な夢はなんの前触れもなく突然始まったものだ。
法則性も何もかも分からない。
という事は、終わりだっていつ訪れてもおかしくないということだ。
それが今日なのか、あるいは一年後なのかは誰にもわからないけれど。
俺はもやもやとした気持ちを抱えたまま寝返りを打った。
これ以上起きていても余計なことばかり考えてしまいそうだし、今日はもう眠ることにしよう。
夢の中でくらい、ありのままの俺を受け入れてくれる存在が現れてくれればいいのに。
けれど、現実はそんなに甘くなかった。
気付くと、俺はまたあの真っ白な空間に居たのだ。
背中には柔らかなベッドの感触。
そして、すぐそばには人の気配を感じる。
どうしてよりにもよってこんなタイミングでこの夢に訪れてしまったのか。
そう思いつつ、この前の夢が最後ではなかったことに内心ホッとしている自分もいた。
そっと薄目で気配の正体を確認すると、そこには俺を見下ろすようにベッドに腰掛ける桜庭の姿があった。
「……!」
なんとなく声をかけるのが憚られて咄嵯に寝たふりを続行する。
桜庭は俺に声を掛けるでもなければ、無理に起こそうともしなかった。
その代わりに指先で俺の前髪を優しく撫でてくる。
俺の髪に埃でもついていたのだろうか。
桜庭がどんな表情をしているのか気になったが、ここで目を開ける訳にもいかずに俺は寝たふりを続けることにした。
「……山吹」
しばらくして、ふいに名前を呼ばれた。
今しがた目が覚めたふりをして返事をすべきか、それともこのまま寝たふりを続けるべきか。
しかし桜庭はそんな俺の考えを見透かすように小さく笑ったかと思うと、俺の鼻をぎゅっと摘んだ。
「ぶぇっ」
「やっぱ狸寝入りかよ」
「う……っ」
観念した俺は上半身を勢いよく起こし、鼻をさすりながら恨めしそうな視線を送る。
「なんで分かったんだよ~」
「あはは、普通に分かりやすかったぞ」
どうして俺の髪に触れていたのか、なんて質問をするのはなぜか躊躇われた。
「もしかして、俺結構長く寝てた?」
「いや、そうでもないけど」
「……そっか」
俺の相槌を最後に沈黙が訪れる。
いつもなら気にも留めないような些細な沈黙が今はやけに息苦しくて仕方がなかった。
この夢が終われば、桜庭との特別な繋がりも消えてしまう。
俺は改めてそんなことを考えると、急に寂しさを覚えた。
「……はぁ?」
不意に桜庭の呆れたような声が響いて我に返る。
一瞬、心を読まれたのかと焦ったが、彼は扉の方を呆然と見つめていた。
「ど、どうかしたか?」
彼が無言で指差す方向には、脱出条件が記されたホワイトボードが掲げられていた。
【キスをしないと出られない部屋】
その文字を見て俺は唖然とした。
これまでの傾向を考えれば、こういう指令が出ることは想定内だったはずなのにいざ実際に目にすると衝撃を隠しきれなかった。
桜庭の方を見ると苦虫を噛み潰したような顔でホワイトボードを睨みつけていた。
「あ、あははー……これはまた…」
なんとも言えない空気に耐えられず、俺は引き攣り気味の笑みを浮かべる。
ミッションをクリアする以外に夢から覚める方法が見つかっていない以上、俺たちに残された選択肢は一つしかなかった。
「どうせやるなら、さっさと終わらせた方がいいか」
「うぇ!?」
半ば投げやりな様子で桜庭が発した言葉に俺は間抜けな声を上げた。
「なんだよ。ぐだぐだしてるとまた会社に遅刻するぞ」
「それはそうなんだけど……ちょっと心の準備が……」
こういう時の桜庭はひどく合理的というか割り切った考え方をする男だとは知っていたが、まさかここまでとは思わなかった。
「じゃあ10秒待つ。10、9、8、7……」
「待て待て待て待て!早すぎるって!!」
早口でカウントダウンを始めた桜庭に慌てて抗議する。
10秒で心の準備ができるわけないだろ!と文句を言うと、また眉間の皺が深くなった。
「男同士で嫌なのは分かるけどさ、ここはお互い様だろ?このまま夢の中に閉じ込め続けられるのはもっと困るしな」
彼の言っていることは正論だった。
桜庭だってきっと不本意に違いないのに協力してくれているのだ。
いつまでも駄々をこねている場合ではない。
「それに所詮夢だろ。ただ一瞬唇が触れ合うだけでこの夢から覚められるってんなら安いもんじゃねーの?」
“唇が触れ合うだけ”
ただ体の部位が触れ合うだけ、それだけのことなのに、俺の心臓はまるで別の生き物のように激しく鼓動している。
一応人並みに恋愛経験はあるつもりだけれど、恋人でもない相手とそんな行為をするのは初めてだった。
「……ん?まてよ」
ミッションは“唇にキス”とは言っていない。
つまりどこであろうと唇で触れさえすれば良いのではなかろうか。
例えば手とか頬とか。
この部屋の攻略方法が分かった途端、急に肩の力が抜けた。
「よしっ!」
俺は気合いを入れるように声を出すと、勢いよく桜庭の方へ向き直った。
「やっと心の準備できたか」
「俺さ、この部屋の攻略方法が分かったかも」
「攻略方法?」
ベッドにあぐらをかいたままの桜庭が怪訝そうな表情で顔だけこちらに向けて来た。
俺は得意げな笑みを浮かべながら桜庭に近づく。
好きな男とキスできるなんてそんなに嬉しい事はないが、彼がそれを望んでいないのなら可能な限り回避したい。
そう考えると、自然と気持ちが切り替わった。
「おう!あの指令の感じだと、キスする部位までは指定されてないじゃん?って事は手でもいいんじゃないかと思ってさ!」
俺はそう言い切ると同時に右手を差し出した。
我ながら名案だと思う。
「なるほどな」
桜庭は納得してくれたのか、左手を俺の手にそっと乗せてくれた。
「じゃ、失礼して……」
ドキドキと高鳴る鼓動を抑えながらゆっくりと顔を近づける。
洋画でしか見たことがないような仕草に少し気恥ずかしくなったが、俺は意を決して桜庭の手の甲に唇を軽く押し当てた。
ゆっくり唇を離しながら上目遣いに彼の様子を伺う。
桜庭は相変わらず気難しい表情のまま、俺を見下ろしていた。
それから1秒、2秒、3秒……。
扉の方に耳の神経を集中させるが、物音ひとつ聞こえない。
気まずい沈黙が流れる。
「……開かねーなぁ」
桜庭の落胆したような呟きを聞いて俺の中に焦りが生まれる。
やはり唇同士じゃないとクリア条件を満たせないということなのだろう。
「名案だと思ったんだけどなぁ……」
「まぁ、そう簡単に行くわけねーか」
「ごめん」
「あはは。なんで山吹が謝んの」
申し訳なさそうに俯く俺を見た桜庭が呆れたように笑った。
この部屋に来て初めて笑顔を見せてくれた事に少しだけほっとする。
「はー……、んじゃ気を取り直してミッションクリアしますかー!」
真剣な空気にしてしまうから妙に気恥ずかしいのだ。
冗談交じりに済ませてしまった方が俺も彼も気が楽なはずだ。
「……そうだな。そろそろ夢から醒めないと仕事遅刻しそうだし」
桜庭も少し照れ臭そうな表情で同意してくれた。
「まじでこれはノーカンだから」
そう前置きしてから俺はベッドの上で姿勢を正すと、桜庭の両肩に手を置いてゆっくりと顔を近づけていった。
「わかってるよ」
桜庭も同じことを思ったのかすぐに返事が返ってきた。
鼻先が触れ合う寸前。
「……」
桜庭の大きな瞳が俺の顔を映している事に気がついて思わず動きを止めてしまった。
そのまま脱力するように俺は彼の肩に額を押し当てる。
「……山吹?」
「なんか急に恥ずかしくなってきた……」
「お前なぁ……」
ファーストキスでもないのになぜか妙に緊張してしまったのだ。
多分今の俺は耳まで真っ赤になっていることだろう。
「ごめん、10秒だけ心の準備させて。次こそはちゃんとするから」
桜庭の肩に額を乗せたままそう呟くと頭上からまた小さなため息が聞こえてきた。
「もういい加減腹括れよ」
「いや~だってさぁ……」
そう苦笑いを浮かべながら顔を上げた瞬間、桜庭の右手が伸びてきて俺の両頬を挟むように掴む。
「んぶっ!?」
両頬が圧迫されて唇を突き出すような間抜けな顔になってしまった。
「え、なに、ちょっと待っ…」
一体何事かと思っているうちにそのまま強引に引き寄せられ、気づいた時には互いの鼻先が触れ合う距離になっていた。
「お前、モタモタしすぎ」
咄嵯の出来事に反応できずにいると、次の瞬間には柔らかい何かが俺の口を塞いだ。
それが桜庭の唇だと理解するのに時間はかからなかった。
唇は一瞬触れただけですぐ離れていったが、俺の思考回路はショート寸前だった。
「付き合わせて悪い」
桜庭の声で我に帰ると同時にどこか遠くでガチャリと鍵の開く音が聞こえた。
体が重力に従って落下していくような感覚と共に視界が真っ暗になる。
「う゛げっ」
ドスンと鈍い音を立てて床に叩きつけられた衝撃に目が覚めた。
背中や腰に走る痛みに耐えつつ上半身を起す。
どうやら寝返りを打った拍子にベッドから転落したようだ。
「……いってぇ……」
全力疾走の後のような息苦しさに胸を押さえると、心臓が大きな音をたてて脈打っているのがわかった。
背中にも汗をびっしょりとかいていて、Tシャツが張り付いている。
「まじ、かー……」
桜庭の柔らかい唇の感触が、体温が、まだはっきりと残っている。
あまりにも強引で不恰好だったが、俺は確かに桜庭とキスをした。
俺は自分の唇を指でなぞるように触れる。
どんな顔であいつと会えば良いのかわからない。
出社したらとりあえず普段通りに挨拶をして、今日の仕事の事を話し合って、それから……。
そんなことをぼんやりと考えながら、何気なく壁掛け時計に視線を移す。
「げっ」
いつも家を出ている時間より既に10分程過ぎていた。
俺は慌てて床から飛び起きると、バタバタと洗面所に向かって駆け出した。
あの夢の代償がこれなら悪くないかもしれない……などという浮ついた考えが一瞬頭を過ったが、俺は慌ててその雑念を振り払った。
具体的にどこがどう変わったのかと問われれば返答に困るのだが、以前のような気安い態度や軽口が減ったという事だけは確かだ。
俺は自宅のベッドで寝転がりながら、小さくため息をついた。
俺が何か気に障ることをしてしまったのかもしれない。
だとしたら謝りたいし、理由も知りたかった。
元々気難しい性格の桜庭のことだ。
俺には想像もつかない複雑な事情があるのかもしれない。
「……もしかして俺の気持ちがバレた……とか?」
だとしたら非常にマズい状況だ。
俺だってこんな感情を持つべきではないことは理解している。
だから今まで隠してきたつもりだった。
けれど。無自覚のうちに好意が漏れ出してしまっていたのだとしたら……。
「はー……」
前の職場を辞めざるを得なくなった理由を思い出し、俺は自嘲気味な笑みを浮かべた。
同性愛者であることがバレてもいじめを受ける事はなかったが、俺にとっては同情や的外れなアドバイスの方が苦痛だった。
どういう仕組みなのかはいまだに分からないが、最近あの夢を見なくなったのは俺にとっては好都合だった。
桜庭が俺を避けている理由が分からない以上、無闇やたらに接触するのは危険だ。
次にあの部屋に行った時にどんな指令が下されるか分かったものではないし。
そもそも「告白しないと出られない部屋」か最後だった、という可能性もなくは無いのだ。
あの奇妙な夢はなんの前触れもなく突然始まったものだ。
法則性も何もかも分からない。
という事は、終わりだっていつ訪れてもおかしくないということだ。
それが今日なのか、あるいは一年後なのかは誰にもわからないけれど。
俺はもやもやとした気持ちを抱えたまま寝返りを打った。
これ以上起きていても余計なことばかり考えてしまいそうだし、今日はもう眠ることにしよう。
夢の中でくらい、ありのままの俺を受け入れてくれる存在が現れてくれればいいのに。
けれど、現実はそんなに甘くなかった。
気付くと、俺はまたあの真っ白な空間に居たのだ。
背中には柔らかなベッドの感触。
そして、すぐそばには人の気配を感じる。
どうしてよりにもよってこんなタイミングでこの夢に訪れてしまったのか。
そう思いつつ、この前の夢が最後ではなかったことに内心ホッとしている自分もいた。
そっと薄目で気配の正体を確認すると、そこには俺を見下ろすようにベッドに腰掛ける桜庭の姿があった。
「……!」
なんとなく声をかけるのが憚られて咄嵯に寝たふりを続行する。
桜庭は俺に声を掛けるでもなければ、無理に起こそうともしなかった。
その代わりに指先で俺の前髪を優しく撫でてくる。
俺の髪に埃でもついていたのだろうか。
桜庭がどんな表情をしているのか気になったが、ここで目を開ける訳にもいかずに俺は寝たふりを続けることにした。
「……山吹」
しばらくして、ふいに名前を呼ばれた。
今しがた目が覚めたふりをして返事をすべきか、それともこのまま寝たふりを続けるべきか。
しかし桜庭はそんな俺の考えを見透かすように小さく笑ったかと思うと、俺の鼻をぎゅっと摘んだ。
「ぶぇっ」
「やっぱ狸寝入りかよ」
「う……っ」
観念した俺は上半身を勢いよく起こし、鼻をさすりながら恨めしそうな視線を送る。
「なんで分かったんだよ~」
「あはは、普通に分かりやすかったぞ」
どうして俺の髪に触れていたのか、なんて質問をするのはなぜか躊躇われた。
「もしかして、俺結構長く寝てた?」
「いや、そうでもないけど」
「……そっか」
俺の相槌を最後に沈黙が訪れる。
いつもなら気にも留めないような些細な沈黙が今はやけに息苦しくて仕方がなかった。
この夢が終われば、桜庭との特別な繋がりも消えてしまう。
俺は改めてそんなことを考えると、急に寂しさを覚えた。
「……はぁ?」
不意に桜庭の呆れたような声が響いて我に返る。
一瞬、心を読まれたのかと焦ったが、彼は扉の方を呆然と見つめていた。
「ど、どうかしたか?」
彼が無言で指差す方向には、脱出条件が記されたホワイトボードが掲げられていた。
【キスをしないと出られない部屋】
その文字を見て俺は唖然とした。
これまでの傾向を考えれば、こういう指令が出ることは想定内だったはずなのにいざ実際に目にすると衝撃を隠しきれなかった。
桜庭の方を見ると苦虫を噛み潰したような顔でホワイトボードを睨みつけていた。
「あ、あははー……これはまた…」
なんとも言えない空気に耐えられず、俺は引き攣り気味の笑みを浮かべる。
ミッションをクリアする以外に夢から覚める方法が見つかっていない以上、俺たちに残された選択肢は一つしかなかった。
「どうせやるなら、さっさと終わらせた方がいいか」
「うぇ!?」
半ば投げやりな様子で桜庭が発した言葉に俺は間抜けな声を上げた。
「なんだよ。ぐだぐだしてるとまた会社に遅刻するぞ」
「それはそうなんだけど……ちょっと心の準備が……」
こういう時の桜庭はひどく合理的というか割り切った考え方をする男だとは知っていたが、まさかここまでとは思わなかった。
「じゃあ10秒待つ。10、9、8、7……」
「待て待て待て待て!早すぎるって!!」
早口でカウントダウンを始めた桜庭に慌てて抗議する。
10秒で心の準備ができるわけないだろ!と文句を言うと、また眉間の皺が深くなった。
「男同士で嫌なのは分かるけどさ、ここはお互い様だろ?このまま夢の中に閉じ込め続けられるのはもっと困るしな」
彼の言っていることは正論だった。
桜庭だってきっと不本意に違いないのに協力してくれているのだ。
いつまでも駄々をこねている場合ではない。
「それに所詮夢だろ。ただ一瞬唇が触れ合うだけでこの夢から覚められるってんなら安いもんじゃねーの?」
“唇が触れ合うだけ”
ただ体の部位が触れ合うだけ、それだけのことなのに、俺の心臓はまるで別の生き物のように激しく鼓動している。
一応人並みに恋愛経験はあるつもりだけれど、恋人でもない相手とそんな行為をするのは初めてだった。
「……ん?まてよ」
ミッションは“唇にキス”とは言っていない。
つまりどこであろうと唇で触れさえすれば良いのではなかろうか。
例えば手とか頬とか。
この部屋の攻略方法が分かった途端、急に肩の力が抜けた。
「よしっ!」
俺は気合いを入れるように声を出すと、勢いよく桜庭の方へ向き直った。
「やっと心の準備できたか」
「俺さ、この部屋の攻略方法が分かったかも」
「攻略方法?」
ベッドにあぐらをかいたままの桜庭が怪訝そうな表情で顔だけこちらに向けて来た。
俺は得意げな笑みを浮かべながら桜庭に近づく。
好きな男とキスできるなんてそんなに嬉しい事はないが、彼がそれを望んでいないのなら可能な限り回避したい。
そう考えると、自然と気持ちが切り替わった。
「おう!あの指令の感じだと、キスする部位までは指定されてないじゃん?って事は手でもいいんじゃないかと思ってさ!」
俺はそう言い切ると同時に右手を差し出した。
我ながら名案だと思う。
「なるほどな」
桜庭は納得してくれたのか、左手を俺の手にそっと乗せてくれた。
「じゃ、失礼して……」
ドキドキと高鳴る鼓動を抑えながらゆっくりと顔を近づける。
洋画でしか見たことがないような仕草に少し気恥ずかしくなったが、俺は意を決して桜庭の手の甲に唇を軽く押し当てた。
ゆっくり唇を離しながら上目遣いに彼の様子を伺う。
桜庭は相変わらず気難しい表情のまま、俺を見下ろしていた。
それから1秒、2秒、3秒……。
扉の方に耳の神経を集中させるが、物音ひとつ聞こえない。
気まずい沈黙が流れる。
「……開かねーなぁ」
桜庭の落胆したような呟きを聞いて俺の中に焦りが生まれる。
やはり唇同士じゃないとクリア条件を満たせないということなのだろう。
「名案だと思ったんだけどなぁ……」
「まぁ、そう簡単に行くわけねーか」
「ごめん」
「あはは。なんで山吹が謝んの」
申し訳なさそうに俯く俺を見た桜庭が呆れたように笑った。
この部屋に来て初めて笑顔を見せてくれた事に少しだけほっとする。
「はー……、んじゃ気を取り直してミッションクリアしますかー!」
真剣な空気にしてしまうから妙に気恥ずかしいのだ。
冗談交じりに済ませてしまった方が俺も彼も気が楽なはずだ。
「……そうだな。そろそろ夢から醒めないと仕事遅刻しそうだし」
桜庭も少し照れ臭そうな表情で同意してくれた。
「まじでこれはノーカンだから」
そう前置きしてから俺はベッドの上で姿勢を正すと、桜庭の両肩に手を置いてゆっくりと顔を近づけていった。
「わかってるよ」
桜庭も同じことを思ったのかすぐに返事が返ってきた。
鼻先が触れ合う寸前。
「……」
桜庭の大きな瞳が俺の顔を映している事に気がついて思わず動きを止めてしまった。
そのまま脱力するように俺は彼の肩に額を押し当てる。
「……山吹?」
「なんか急に恥ずかしくなってきた……」
「お前なぁ……」
ファーストキスでもないのになぜか妙に緊張してしまったのだ。
多分今の俺は耳まで真っ赤になっていることだろう。
「ごめん、10秒だけ心の準備させて。次こそはちゃんとするから」
桜庭の肩に額を乗せたままそう呟くと頭上からまた小さなため息が聞こえてきた。
「もういい加減腹括れよ」
「いや~だってさぁ……」
そう苦笑いを浮かべながら顔を上げた瞬間、桜庭の右手が伸びてきて俺の両頬を挟むように掴む。
「んぶっ!?」
両頬が圧迫されて唇を突き出すような間抜けな顔になってしまった。
「え、なに、ちょっと待っ…」
一体何事かと思っているうちにそのまま強引に引き寄せられ、気づいた時には互いの鼻先が触れ合う距離になっていた。
「お前、モタモタしすぎ」
咄嵯の出来事に反応できずにいると、次の瞬間には柔らかい何かが俺の口を塞いだ。
それが桜庭の唇だと理解するのに時間はかからなかった。
唇は一瞬触れただけですぐ離れていったが、俺の思考回路はショート寸前だった。
「付き合わせて悪い」
桜庭の声で我に帰ると同時にどこか遠くでガチャリと鍵の開く音が聞こえた。
体が重力に従って落下していくような感覚と共に視界が真っ暗になる。
「う゛げっ」
ドスンと鈍い音を立てて床に叩きつけられた衝撃に目が覚めた。
背中や腰に走る痛みに耐えつつ上半身を起す。
どうやら寝返りを打った拍子にベッドから転落したようだ。
「……いってぇ……」
全力疾走の後のような息苦しさに胸を押さえると、心臓が大きな音をたてて脈打っているのがわかった。
背中にも汗をびっしょりとかいていて、Tシャツが張り付いている。
「まじ、かー……」
桜庭の柔らかい唇の感触が、体温が、まだはっきりと残っている。
あまりにも強引で不恰好だったが、俺は確かに桜庭とキスをした。
俺は自分の唇を指でなぞるように触れる。
どんな顔であいつと会えば良いのかわからない。
出社したらとりあえず普段通りに挨拶をして、今日の仕事の事を話し合って、それから……。
そんなことをぼんやりと考えながら、何気なく壁掛け時計に視線を移す。
「げっ」
いつも家を出ている時間より既に10分程過ぎていた。
俺は慌てて床から飛び起きると、バタバタと洗面所に向かって駆け出した。
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