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8:良い竜悪い竜
初めての誘い
しおりを挟むぼんやりとどこでもない空中を見つめる。あのあと帰ってきたイヴだったが、帰ってくる今までぼうっとしていた。上手く帰ってきたのか、食事をとったのかも覚えていない。
数日ぶりに会え、好物まで聞けた。それだけでも僥幸だというのに、普段食している果物をもらい、挙げ句の果てには明日来るようにと誘われた。
思い出しては手で頬を何度も叩く。音が鳴るばかりで夢心地は奪われない。むしろ頬の熱を鮮明に感じた
ーーど、どうしよう……そうだ、服。綺麗な服買わなくちゃ
現実へと帰ってきて、裾を広げた。元の色がわからぬ程に劣化し、草臥れている。腰で結んでいるリボンもところどころ裂けているのが手触りからわかる。今まで新調していなかったイヴだが、誘われたとあっては違う服を欲しくなってしまう。
月明かりが差し込む窓の前まで赴いて巾着袋を覗き込む。宝石を散りばめたり高級な生地を使ったものでないのならば十分購入出来るだけの硬貨が入っていた。
巾着の紐を閉めてしまっておく。所持金を確認した手は髪に伸びる。毛先が肩にかかっていた。
ーー髪も……少し伸びたかな……。でもこのくらいなら平気?
手をサイドへと移動させる。髪とは違う感触が伝わってくると掴む。纏めていない――飾り程度のリボンも古くなっていた。
――リボンも変えようかな……。リボンと服と……あ、果物も買っていこうかな。一つじゃ足りないだろうし一〇個くらい……あ
黒竜は果物は嫌いではないことが今日発覚した。この地方の名産品を持参しようと考えたイヴだったが、ふとシェリーの言葉が頭を過ぎる。
『甘くて木になるから貴族に人気でね』
貴族は地面に近い物ほど嫌う傾向にある。その点自分よりも高い位置に実っている例の果物が人気であるのも頷ける。だが貴族に人気という事は相応の値段に釣り上げていてもおかしくはない。この地の領主の顔も性格も知らぬ身であるイヴではあるが、貴族が金を落とす品を見逃すはずがないことくらいは予測がつく。
再び巾着を取り出して紐を緩めて逆さまにし、片手の上に出す。落とさないように少し手を丸めて、出てきたコインの大体の枚数を見て眉を眉間に寄せて、小さく唸り声を漏らした。給金をもらったのはまだ一度のみ。とても贅沢が出来る程の硬貨はない。ましてや貴族御用達の品を大量に買える程ではない。服、リボンなどの外見を整える品だけでなく果物も買うとなればほとんどがなくなってしまう可能性が出てくるだろう。
大きく息を吐いて手を巾着の口に近づける。軽く握って隙間を埋めゆっくりと手を傾けて中へと戻してゆく。全て戻すと今度こそしっかりと紐を締めた。
「まだ起きてんのかい?」
「はっし、シェリーさん?」
びくんとイヴの肩が大きく跳ねる。首を巡らせればいつの間にか人が立っていた。が物思いに耽っていたため気配に気付けずにいた。近付いてきた相手の顔が月の光で照らされる。見知った顔が確認出来るとほうっと安堵の息を吐いた。
「早く寝な。明日も忙しいだろうから。今日ほどじゃあないかもしれないけどさ」
「今日はたくさん来ましたよね」
今日は昨日の雨が嘘のようにカラッと晴れていた。気温もやや高く過ごしやすい体感であった。
朝から客が押し寄せ、パンは飛ぶように売れた。午後からは一区切り終えた農民が訪れ、店は早い完売により今まで一番早く閉める事となった。客の中には姉弟やミランダの姿がありはしたものの、イヴは話をする暇もなかった。
「長年パン屋をやっているけど、最近は本当に忙しいよ。パンも足りていないし。……世界が落ち着き始めているからだろうけどねぇ」
「そう、ですね」
「まあ、この街には気難しい竜が居着いちまってるけどね」
シェリーの口から出た言葉で心に水を掛けられる。心臓の辺りが冷えているような感覚があった。自然と速まる呼吸を落ち着かせるために息を意識し、ゆっくりとしたものへと変える。鼓動は速かったが、表面上は冷静になるように努めた
「シェリーさんは……黒竜……に、いなくなってほしいんですか?」
「そりゃあ……怖いものはいないに越した事はないさ。何でも魔王についていた竜だって聞くし。最近は大人しいみたいだけど、いつ暴れ出すかわからないからね。このまま大人しくしてくれればいいんだけどさ」
「……そう、ですか」
感情を押し殺しきれていない声で相槌を打つ。喉で封じられた様々な言葉が残って、今にも突破して出てきてしまいそうだった。哀愁漂う姿がチラチラと脳裏に顔を覗かせている
――フェリーク様はそんなのじゃないのに。暴れたりもしないのに。……でも皆、そう思っているのかな
若い男たちが手を組んでフェリークを倒しに行こうとしていた事を想起する。姿をはっきり見た訳ではないためあのあと彼らがどうなったかは知らない。この地に赴き挑む者だけではなく、街の者でさえ討ち取りたいと思っているのが判然とした一件であった。参加しない者もいるようであったが、当時の店主の言葉が答えだろう。若者たちのような過激派よりも店主やシェリーにような保守派が多いのが感じ取れる。
イヴは首を振って、自身の部屋の方を見遣った。
「じゃあ、寝ますね。また明日」
「また明日。寝坊しないどくれよ?」
僅かに口角を上げて部屋へと戻った。扉を閉めると寝台へと倒れこむ。明日の約束を思い浮かべて瞼を閉じた。
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