一目惚れなんです、黒竜様

雪吹つかさ

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3:不穏な風

本当のはじまり

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 長い休み時間をもらったイヴが行く場所は決まっている
 森を抜けて目的の相手のいる地点に顔を出した。涼しげな色の瞳に一瞥を向けられて満面の笑みが浮かんだ。いそいそと一定の距離の場所でイヴは座り込んだ。大きく息を吸ってから言葉をゆっくりと紡いでいく


「黒竜様。今までずっと名乗らずにごめんなさい
わたしの名前はイヴです。年は……一五歳、くらい? たぶん一五だと思う。……黒竜様のお名前を、訊いてもいい……?」


 恐る恐る尋ねるイヴの不安げな眼差しが黒竜を見つめる。黒竜は顔を背けて目から逃れた。それでも尚イヴは黒竜を見据えて言葉を待っている。問いかけてからは自分から言葉を発して促そうとはせず、じっと待ち続けている
 そっぽを向いて黙していた黒竜だったが二の句もなくその場から動きもしない娘に溜め息のようなブレスを吐く。吐いた息で散らばって地面に落ちていた葉が舞い上がった

 黒竜はどこか気だるげに体を動かしてイヴと対面した。イヴの表情がパッと明るくなった


「私に名はない」
「え……じゃあ他の……お友達とか知り合いとかにはどういう風に呼ばれているの?」


 素朴な疑問が浮かんでイヴが問いかける
 イヴは見たままで呼んでいる。黒竜――漆黒の体の竜。話をしたのはつい最近の事なため名前を知らない。他の者も呼び方は曖昧で、単純に「竜」だったり「元魔王の手先」や「残党」といった経歴からのもの「災厄の竜」という力からのものなど様々だ
 しかしどれも通称でしかない。黒竜と関わっていたモノならば知っているかもしれない

 だが黒竜は押し黙った後に目を伏せてしまう


「好きずきだ。貴様らの言うで呼ばれた記憶はない」
「じゃあわたしが黒竜様と呼んでいるのは……」
「そう呼んだ者もいる」
「呼ばれて嫌とかは……」
「何とも思わん」


 ――嫌がられていない。良かった……
 でもなんとも思われていないのも、複雑だなぁ


 両手で軽く胸を押さえる。嫌がられていない事には一度安堵したものの、次の言葉で複雑な想いを抱いて何とも言えない表情を滲ませた

 黒竜に名前はない。かつて幅を利かせていた魔族達も名前はなかったのかもしれない。イヴは今までにあまり魔族と関わる事はなかったが、黒竜に限らず名前を聞いた事がなかった。魔族達の頂点である魔王でさえ名前ではなく「魔王」と呼ばれているのだ
 種族が違うためイヴは断言出来ないし違和感がありはするが、そういうものなのかもしれない――と自分を納得させた

 その時ふっ、と感情が湧いてくる

 この黒竜に名前をつけたい、と

 最初は姿を見られるだけで幸福だったはずなのに。誰も名付け、名を呼んでいないのならば名前をつけたいと願ってしまっている自身にイヴは苦い笑みを内心で広げる
 黒竜を一瞥して、伏し目になる。黒竜に自ら言った。傍にいて会話が出来ればそれ以上は望まないと

 ――大空にいた遠い存在の傍にいられる。それは夢にまで見た光景
 その上会話まで出来る。それはどれだけの幸福か
 それだけで嬉しくて仕方がない事で。心の底からそれだけで十分幸せで、心が満たされていく。目の前が明るくなって、花畑にいるような心地になる。これ以上の願いは贅沢すぎるのではないかと自戒するほどに

 だからこれは過ぎたる願いで、嫌われるかもしれない願いだ

 嫌われたくないという想いもあって出掛けた言葉を必死に呑み込んだ


 ――あ、でも……わたしの中で名前をつけるのはいい、かな? 黒竜様の前で言わなければ呼んでも大丈夫かも


 そんな考えが浮かんでイヴは顔を上げる。面を上げれば汚れを知らない海のような色の瞳に見られていることに気付いた。それに肩を竦めて上げた顔を伏せた。顔に熱が集まっていくのを感じながら


「貴様は何故私を恐れぬ? 勇者として名乗りを上げ果敢に挑んできた者もいた。しかしその勇者もその仲間も畏怖の目をしていた」


 下げられている頭に言葉が浴びせられて、イヴは熱が冷めていくのを感じた。徐に顔を上げる
 思い出しているのだろう。黒竜の声はぼんやりとした声で、目が合っているはずなのに見えていないようだった


「貴様はそんな勇者にも及ばぬ小娘だ。私が少し尾を振るだけで死ぬだろう。再び風で飛ばされれば今度は屍になるかもしれんぞ。恐怖で足は竦まんのか。二度と来たくはないと思わんのか。ーー怖く、ないのか」


 あらゆる者が畏怖する強大な力
 人間側を勝利させて世界を平和に導いた勇者一行でさえも恐れながら立ち向かった相手


「怖くないよ。怖いと思った事ない」


 その事実を知りながらも穏やかな声で、しかしはっきりとイヴは言い切った
 確かにイヴの体はこの黒竜の力を前にして危険だと知らせてきた。だがイヴは黒竜を怖いと思ったことは一度もないと言う
 全身が震えた事はあったが、それは嬉しさと緊張からのもので。声が出なくなりそうだったりもしたがそれも同上だ

 何度も黒竜を想起したが黒竜に対する感情に黒竜という存在そのものへの恐怖はない。ある恐怖といえば嫌われないかだとか、会えなくなってしまわないだとかそういったものだけだ


「やっぱりわたしが思うのは綺麗とかだよ。近くで見て、話をして尚更そう思った。もっと知りたいなあって……わたしが抱いた感情は間違ってなかった。……黒竜様は違うって言うだろうけど」


 何度も言葉を投げかけた。黒竜はそれらを否定してきた。だからといってイヴの感情がなくなる訳じゃない。むしろ増していった。もっと話をしてひっそりと暮らすこの黒竜の事を知りたいと
 だからこうして何度も会いに来る。それだけの話だ


「……人間の感性は解らんな。もう良い。その言葉は聞き飽きた。貴様はそれしか話がないのか」
「そういう訳じゃ……」
「ならば私に問うてみよ」
「……えっ?」


 イヴの表情が固まる。黒竜は質問をしていいと言ったのだ。固まって何も言えないイヴに黒竜が頭を動かし前のめりになってイヴとの距離を詰めて睨み付ける。それにイヴは声も出ない


「知りたいというからには質問があるのだろう。それとも嘘か?」


 髪が乱れるのも構わずブンブンと大きく頭を振って否定した


「なら問うてみよ」
「……答えてくれるの?」
「その問いによる」


 願ってもいない事態にイヴはかつてないほど頭を回転させる。黒竜に訊きたい事はたくさんある。質問文がいくつも浮かんでくるが舌が上手く回らなかった。何度も尋ねようと唇を開いて、思い悩んでやめてしまう


「次までに質問をまとめてきます……」


 悩んだ末にイヴが出した返答は次回までの保留だった
 纏められなかった自分にがっくりと肩を落としている。黒竜はそれを眺めてからイヴから頭を遠ざけた

 黒竜が離れてイヴはふと空を見る。太陽の傾きは強く、色を変えて沈み始めようとしていた。陽が暮れる前に。シェリーの言葉がよぎって慌てて立ち上がった


「わたし、帰らなくちゃ。黒竜様、また。今日はありがとう!」


 言わなくてはならない事を簡潔に述べて礼をしイヴは慌てて踵を返した。走ってギリギリ間に合うかどうかといったところだ。イヴは急いで街に向かいひたすら駆けていった
 黒竜は何も言わずただ体を伏せ娘の姿が見えなくなったのを瞥見するだけだった
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