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たんぽぽのはなたば。(終)
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昨晩からふり続いている雨は、止む気配が無い。どす黒く分厚い雨雲が西から東へと流れ込んできており、元栓が締まる傾向が見られないのだ。
昼間は子供たちで賑わっているはうの公園も、天気が悪い日は風邪を引いてしまうからと遊具に人の姿は見当たらない。開けっ放しの蛇口のような滴が、さびかけの金属棒から垂れ落ちている。
不透明な水色の傘に当たる雨の音は、次第に大きくなっていっている。木々は雨宿りの役に立たず、かといって他に勢いをやわらげられそうな場所はない。
チラチラと入口の方に目をやってみるが、通行人は入れど入場してくる人はいない。通り抜けが出来ない袋小路では、それも仕方のない事だ。
一般に雨のにおいだと言われているのは、微生物の死骸から発せられるにおいが立ち上っているものらしい。気持ち悪くて吐き気がしそうだが、におい自体に拒否感を覚えないのは人体の謎である。
傘の先端から、表面を伝って流れ落ちてきた雨粒がポツリと土にしみ込んでいく。と言っても、土壌が蓄える水の量には限界がある。あふれ出さないことを祈るばかりだ。
航生は、時計台の下に立っている。近所のショッピングモールが出している広告の声も、騒音がかき消してしまっていた。目に見えるものは、うっすらと生える木々とずぶ濡れになった芝生、そして刻々と進む時計の秒針だけである。
天気予報ではすぐに晴れると言っていたが、とんだとばっちりを食らわされた。メッシュ生地が使われている運動靴には雨水が浸食し始め、乾燥機行きは確定だ。
時計が示しているのは、午後四時を少し過ぎたところ。まだ日が大きく傾いていないのことに、夏が近づいていることが感じられる。
手持ちのバッグに雨が入らないように注意しつつ、風が吹いてくる方向に傘を構え直した。どうしても、濡らしたくないのだ。
大した事でもないのに、勘違いした心臓がポンプを速くした。無駄に消耗されたエネルギーは、疲労となって筋肉に蓄積していく。動悸がすると、どうにも落ち着かない。
「おーい!」
思い切って叫んでみたが、天然の防音シャッターに阻まれて反響しなかった。やまびこのごとく跳ね返ってくることも無く、静寂が辺りを包む。
出口に一歩だけ踏み出し、すぐにひっこめた。風邪を引いては元も子もないのは承知の上で、もうちょっと待ってみることにする。
あの日咲いていたタンポポは、どこかへ旅立っていったようだ。役目を果たしてへたっている茎が、そのことを教えてくれている。今日がその日ではなかったことを願う。
しとしとと雨が降る中、独りぼっち。現代社会と隔絶された、分離空間。誰もいないという事実に、心が無性に掻き立てられる。
何を叫んでも、外に声は届かない。そう知った時、押し黙っていた内なる心を遠慮気味に前へと出した。
「……優希は、どうしたら喜んでくれるのか、教えてくれー!」
気持ちの乗った言霊も、大量の流星群に叩き落された。
彼女は、自然をこよなく愛する自然派の人間である。そして、有言不実行であるお偉いさんや意識高い系の人たちとは、一線を画している。
生物だけなら定期考査で満点が取れそうなほどの、枝葉まで網羅されている知識。教科書では省略されていることも、丁寧に説明してくれる。
それでいて、生命を重んじる心が備わっているのだ。ネズミも、幼虫も、人類の大敵であるゴキブリでさえも、危害を加えられない限り元の場所へと逃がしてやる。
ただし、ここで言う『生命尊重』は、いたずらに失われる命を救うと言うものである。競争に敗れた結果である捕食という事象については、一切関与しない。
手を出してしまう事は自然に対する冒涜であり、人間がまるで地球をコントロール出来るかのような虚像と仮初めの優しさを表すだけになってしまう。
物のプレゼントで、優希の心は動かせるのだろうか。親友とまでは仲が深まっていない彼女には時期尚早な気もするのだが、行動せずに得られるものなど何一つない。
富裕層の欲求を満たすためだけに作られた高級品は、むしろ反感を買ってしまう。ブランド品を安値であげると提案されても、優希は昔から補修して使い続けているバッグを持って登校するに違いない。
そもそも、物で釣ると言う行為が正しいのか。自信家ではない航生に、白黒はつけられなかった。
梅雨でもないのに、勢いを増す雨。気象警報で学校が臨時休業になるかどうかをリアルタイムで追いかけるのが平日の基本だが、本日は土休日。部活も行っていない。
傘を後ろにのけぞらして、上空をうかがう。灰色のカーテンが全体に広がっていて、光の差込口を閉ざしてしまっている。
……雨って、氷の粒が溶けてできるんだっけな……。
気温が低いと、氷の粒が連なり合って雪になる。一方、気温が高いと雨となって地表に落ちてくる。それだけの話だ。
待ち合わせの時刻は、午後の四時。もう、五分ほど回っている。
「……ま……せ……」
粘ろうか粘らまいかの思案に明け暮れていると、遠方からかすかに女の子の甲高い声がした。息も切れ切れで、相当急いで走って来たようだ。
砂利道に現れた、ピンク色の傘。間違いなく、優希だ。
「おまたせ……。時間、過ぎちゃってるよね……?」
いつもならふわふわ浮いている前髪も、今回ばかりは貼り付いていた。
航生は、何も言葉が出てこなかった。
……来てくれたんだ……。
公園で落ち合う約束を取り付けてはいたのだが、要件までは伝えていない。他の用事との兼ね合いもあるだろうに、彼女は雨の中優先してくれたのだ。
「それで、用事って何かな……?」
未だ明かされていない、ちっぽけな謎。優希をここまで持ってこさせた、無視できないもの。少なからず、開封するのを楽しみにしているようだ。
航生は、おもむろにバッグからあるものを取り出した。
一晩で作り上げた割に、平均以下の仕上がりになってしまった。技量不足に加えて、この運から見放された天候がこの悲劇を生んだのだ。
……何をプレゼントしたらいいのか、分からなくなって。
高級品志向ならブランド品でも贈っておけば済むが、思いを形に変えるという行為は困難を極めた。抽象的なものから実物を作り出すと言われても、教科書のように答えがあるわけではない。
アイデアがひょっこりと顔を出しては、気に食わないとゴミ箱へ直行する。その繰り返しだった。カーテンの隙間から月明かりが差して、深夜に突入したことに気付いたくらいだ。
しおれていて、所々破れている、お粗末な代物。素人でももっと上手な姿でここまで持ってこれる。
……下手くそではあるけど。
しかし、雑巾を一滴まで搾り取る仕草の中に、身を削る痛さは無かった。
お金の為でもない、名誉の為でもない、一人の同級生というかけがえのない存在への感謝。何がどうなれば、苦痛に変化するのだろうか。
割れものを受け取るかのような手つきで、優希は贈り物を手に取った。
彼女の食い入るような目線が、そのものをくまなく巡回した。何処からどう見ても、見たままだと言うのに。
梅雨にしては早い雨音に支配された芝生が、あぐらをかいて居座っている。人間などいないかのように、無機質な液体の水が滴り続ける。
「これって……、折り紙のたんぽぽ、だよね……!」
桃色の反射光でうっすら色味がついている優希の頬が、ひとしお濃くなった。チャックが全開になり、発音で使わない尖った歯までもが笑顔になっていた。
手に握られている、一輪の花。紙細工とは言え、たんぽぽであることに変わりはない。
お世辞にも、綺麗に開花しているとは言えない。花屋の奥深くにしまわれて、枯れるまで陽の目を見なさそうなタンポポ。いや、商品としての価値すらないかもしれない。
……覚えてるよ、最初のこと。
花びらの下側に、緑色の葉がのっぺらぼうになっている。公園でよく見かけるものは反り返っているのだが、これは優希が教えてくれたことだ。
『セイヨウタンポポはここの部分が反り返ってるけど……』
タンポポ教を広めたい一心で航生にしてくれた、植物授業。一言一句や仕草まで、絵に描くように思い出せる。
優希は、今のところ灰色の過去をかなぐり捨ててくれている。煮詰まって穏やかに沸騰しそうな微笑みが、それを物語っている。
一時しのぎにしかならないのは、百も承知だ。いずれまた、過去と正対して乗り越えて行かなくてはならないだろう。
高校でも、女子陣と和解出来ているわけではない。未だに火花を散らしているところを遠目から見ることがある。
……だから、どうした。
悩むなど、後でいくらでもできる事だ。面倒事は、時間を持て余した時にでも処理すればいい。
それよりも、明日を信じてのびのびと生きればいいのだ。大人がいくら大金を持ち出しても、青春時代は二度と帰ってこないのだから。
……俺は、優希のこの笑顔を大切にしていきたいんだ!
まだまだ、受難は終わらないだろう。問題も山積みだ。航生自身も、塾の多忙さに解決策を見出さなくてはならない。
だが、人生から見てそれらはちっぽけなものでしかない。根を張りつめるのがバカバカしく思えるほど、世界は広い。
いつか、優希の笑顔が失われないような世界になることを祈って……
昼間は子供たちで賑わっているはうの公園も、天気が悪い日は風邪を引いてしまうからと遊具に人の姿は見当たらない。開けっ放しの蛇口のような滴が、さびかけの金属棒から垂れ落ちている。
不透明な水色の傘に当たる雨の音は、次第に大きくなっていっている。木々は雨宿りの役に立たず、かといって他に勢いをやわらげられそうな場所はない。
チラチラと入口の方に目をやってみるが、通行人は入れど入場してくる人はいない。通り抜けが出来ない袋小路では、それも仕方のない事だ。
一般に雨のにおいだと言われているのは、微生物の死骸から発せられるにおいが立ち上っているものらしい。気持ち悪くて吐き気がしそうだが、におい自体に拒否感を覚えないのは人体の謎である。
傘の先端から、表面を伝って流れ落ちてきた雨粒がポツリと土にしみ込んでいく。と言っても、土壌が蓄える水の量には限界がある。あふれ出さないことを祈るばかりだ。
航生は、時計台の下に立っている。近所のショッピングモールが出している広告の声も、騒音がかき消してしまっていた。目に見えるものは、うっすらと生える木々とずぶ濡れになった芝生、そして刻々と進む時計の秒針だけである。
天気予報ではすぐに晴れると言っていたが、とんだとばっちりを食らわされた。メッシュ生地が使われている運動靴には雨水が浸食し始め、乾燥機行きは確定だ。
時計が示しているのは、午後四時を少し過ぎたところ。まだ日が大きく傾いていないのことに、夏が近づいていることが感じられる。
手持ちのバッグに雨が入らないように注意しつつ、風が吹いてくる方向に傘を構え直した。どうしても、濡らしたくないのだ。
大した事でもないのに、勘違いした心臓がポンプを速くした。無駄に消耗されたエネルギーは、疲労となって筋肉に蓄積していく。動悸がすると、どうにも落ち着かない。
「おーい!」
思い切って叫んでみたが、天然の防音シャッターに阻まれて反響しなかった。やまびこのごとく跳ね返ってくることも無く、静寂が辺りを包む。
出口に一歩だけ踏み出し、すぐにひっこめた。風邪を引いては元も子もないのは承知の上で、もうちょっと待ってみることにする。
あの日咲いていたタンポポは、どこかへ旅立っていったようだ。役目を果たしてへたっている茎が、そのことを教えてくれている。今日がその日ではなかったことを願う。
しとしとと雨が降る中、独りぼっち。現代社会と隔絶された、分離空間。誰もいないという事実に、心が無性に掻き立てられる。
何を叫んでも、外に声は届かない。そう知った時、押し黙っていた内なる心を遠慮気味に前へと出した。
「……優希は、どうしたら喜んでくれるのか、教えてくれー!」
気持ちの乗った言霊も、大量の流星群に叩き落された。
彼女は、自然をこよなく愛する自然派の人間である。そして、有言不実行であるお偉いさんや意識高い系の人たちとは、一線を画している。
生物だけなら定期考査で満点が取れそうなほどの、枝葉まで網羅されている知識。教科書では省略されていることも、丁寧に説明してくれる。
それでいて、生命を重んじる心が備わっているのだ。ネズミも、幼虫も、人類の大敵であるゴキブリでさえも、危害を加えられない限り元の場所へと逃がしてやる。
ただし、ここで言う『生命尊重』は、いたずらに失われる命を救うと言うものである。競争に敗れた結果である捕食という事象については、一切関与しない。
手を出してしまう事は自然に対する冒涜であり、人間がまるで地球をコントロール出来るかのような虚像と仮初めの優しさを表すだけになってしまう。
物のプレゼントで、優希の心は動かせるのだろうか。親友とまでは仲が深まっていない彼女には時期尚早な気もするのだが、行動せずに得られるものなど何一つない。
富裕層の欲求を満たすためだけに作られた高級品は、むしろ反感を買ってしまう。ブランド品を安値であげると提案されても、優希は昔から補修して使い続けているバッグを持って登校するに違いない。
そもそも、物で釣ると言う行為が正しいのか。自信家ではない航生に、白黒はつけられなかった。
梅雨でもないのに、勢いを増す雨。気象警報で学校が臨時休業になるかどうかをリアルタイムで追いかけるのが平日の基本だが、本日は土休日。部活も行っていない。
傘を後ろにのけぞらして、上空をうかがう。灰色のカーテンが全体に広がっていて、光の差込口を閉ざしてしまっている。
……雨って、氷の粒が溶けてできるんだっけな……。
気温が低いと、氷の粒が連なり合って雪になる。一方、気温が高いと雨となって地表に落ちてくる。それだけの話だ。
待ち合わせの時刻は、午後の四時。もう、五分ほど回っている。
「……ま……せ……」
粘ろうか粘らまいかの思案に明け暮れていると、遠方からかすかに女の子の甲高い声がした。息も切れ切れで、相当急いで走って来たようだ。
砂利道に現れた、ピンク色の傘。間違いなく、優希だ。
「おまたせ……。時間、過ぎちゃってるよね……?」
いつもならふわふわ浮いている前髪も、今回ばかりは貼り付いていた。
航生は、何も言葉が出てこなかった。
……来てくれたんだ……。
公園で落ち合う約束を取り付けてはいたのだが、要件までは伝えていない。他の用事との兼ね合いもあるだろうに、彼女は雨の中優先してくれたのだ。
「それで、用事って何かな……?」
未だ明かされていない、ちっぽけな謎。優希をここまで持ってこさせた、無視できないもの。少なからず、開封するのを楽しみにしているようだ。
航生は、おもむろにバッグからあるものを取り出した。
一晩で作り上げた割に、平均以下の仕上がりになってしまった。技量不足に加えて、この運から見放された天候がこの悲劇を生んだのだ。
……何をプレゼントしたらいいのか、分からなくなって。
高級品志向ならブランド品でも贈っておけば済むが、思いを形に変えるという行為は困難を極めた。抽象的なものから実物を作り出すと言われても、教科書のように答えがあるわけではない。
アイデアがひょっこりと顔を出しては、気に食わないとゴミ箱へ直行する。その繰り返しだった。カーテンの隙間から月明かりが差して、深夜に突入したことに気付いたくらいだ。
しおれていて、所々破れている、お粗末な代物。素人でももっと上手な姿でここまで持ってこれる。
……下手くそではあるけど。
しかし、雑巾を一滴まで搾り取る仕草の中に、身を削る痛さは無かった。
お金の為でもない、名誉の為でもない、一人の同級生というかけがえのない存在への感謝。何がどうなれば、苦痛に変化するのだろうか。
割れものを受け取るかのような手つきで、優希は贈り物を手に取った。
彼女の食い入るような目線が、そのものをくまなく巡回した。何処からどう見ても、見たままだと言うのに。
梅雨にしては早い雨音に支配された芝生が、あぐらをかいて居座っている。人間などいないかのように、無機質な液体の水が滴り続ける。
「これって……、折り紙のたんぽぽ、だよね……!」
桃色の反射光でうっすら色味がついている優希の頬が、ひとしお濃くなった。チャックが全開になり、発音で使わない尖った歯までもが笑顔になっていた。
手に握られている、一輪の花。紙細工とは言え、たんぽぽであることに変わりはない。
お世辞にも、綺麗に開花しているとは言えない。花屋の奥深くにしまわれて、枯れるまで陽の目を見なさそうなタンポポ。いや、商品としての価値すらないかもしれない。
……覚えてるよ、最初のこと。
花びらの下側に、緑色の葉がのっぺらぼうになっている。公園でよく見かけるものは反り返っているのだが、これは優希が教えてくれたことだ。
『セイヨウタンポポはここの部分が反り返ってるけど……』
タンポポ教を広めたい一心で航生にしてくれた、植物授業。一言一句や仕草まで、絵に描くように思い出せる。
優希は、今のところ灰色の過去をかなぐり捨ててくれている。煮詰まって穏やかに沸騰しそうな微笑みが、それを物語っている。
一時しのぎにしかならないのは、百も承知だ。いずれまた、過去と正対して乗り越えて行かなくてはならないだろう。
高校でも、女子陣と和解出来ているわけではない。未だに火花を散らしているところを遠目から見ることがある。
……だから、どうした。
悩むなど、後でいくらでもできる事だ。面倒事は、時間を持て余した時にでも処理すればいい。
それよりも、明日を信じてのびのびと生きればいいのだ。大人がいくら大金を持ち出しても、青春時代は二度と帰ってこないのだから。
……俺は、優希のこの笑顔を大切にしていきたいんだ!
まだまだ、受難は終わらないだろう。問題も山積みだ。航生自身も、塾の多忙さに解決策を見出さなくてはならない。
だが、人生から見てそれらはちっぽけなものでしかない。根を張りつめるのがバカバカしく思えるほど、世界は広い。
いつか、優希の笑顔が失われないような世界になることを祈って……
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