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第一章
女傑
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ジェロスの一日は入浴から始まる。身を清め、皮膚に香油を塗り、それから白いドレスを身に纏うと椅子に座った。侍女が三人、それぞれ化粧、髪、爪を整えて装飾を施す。
「ジェロス様。ミルクにございます」
ニザールの差し出したミルクを一瞥すると、ジェロスはまだ塗りたてのマニキュアが乾いていない左手で、それを叩き落とした。
「ワインが飲みたい」
「申し訳ございませぬ、ワインは昨日出したもので最後にございました。次の入荷までには六日ほどかかるかと」
ジェロスは崩れたマニキュアを直すように素早く指示すると、ニザールに目も合わせずに低い声で言う。
「明日にはワインを用意せよ。ないならその辺の王家から根こそぎ奪って参れ。そなたにできることなどそれくらいじゃ」
「……承知致しました」
ニザールは床に溢れたミルクと器を片付けると、丁寧に頭を下げて部屋を出て行った。
「使えぬ男。顔が良いとて、それだけでは何の役にも立たぬ……ああほれ、瞼は緑色だといつも申しておるではないか」
「ジェロス様。緑色のお粉は、先日全て捨ててしまわれました」
バツが悪そうに俯く侍女に、ジェロスは目を泳がせ瞬きを増やす。
「ああ、そうであったな。瞼は青でよい。アイラインは、いつもより太めにせよ」
ジェロスの指示のもと化粧がなされ、かつらは完全人毛の高級品を被る。一つ一つ丁寧に編まれた黒髪、前髪は眉毛の上で揃えるようミリ単位で調節した。耳飾りと首飾りをつけ、完成した姿を鏡で確認する。
ジェロスは絶世の美女であった。
世の男性は皆、ジェロスの放つほろ苦いフェロモンと悲しげに潤む瞳に、吸い込まれるように夢中になった。決して愛想のよい方ではなかったが、それが逆に手の届かぬ高貴な雰囲気を纏っていた。
ジェロスは貧しい家に生まれたが、その容姿のおかげで生きることに困ったことはなかった。ただ一つ、その家の一人娘であったジェロスには、なかなか良い縁談が巡ってこなかった。もちろん引く手数多であった。だが両親がほとんどの男性をジェロスに相応しいとは認めずに、門前払いしてしまうのだ。
ゲブと出会ったのは二十四歳の頃。二十四にもなると、村人のほとんどは結婚して子を持っていた。ジェロスを手放すことを惜しんでいた両親もだんだんと現実に気づき、家でただただ時を過ごすジェロスに焦りを感じ始める。
「ジェロス、お前もいい歳だ。そろそろ結婚して子を成しておくれ。教養もない、働くこともできないお前には、もうその道しかない」
衝撃だった。
ジェロスは裁縫も料理もしなければ、力仕事もしない。だがそれは身体に傷をつけぬようにと、全て両親に従った結果だった。何より男性経験のないジェロスには、当然子供などできない。
“可愛いジェロス”
“時折微笑みさえすれば何もしなくていい”
“私たちの言う通りに”
ひとり家を出たジェロスは、懐胎の儀式の場に訪れた。何組もの夫婦が揃って列に並ぶ。共に手を握り合い、決死の顔でその時を待つ夫婦。大きなお腹を撫でる妻を、愛しそうな目で見つめる夫。儀が終わり帰りの道で嬉し涙を流す幾人もの顔が、ジェロスには理解できなかった。いや、理解できないのは自分の感情だ。
初めて覚えた、嫉妬だった。
その場にへたり込む。儀が終わり陽が沈んでも、ジェロスはずっとネイタンの観客席にいた。この先どうすれば良いのか、見当もつかなかったのだ。
「ジェロスよ」
突然の声に振り返ると、そこはもう外ではなかった。煌びやかに装飾されたテーブル。焼き魚やステーキ、フルーツなどが所狭しと置かれているその席に、ジェロスは腰掛けていた。
「これは……」
「全て、そなたのために用意した。我は食事はせぬのでな。そなたの美貌は唯一無二じゃ。その緑色の瞼、実に似合うておる」
「あなた、誰なの?」
ジェロスの無礼な受け答えに、その場の全員が凍りつく。そう、彼以外の。
「我が名はゲブ、この世の神の父である。本日より、そなたを我の妻としよう。心して務めあげよ——」
「……ロス様、ジェロス様?」
侍女の声に、我に帰る。胸の奥底に沈めたはずの記憶が浮遊してくるのを、ジェロスは眉間に皺を寄せて強引に捩じ伏せた。
「始めても?」
「ああ。宜しゅう頼む」
鏡に映る自身を睨み付けると、ジェロスは目を瞑り、深く息を吸った。
「では。本日も瞑想から」
ジェロスが行う儀は八つ。
貪食の儀、色欲の儀、金欲の儀、悲嘆の儀、憤怒の儀、怠惰の儀、虚栄の儀、傲慢の儀。
全ての人間の罪をその身で浄化し、神に近づくための試練。ジェロスは神殿に来たその日から十数年、一日十時間掛かるこの儀を欠かしたことは、一度たりともない。
「ジェロス様。ミルクにございます」
ニザールの差し出したミルクを一瞥すると、ジェロスはまだ塗りたてのマニキュアが乾いていない左手で、それを叩き落とした。
「ワインが飲みたい」
「申し訳ございませぬ、ワインは昨日出したもので最後にございました。次の入荷までには六日ほどかかるかと」
ジェロスは崩れたマニキュアを直すように素早く指示すると、ニザールに目も合わせずに低い声で言う。
「明日にはワインを用意せよ。ないならその辺の王家から根こそぎ奪って参れ。そなたにできることなどそれくらいじゃ」
「……承知致しました」
ニザールは床に溢れたミルクと器を片付けると、丁寧に頭を下げて部屋を出て行った。
「使えぬ男。顔が良いとて、それだけでは何の役にも立たぬ……ああほれ、瞼は緑色だといつも申しておるではないか」
「ジェロス様。緑色のお粉は、先日全て捨ててしまわれました」
バツが悪そうに俯く侍女に、ジェロスは目を泳がせ瞬きを増やす。
「ああ、そうであったな。瞼は青でよい。アイラインは、いつもより太めにせよ」
ジェロスの指示のもと化粧がなされ、かつらは完全人毛の高級品を被る。一つ一つ丁寧に編まれた黒髪、前髪は眉毛の上で揃えるようミリ単位で調節した。耳飾りと首飾りをつけ、完成した姿を鏡で確認する。
ジェロスは絶世の美女であった。
世の男性は皆、ジェロスの放つほろ苦いフェロモンと悲しげに潤む瞳に、吸い込まれるように夢中になった。決して愛想のよい方ではなかったが、それが逆に手の届かぬ高貴な雰囲気を纏っていた。
ジェロスは貧しい家に生まれたが、その容姿のおかげで生きることに困ったことはなかった。ただ一つ、その家の一人娘であったジェロスには、なかなか良い縁談が巡ってこなかった。もちろん引く手数多であった。だが両親がほとんどの男性をジェロスに相応しいとは認めずに、門前払いしてしまうのだ。
ゲブと出会ったのは二十四歳の頃。二十四にもなると、村人のほとんどは結婚して子を持っていた。ジェロスを手放すことを惜しんでいた両親もだんだんと現実に気づき、家でただただ時を過ごすジェロスに焦りを感じ始める。
「ジェロス、お前もいい歳だ。そろそろ結婚して子を成しておくれ。教養もない、働くこともできないお前には、もうその道しかない」
衝撃だった。
ジェロスは裁縫も料理もしなければ、力仕事もしない。だがそれは身体に傷をつけぬようにと、全て両親に従った結果だった。何より男性経験のないジェロスには、当然子供などできない。
“可愛いジェロス”
“時折微笑みさえすれば何もしなくていい”
“私たちの言う通りに”
ひとり家を出たジェロスは、懐胎の儀式の場に訪れた。何組もの夫婦が揃って列に並ぶ。共に手を握り合い、決死の顔でその時を待つ夫婦。大きなお腹を撫でる妻を、愛しそうな目で見つめる夫。儀が終わり帰りの道で嬉し涙を流す幾人もの顔が、ジェロスには理解できなかった。いや、理解できないのは自分の感情だ。
初めて覚えた、嫉妬だった。
その場にへたり込む。儀が終わり陽が沈んでも、ジェロスはずっとネイタンの観客席にいた。この先どうすれば良いのか、見当もつかなかったのだ。
「ジェロスよ」
突然の声に振り返ると、そこはもう外ではなかった。煌びやかに装飾されたテーブル。焼き魚やステーキ、フルーツなどが所狭しと置かれているその席に、ジェロスは腰掛けていた。
「これは……」
「全て、そなたのために用意した。我は食事はせぬのでな。そなたの美貌は唯一無二じゃ。その緑色の瞼、実に似合うておる」
「あなた、誰なの?」
ジェロスの無礼な受け答えに、その場の全員が凍りつく。そう、彼以外の。
「我が名はゲブ、この世の神の父である。本日より、そなたを我の妻としよう。心して務めあげよ——」
「……ロス様、ジェロス様?」
侍女の声に、我に帰る。胸の奥底に沈めたはずの記憶が浮遊してくるのを、ジェロスは眉間に皺を寄せて強引に捩じ伏せた。
「始めても?」
「ああ。宜しゅう頼む」
鏡に映る自身を睨み付けると、ジェロスは目を瞑り、深く息を吸った。
「では。本日も瞑想から」
ジェロスが行う儀は八つ。
貪食の儀、色欲の儀、金欲の儀、悲嘆の儀、憤怒の儀、怠惰の儀、虚栄の儀、傲慢の儀。
全ての人間の罪をその身で浄化し、神に近づくための試練。ジェロスは神殿に来たその日から十数年、一日十時間掛かるこの儀を欠かしたことは、一度たりともない。
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