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3:不穏な風

良くない噂

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 陽が暮れてしまう前にイヴは戻る事が出来た。戻るや否やエプロンを巻いてシェリーに一言交わしてからカウンターの奥へと立った


 ――午後からの仕事も終えて閉店作業の時間
 表にあるプレートを裏返して閉店を知らせる。店内に残った数少ないパンをカゴごと下げた。箒ではき掃除やケースやカウンターを雑巾で拭き掃除などをしていく。シェリーが売上の計算をしている間にイヴは掃除を終わらせた
 出たゴミを捨てて掃除用具を元の位置に戻すと初日の仕事を終えるとシェリーに「お疲れ様」の言葉と共にシャワーを勧められた。厚意に甘えて先にシャワーを浴びて出ると売れ残ったパンが食卓にのぼっていた

 パン切り包丁でスライスされた物や丸のままのものやスライスされた断面に焼き目がつくまで焼かれたものなど様々な形で置かれている
 シェリーは台所に立って鍋を掻き回し、グレンは瓶をテーブルに並べていた


「あの……シャワー空きました」
「ああ、イヴ君。今日はお疲れ様。それじゃあシャワーを浴びてこようかな」


 火の元から離れているにも拘らずグレンの額にはまだ汗が浮かんでいる。汗を吸って服は濡れてしまっていた。あまり気分が良いものではないだろう
 グレンはシャワーを浴びに向かっていき、イヴはシェリーへと近寄る。鍋からは湯気が立っており同時に香りも漂っていた。放り込まれている具材を掻き混ぜて浮かび上がらせる。見えた肉の塊や切られた野菜は香りと相俟って食欲をそそった
 イヴは咄嗟に両手でお腹を押さえた。鳴ってしまわぬように


「もう少し煮込まなきゃいけないから、ミルクを出しておいてくれないかい?」
「はい。えっと……」
「裏口で冷やしてあるよ」


 言われてイヴは裏口のドアを開けて外に出る。外はもう暗く、よく見えない。ドアを支えて家の中の灯りを極力漏らして注意深く見れば大きな器があった。器には水が張られており四本瓶が浸かっていた

 ドアから離れ、器を引きずって引き寄せてドアの近くまで寄せる。ドアを体で支えてから瓶を水の中から引き上げて腕で抱えて支えた。体を滑り込ませて家の中へと戻る。瓶を一本一本テーブルに置いていき、タオルを持ってきて拭いておいた
 テーブルの上を見てミルク瓶以外の瓶に目がいく。グレイが並べていた瓶の中身はジャムだった。ジャムの種類は豊富でそれぞれ違う色をしている。完全に潰された物ではなく、少し形が残っていた。それをパンに塗りつけて食べれば広がるであろう味を想像してイヴは手にとっていた瓶をテーブルの上へと戻した


「出しました」
「そうかい。ありがとうよ」
「他にすることはありませんか?」
「そうだねぇ……ああそうだ。塩漬けの魚があるから出しておいてくれないか」


 ミルクの時のようにシェリーに場所を教えてもらって塩漬けの魚を皿に取り出す。それもテーブルへと並べたところでグレンが浴場から出てきた
 汗を流してさっぱりとしたようで胸がすいたとばかりの表情を湛えている。一足先に席へとついた

 鍋の様子を見ていたシェリーが器を出して鍋の中身を入れていく。三つの器に入れるとイヴがテーブルまで運んだ。全員分並べるとシェリーとイヴも席に座った
 全員が揃ったところで食事を始めた

 ジャムの瓶を開けて中身を取り出す。焼かれたパンに塗って口に運んだ。果物だけで作られたジャムの甘味が染み込んでいく。粒の残った果物を潰すとさっくりと軽やかな食感がやってきた
 その味にあっという間に食べきれば他のパンに手を出す。スライスされたパンは固めで、スープに浸してスープの味をつけて口に入れる。スープはニンニクと塩で味付けされており、羊肉と野菜の味がスープとして染み出していた。パンからにじみ出てきてじゅわりと広がった


「おいしい……」


 思わず感想をこぼしながらもイヴは食べ進めていく。労働の後ということもあって食事が身にしみた


「そういえばあの噂は本当なのかねぇ……イヴ君も何か聞いていないかい?」
「……噂?」


 ジャムをパンにつけていたシェリーがイヴに話を振った。イヴは手を止めて首を傾げる


「街の若い男衆が武器を集めているらしいって話でね」
「冒険にでも出るんじゃないか?」
「今の時代に?」
「男とはそういうものさ」
「……平和になったっていうのに不思議だねえ」


 武器屋には用向きがないイヴにはない。仕事探しに一度立ち寄ったきりだ。偶然遭遇していないだけなのかイヴは見たことはないし、そんな噂を耳にしたこともない
 ほのかに冷えた牛乳を飲みながら思い返してみるが記憶に引っかかるようなものはどうしても見付からなかった。イヴ自身まだこの街に来て日が浅いというのもあるだろう

 どこか満足そうに頷いては目を細めるグレンと怪訝そうにするシェリーの二人のやりとりを見ていたイヴはミルクの瓶をテーブルに置いて首を振った


「わたしはそんな噂初めて聞きました」
「そうかい……。ま、何かあったらいけないから気をつけておきなね」
「……はい」


 若い男たちが武器を集めて何をしようとしているのか。イヴは首を捻ったがひとまず頭の片隅に置いておいた

 食事に戻ってパンを手でちぎって口に入れていく。時々塩漬けの魚に手を出したりしながら胃を満足させていく。牛乳を飲み干して大きく息を吐いた。体はかなり満足してきているようでイヴの手が止まり始めている
 手の動きは緩慢になりながらも口に入れては咀嚼していった。満腹になる前にスープの入った器を空にして漸く食事を終わらせた

 使った食器を持って所定の場所へと置いておく。そこでふと訊きたいことが思いついてイヴは振り返る。テーブルの上の物が少しずつ減っており、まだシェリーとグレンは食事中のようだった


「あの、この街に本がたくさん集まる場所とかありますか?」
「本? 道具屋に少し売っているのは見た事があるが……」
「王都程大きなところじゃなくていいなら図書館もあったよ、確か」
「図書館……。図書館があるなら図書館の方が」
「ああ、そういえばあったなあ。しかしどうして図書館に?」
「行きたいんです。調べたい事があって」
「それなら明日教えてあげるよ」
「ありがとうございます」


 シェリーが明日図書館の場所を教えてくれることとなった。イヴはホッと胸を撫で下ろす。その顔には喜びが滲み出ていた
 食事を終えたイヴは夫妻に挨拶をしてから上機嫌で自身に与えられた部屋へと向かった
 イヴに与えられたベッドとタンスのみの殺風景な一室に戻るとベッドへと腰掛けた。そのまま横になれば眠ってしまいそうで横たわるのは今は控えた
 汗を流し終え、食事もとり終えて、疲労もある。それらがイヴを睡眠に誘っていたからだ


 イヴは両腕を上に上げて体を伸ばす。体の伸びる心地よい感覚に数秒程体勢を維持してから全身から力を抜いた


(黒竜様への質問、どうしよう。何から訊こう)


 少しずつ、少しずつではあるが進展していっている。それがとても夢心地で、自然と頬が緩んだ


 ――好きな物とか、嫌いな物とか
 昔の話は――――少し、哀しそうな顔をするからやめておいた方がいいかな……


 想いを話した際の自嘲じみた言動を思い出してイヴの表情に憂いが浮かぶ。あんな顔を進んでさせたくはない。昔に関わる質問は除外した
 頭の中で質問をいくつか浮かべていく。訪れた際には尋ねられるくらいにはいくつか纏められた


「明日……行けるなら夜かな」


 明日から休憩時間は今日とは違い短い。明るい内に黒竜の元に行くには難しいだろう。焦れったさを感じながらも仕方がないこととして諦念に染まった


(どうか明日も会えますように……)


 それだけを願って、眠るための準備を始めた

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