源氏、恋を織る

Ilysiasnorm

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第14話「すれ違う声、届かぬ想い」

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午前七時半。
 春の雨が静かにビル街を濡らしていた。

 藤ヶ原グループ本社のフロアには、まだ半分ほどの明かりしか点いていない。
 紫はひとり、パソコンの画面に向かって指を走らせていた。
 期限が迫るプレゼン資料――その最終稿を仕上げるためだ。

 (……もう少し、数字を詰めれば)

 焦りを抑えつつ、紫はグラフを修正していく。
 そのとき、デスクにメールの通知が届いた。

 送信者:六条玲香
件名:「資料修正の件」

 開いてみると、短い指示が並んでいた。
 「第2項目の構成を削除」「重点はコストより効率に」「源次さん了承済」――。

 (……光さんが、これを?)

 紫は一瞬ためらったが、迷いを押し殺して作業を進めた。
 だが、心のどこかに違和感が残った。

 昼過ぎ。
 経営企画部の会議室では、源次が別件の打ち合わせを終えて戻ってきた。

「……あれ、資料、だいぶ構成が変わってるな」

 画面を覗き込んだ源次の眉がわずかに動く。
 紫は緊張して椅子から立ち上がった。

「す、すみません……玲香さんから修正指示が来ていて……」

「玲香から?」

 一瞬、源次の表情に陰が落ちた。
 そして、小さく息を吐く。

「……彼女の意図は分かるけど、これは承認してない。元の案のほうがいい。君の感覚で戻してくれ」

「……はい」

 紫の声は少し震えていた。
 光源次はその様子を見つめながらも、あえて何も言わず、席を離れた。

 残された紫は、モニターに映る自分の顔を見つめる。
 (私、勝手に勘違いして……)

 小さく息を吐き、手を止めた指先をぎゅっと握りしめた。

 夕方。
 休憩室の窓際。
 紫はカップにお茶を注いでいると、背後から声がした。

「紫さん、朝から頑張ってるみたいね」

 振り返ると、葵が立っていた。
 いつも通り完璧なスーツ姿。だが、その目の奥に微かな疲労がにじむ。

「はい……ちょっと行き違いがあって。ご迷惑をおかけしました」

「いいの。誰にでもあることよ。……でもね、恋と同じで、頑張りすぎると壊れるときもあるの」

 その言葉に、紫は動けなくなった。
 葵は微笑を浮かべながらも、どこか遠くを見るような目をしていた。

「葵さん……」

「光さんは、正直すぎる人。嘘がつけない。だから――信じるときは、ちゃんと信じてあげて」

 そう言って、葵は踵を返した。
 紫の胸の奥に、重い何かが落ちていく。

 夜。
 社屋の明かりがひとつ、またひとつと消えていく。
 紫は誰もいないデスクで、ひとり画面を閉じた。

 スマートフォンを取り出し、何度もためらった末、メールを打ち始める。

> 件名:「今日の件について」
本文:「もし私のやり方が間違っていたら、教えてください。
    ちゃんと向き合いたいと思っています。」

 送信ボタンを押した瞬間、心臓が跳ねた。
 返事が来るかどうかも分からないまま、ただ画面を見つめ続けた。

 十数分後。
 通知音が鳴る。

> 送信者:光源次
本文:「藤木さんのやり方は間違っていない。
    焦ると、人の声が届かなくなることがある。僕も昔そうだった。」

 短い言葉だった。
 けれどその文面に、紫は何度も指先で触れた。
 胸の奥が、じんわりと温かくなる。

 同じ頃。
 光源次のスマートフォンに、もう一件のメールが届いていた。

 送信者:六条玲香
件名:「覚えてる?」
本文:「今でも、あの時の約束を。」

 源次は無言で画面を見つめ、ゆっくり閉じた。
 窓の外では、雨が夜景の光を滲ませている。
 まるで、夢の炎の残り火のように――。

 紫は夜道を歩いていた。
 ふと見上げた空に、雨の雫が光る。

 (……光さん、私はあなたの声を信じたい)

 その祈りのような想いは、誰に届くともなく、
 雨音の中に溶けていった。
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