猫と鼠

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1.甚振られる鼠

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「あ、先生。首元にゴミが」
「……ぇ、っあ、え、っと、あ、ありがとうござい、ます」
「いえ」

 まただ。

 僕はため息ついた。

 絶対に、絶対に……五月先生は僕をからかって楽しんでいる……!

 現に今も変にニコニコしている。僕はもう一度だけ頭を下げると、青くなりながらそそくさとその場から逃げるように離れた。
 いや、言い方に語弊があるな。逃げるように、じゃない。まさに、逃げたんだ。でもなぜ僕が逃げないといけないのだろう。そう思いため息つく。
 本当だったら気まずそうに逃げるのは五月先生のはずなのに。



 ある日、僕が頭痛薬を貰えないかと保健室へ行った時、五月先生はあろうことか三年の男子生徒と何やらとんでもないことをしていた。何をしていたかなんて僕には説明できない。
 僕がその場に唖然と立ち尽くしていると、三年の生徒が「鍵閉めるの忘れてた!」などと的外れなことを言ったかと思うと、赤くなって僕を見ようともせず保健室から出ていってしまった。

「ちょ……、さ、五月先生……あの、い、今の……」
「ああ。すみませんねぇ、お見苦しいところを。で、何の用です? 怪我でもされました?」

 五月先生はとんでもないところを見られたというのに、動揺することすらなくニッコリ僕に笑いかけてきた。

「え、あ、え? あ……、えっと、そ、その、頭がずっと痛くて……。頭痛薬があればいただけたら、と……」

 僕は蒸し返しもできず、もちろん咎めることなど到底できるはずもなく、慌てて保健室に来た理由を伝えた。

「ふふ。先生、申し訳ないんですが、俺はただの養護教諭ですよ。医者でも薬剤師でもない。だから薬を持っていたとしても先生に処方はできないんですよ」

 五月先生はニッコリしながらそう言ってきた。僕は自分の無知が恥ずかしく、顔が赤くなるのがわかった。
 そういえばそうだ。保健医などという呼び方のせいでつい、先生というよりは医者のイメージが強くなってしまっていた。

「あ……そ、そうでした、ね……。し、失礼しまし、た」

 僕はとりあえず頭を下げると、そそくさとその場を離れようとした。今頭を下げたせいで余計ずきずきと痛んだ頭のことは何とか押しやろうとしながら。

「おっと。まあまあ先生。そう急がずに。お疲れなんじゃないですか? 少し眠れば頭痛もマシになるかもですよ」

 五月先生はそう言いながらニコニコ僕の手をつかんできた。
 先ほどから五月先生はずっと笑顔だというのに、なぜか落ち着かない。例えばこちらが粗相をしたとたんその隙をついて襲いかかってきそうな気、すらする。
 ふと、今朝のホームルームでニコニコこちらを見てきた生徒の水橋くんを思い出した。
 僕は彼が苦手だ。なぜかわからないが、どこか怖くて仕方ない。あんなに優秀でいつも笑顔の絶えない、いい生徒だというのに。理由がわからない上に担任として本当に情けないと思うが、こればかりはどうしようもない。
 そうだ。なぜ水橋くんを思い出したかわかった。五月先生は、どこか水橋くんを思い起こさせる何かがある。なぜか、理由もなく、落ち着かない。怖い。
 先ほど彼はとんでもないことしていたわけだが、それが理由ではなさそうだとは思う。
 なぜだろう、五月先生自体はこんなに笑顔だというのに。

 ……水橋くんと同じように。

「あ、い、いえ。だ、大丈夫です。もう、治りましたから」
「ええ? でも顔色は悪そうですよ? ムリしないで」
「あ、あの! ほ、本当にもう……!」

 五月先生が笑顔で僕に触れてきた途端、僕はいっそ泣きそうになりながらビクリとしてしまった。我ながら情けない。でも仕方ない。
 変な風に思われただろうかと五月先生を見ると、案の定ポカンとしていた。だが次の瞬間、なぜかとても楽しそうにニッコリ笑ってきた。

「ほっ、ほんと大丈夫ですから!」

 僕はもう、その場から逃げるように出て行くしかできなかった。



 多分それ以来だと思う。なぜかわからないが、五月先生が僕を見かけると何やら言ってきたりするのだがその度、変にニコニコしている。僕はと言えば、とりあえずビクビクその場から何とか逃げることしかできないのだ。
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